ポーグスを知らない若者たちへ
若い人たちはポーグスというバンドを知らないかもしれない。しかし万が一そんな事があるとしたら、この世を生きる意味のいくばくかが失われるはずで、全くの余計なお世話なのかもしれないが、その魅力を少しでも宣伝できたら、と思う。
知らないかもしれないなどと言っておきながら変な話だが、ポーグスはアイリッシュミュージックの歴史において、最もポピュラーなバンドであると思う。U2の方がCDは沢山売れたかもしれないが、彼らの音楽はグローバルなロックミュージックであって、アイルランド音楽とは言えない。エンヤとかチーフタンズの方がヒットチャートで上位だったり、グラミー賞とったりした事があると思うが、実際のところ「熱烈なファンの多さ」という観点でいうとポーグスには及ばないのではないか。ついでに言うとヴァン・モリスンの方がアルバムを沢山出しているが、彼はブルースマンであって、アイルランド音楽のミュージシャンではない。
彼らの音楽の魅力とは何か、強引に箇条書きにするとこんな事だろうか。
① アイルランド民謡とパンクのビートを合体させた血湧き肉躍るサウンド
② シェインの書くロマンチシズム溢れる歌詞
うーん、なんだかイマイチだが、進めよう。
① アイルランド民謡とパンクのビートを合体させた血湧き肉躍るサウンド
ポーグスの結成は1983年(この年は何かマジックがあるとしか思えない)。もともとニップルエレクターズという、直訳しづらい名前のパンクバンドをやっていたシェインが、地下鉄の通路でティンホイッスルを吹いていたスパイダー・ステイシーと出会い、アイリッシュトラッドをやろうとバンドを組んだのが始まりなんだそうだ。シェインは当時、ピストルズやクラッシュ、ジャムのライブに行っては暴れていたんだそうで、その頃の映像が残っている。
このパンクスピリッツがポーグスのルーツである。パンクが好きじゃない人はポーグスを好きにはなれないのではないだろうか。もし「パンクは嫌いだけどポーグスは好きだ」という人がいたら、インタビューをしてみたい。連絡をください。
デビュー当時はクラッシュの前座などをやっていたという。また4枚目のアルバム『ヘルズ・ディッチ』 - Hell's Ditch (1990年)、はジョー・ストラマー自身がプロデュースをしている。加えて、シェインがアルコール中毒でにっちもさっちも行かず、ポーグスをクビになった1991年頃、シェインの代役に手を挙げたのはなんとジョー・ストラマーであった。代役というか、ほぼ後釜である。日本にもツアーで来て僕も観に行った。(結局ジョー・ストラマーを生で観たのはそのポーグスのライブだけであった。)
という訳で、どこからどう分析してもポーグスというバンドの底にはパンクスピリットが流れている、というのは明白である。その証明として、彼らをきっかけとして「アイリッシュ・パンク」という音楽ジャンルまで生まれてしまった。アメリカのドロップキック・マーフィーズやフロッギング・モリーなどのバンドである。日本にもザ・チェリー・コークスや、クローバーズ、オールディックフォギーなどがある。ジャンルが一つできてしまう、と言うのはなかなかの影響力ではないだろうか。彼らが出たての頃は音が若すぎて、激しすぎてちょっとついて行けなかったが、年月が過ぎ彼らも良い年になって、それなりの雰囲気になっているはずだから聞いてみようかな、と思っている。何よりみんな続けている、というのが素晴らしい。
ポーグスのファーストアルバムは『赤い薔薇を僕に』(1984) - Red Roses for Meである。
代表曲はやっぱりこれである。
歌詞を少し引用すると、
夕べ寝ていたら
ビーハンに会う夢を見た
彼と握手し、一日を過ごした。
俺は尋ねたんだ
人生の哲学の核心について
彼は次のような明快でシンプルな言葉を口にした
俺は行くぞ、俺は行くぞ
どっちに風が吹こうとも
俺は行くぞ、俺は行くぞ
ウイスキーの流れる方へ
ここに出てくる「ビーハン」というのはアイルランドの詩人、劇作家のブレンダン・ビーハンのことである。まだ10代の頃にIRAのテロリストとして捕まって少年院に収監され、その顛末を書いた「ボースタル・ボーイ」という小説が有名である。日本語訳は出ていない。ちなみにその少年院で時刻を告げる金属のトライアングルが”Auld Triangle”で、その歌をシェインは1stアルバムで歌っている。ダブリナーズのルーク・ケリーも歌っている。
ビーハン本人が歌うオールドトライアングルも見つけた。
ビーハンは大酒飲みとしても有名で、またアイルランド民謡を1000曲歌うことができる、と豪語していたという。
歌詞の通りポーグスはビーハンの哲学を継承している、はずである。
