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スエズ運河の歴史

 先日3/23、日本が船主であるタンカーがスエズ運河で座礁しました。その際、スエズの歴史を整理したいと思い記事にしました。スエズは地政学的にも重要な地域で、今や海運の要衝であり、2度の世界大戦や4度の中東戦争においても舞台になった地域でもある。

紀元前、建設された運河

 紀元前2000年頃、エジプト王朝はナイル川と紅海を繋ぐ運河の建設をしていたとされる。その経路はカイロ市付近からスエズ市である。
 当時の紅海は現代よりも北まで海進、現在のグレートビター湖やティムサーハ湖は海域だったそうである。研究では、紅海の海岸線は徐々に後退し、数世紀後に現在の位置まで下がったと考えられている。また、ナイル川に堆積する泥が船舶の通航を困難とし、当時の運河を維持補修することは困難であったとれさる。その運河は現在灌漑用水路として利用されている。

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現在のスエズ運河を建設する検討

 19世紀頃、欧州から東へ抜ける海路を結ぶ当時の問題認識は、

 地中海と紅海(スエズ湾)の高低差

であった。そのため様々な研究と調査がなされ、1830年にフランシス・チェスニーと言う人物が、イギリス政府へ報告書を提出した。

 紅海と地中海には海面差がない。 

運河建設が可能であるとの報告がされます。当時、その区間は馬車輸送により海上移動の短縮を図っていた。その「陸峡」の整備によりヨーロッパとインドを結ぶ航路を約30日から数ケ月程度の短縮をしていた。また、その報告を契機に運河建設に関する様々研究、働きかけが行われていた。しかし、運河建設を実現するには至らなかったのです。
 1846年、スエズ運河研究会(Société d'Études du Canal de Suez)が開催され、スエズ運河建設の検討が行われた。しかし、当時のイギリスはインド貿易において影響力を持っており、その地位が脅かされることを恐れ、運河開通に難色を示し、その一方でカイロ経由のスエズに至る鉄道を敷設が好ましいと考え、鉄道が開通することとなる。

フェルディナン・ド・レセップス

 レセップスは、1856年にスエズ運河建設を行う会社の設立について、エジプト総督のサイード・パシャから利権とともに運河開通から99年間の事業権も得ている。レセップスは1830年代にフランス駐エジプト大使だった。その大使だった時に、土木などの専門家の意見などを聞き、運河についてあらゆる角度から検討をし、運河の全体像と詳細に関する報告書を纏め上げた。ついに、1858年スエズ運河会社を設立し、現在のポートサイド沿岸での建設工事が開始、運河掘削には約10年間を要したとされる。工事間、スエズ運河会社の国際的評判は芳しくなかった。その理由は運河建設に係る労働力が奴隷労働であったからとされる。
 そのような国際問題のほか、技術的、財政的な問題を克服し、運河の総建設費は当初予想の2倍に膨らんだが、1869年にスエズ運河は開通した。
 開通当時、スエズ運河会社は大きな損失を抱えていたが、開通とともに世界貿易に劇的な効果をもたらすこととで、大きな収益をあげた。しかも、一番反対した英国の船がスエズ運河を通過する船の8割だったとの記録が残っている。

英国のスエズ運河への介入

 運河開通後、英国は数度の介入をしている。

1875年 スエズ運河会社の筆頭株主になろうとする
    (議会より違憲とされ告訴)
1882年 エジプトに軍事介入
1888年 スエズ運河の自由航行に関する条約締結
   「スエズ運河はイギリス管轄下の中立地帯」

 この頃の経済状況はとにかく厳しく、当時オスマントルコなども赤字財政、しかしスエズ運河は爆益。英国がスエズ運河が欲しいのですがお金がなく、議会を通じて用立てを試みるも失敗し、最後は軍事介入となります。
 そして、1951年10月までイギリスの管轄下なった以降も、2度の大戦を経てイギリス軍の駐留は続いていた。そんな中、エジプト政府はイギリス軍に対し条約破棄を宣言。エジプト国内は混乱し、民衆運動がゲリラ化する事態に発展し、エジプト王国を脅かすところまで及んだため、国王が中心となって妥協が図られ、イギリス軍の駐屯は継続することとなった。ただ、この事件によってエジプトの社会・経済体制の矛盾が露呈し、6か月後のエジプト革命となる。

スエズ運河の危機

 上述の介入以降、エジプトはソ連と交渉を持つようになった。そして、1956年にスエズ運河を国有化。スエズ運河庁へ管理を移管させる宣言をした。これに反発した、イギリスはフランス、イスラエルと密約を交わし軍事行動を起こした。第二次中東戦争である。しかしこの作戦により、イギリスはアラブ諸国や反植民地主義世論から厳しい批判を受けるようになった。

 その後、シナイ半島から撤退しないエジプト軍に対する奇襲攻撃を1967年6月にイスラエルが敢行する。第三次中東戦争である。そうしてシナイ半島とスエズ運河制圧に乗り出した。両軍戦線は運河の線である。
 1973年10月の第四次中東戦争、運河はイスラエルが占拠したシナイ半島に向かうエジプト軍と、エジプト本土に攻め込むイスラエル国防軍とが相互に渡河作戦を実施している。運河周辺には、戦車などこの戦争の残骸が記念碑として残されている。主な戦場となった中国農場、涙の谷などが知られる。その間はスエズ運河は通航不能状態が続いた。その8年間に14隻の貨物船が運河に閉じ込められる。

エジプトとイスラエルの和平

 第四次中東戦争後、イスラエルとエジプトは和平の方向に向った。運河再開、シナイ半島における両国の兵力引き離し。スエズ運河に撒かれた機雷を掃海と不発弾撤去。これにより運河にあった機雷の99%が掃討され1975年に運河通行は再開された。

 その後は、2015年に拡張工事をしたが、南側は拡張工事を見送った。そして今に至ります。 

以上です。最後までお読みなった方に感謝です。