ちなみに1stアルバムの全13曲のうち、トラッドは6曲(ビーハンのAuld Triangleもトラッドとすれば)であとはシェインの作曲である。エルビス・コステロプロデュースの2ndアルバムの『ラム酒、愛、そして鞭の響き』 - Rum Sodomy & the Lash (1985年)では12曲中5曲がトラッドである。(正確には3曲。ユアン・マッコールのダーティ・オールド・タウンとポーグルのワルチング・マチルダをトラッドとすると5曲になる)このようにアルバムの半分近くの曲がトラディショナルソングである、というのはなかなか珍しいことなんじゃ無いだろうか。
そのセカンドアルバムからダーティオールドタウン。こちらの動画ではシェインがパブで歌っている。
② シェインの書くロマンチシズムに溢れる歌詞
シェインはこう見えて文学青年である。
相当昔、雑誌クロスビートだったか、ザ・フォールのマーク・E・スミスとニック・ケイヴとシェインの三人の対談記事が載った事があった。今回ちょっと探してみたらあった。1989年のイギリスの音楽雑誌NMEの企画だったようだ。記事全文が載っている。
ニーチェについて、シェインとマーク・E・スミスが激論をかわしている。シェインはニーチェは優生思想のファシストだといい、マーク・E・スミスは、それは勝手にナチスが利用したけで、ニーチェ自身は反ナチスなんだ、と擁護している。またプレスリーは兵役前と後とではどちらが良いか、みたいな議論もされている。
何が言いたいかというとただのパンク少年だったらニーチェなんて読まないよね、ということ。映画「シェイン」の中でもアイルランドの作家について、イエイツは独立戦争の時に弱腰だったから嫌い、ジョイスは卑猥な言葉遊びがおもしろくて大好き、ジェイムズ・クラレンス・マンガンには影響を受けた、などと話しているシーンがある。
1994年ポーグスを首になったシェインがPopesというふざけたネーミングのバンドを作り、最初のアルバム”The Snake”の中の”The Snake With Eyes of Garnet”にはそのマンガンが登場する。
昨夜、夢を見ながら
海を渡る道を
ジェームス・マンガンが慰めてくれた
讃美と詩で
そんな文学青年の書く詩は、本当素晴らしいと思う。
『堕ちた天使』 - If I Should Fall from Grace with God (1988年)に入っている、最大のヒット曲”Fairytale of New York”の短編映画のような歌詞もいいが、ぼくの好きなのは、『ピース&ラヴ』 - Peace and Love (1989年)に入っている”Misty Morning, Albert Bridge”である。
テムズ川のほとりに二人で立っている夢を見た。
冷たい灰色の水が、霧の朝の光の中で波打っている。
煙草にマッチをかざし、霧の中で煙が巻き上がるのを眺めた。
俺たちの間の海のように青い君の目が、微笑んでいた。
イギリス人とアイルランド人のカップルが、朝まで飲んで別れ難く、テムズ川のほとりでタバコに火をつけて見つめあっている情景が手に取るように伝わらないだろうか。(注:よく考えたらこの曲はシェイン作ではなく、バンジョーのジム・ファイナー作であった。)
今気づいたのだが、ここまで引用した歌詞、全て「夢で見た」で始まっている。「男はつらいよ」もしくは「じゃりん子チエ」の毎話恒例の冒頭シーンみたいである。
シェインは『ヘルズ・ディッチ』 - Hell's Ditch (1990年)を最後に、バンドをクビになり、その後『ウェイティング・フォー・ハーブ』 - Waiting for Herb (1993年)、『ポーグ・マホーン』 - Pogue Mahone (1996年)の2枚のアルバムはシェイン抜きで作られる。それぞれとてもいいアルバムなのだが、やはりシェインがいないと難しい。
ああ、しかしこの曲(下の"Tuesday Morning")なんて最高だな。僕のバンドのティンホイッスル担当は、ポーグスのライブに行って、スパイダー・ステイシーからホイッスルにサインをもらっていて宝物にしている。
ちょっと取り止めがないが、少しでもポーグスの魅力が伝わっただろうか。去年の8月にダリル・ハントが72歳で亡くなったというニュースがあった。またギターのフィリップ・シェブロンはすでに2013年に亡くなっている。シェインも最近様子をツイッターなどで見るとヨレヨレだが、他のメンバー含めてどうか長生きしてほしい。
最後はポーグスでは無いのだが、シニード・オコーナーとシェインがデュエットしているこの曲で締めたい。全然売れなかったと思うが、なかなかいい曲じゃないかと思う。シニードがこの世の人とは思えない美しさ。これこそアイルランド版美女と野獣だろう。