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「#発達は楽しい」から見る当事者の背景-バイオサイコソーシャルの視点から―

#発達は楽しい

「#発達は楽しい」というハッシュタグを先日TLで知った。
内容としては様々なものがあったが、総じて言えるのは、「発達障がいの特性のおかげで楽しい人生を送れている、又はその特性を生かしてこんな事業を立ち上げた」といったものであった。

しかし、発達障がい者みんながそう思うか、というと答えは「No」であろう。

実際に、「楽しいわけがない」「この特性のせいでどれだけ人生狂わされてきたか」といった当事者の悲痛な叫びともとれるツイートも数多く見たし、
「#発達は楽しい」に対抗して、「#発達は楽しくない」というハッシュタグも作られていた。

「同じ発達障がい者なのに、どうしてこんなに違うの?」
そう思う人も少なくないだろう。
しかし、その考え方こそ、この問題を考えていく上で真っ先に排除しなければならない考え方である。


何故こんなにも差が出るのか―バイオサイコソーシャルの視点から

「バイオサイコソーシャル」と聞いてピンとくる人は恐らく少ないだろう。
知っている人がいたらほぼ間違いなく医療看護福祉辺りの業界にいる人だと思っていい。

かなり雑だが図にするとこんな感じである。

バイオサイコソーシャルとは、「クライエント(患者や相談者)を生理的・身体的な視点(バイオ)、精神的・心理的視点(サイコ)、社会環境的視点(ソーシャル)の3点から見ていきましょう」という考え方である。

バイオ(bio)に当てはまるのは、病気や食生活、体形等の健康状態、又は歩行、食事、排泄等の日常生活動作(ADL)や買い物、料理、掃除等の手段的日常動作(IADL)である。
サイコ(psycho)に当てはまるのは、所謂「気持ち」とか「感情」とか「気分」と呼ばれるものである。性格や考え方もここに当てはまる。
ソーシャル(social)に当てはまるのは、生活環境や人間関係、あるいは就労状況や収入、福祉サービスなんかもここに当てはまる。

では、今回の本題である「発達障がい」について考えてみよう。

ここでいう「発達障がい」は、「自閉症スペクトラム障害(ASD)」、「注意欠陥多動性障害(ADHD)」、「学習障害(LD)」、その他の広汎性発達障害全般ということにする。


バイオの視点

まず、同じ発達障がいでもバイオの時点で大きく違うことが多い。
分かりやすいところでいうなら、「症状の程度」、「知的能力」、「二次障害の有無」である。
私自身、ADHDのグレーゾーンであるが、忘れ物や無くし物が多く、いろんなところにぶつかってしまう、過集中、ケアレスミスと言った症状はあるものの、薬を服用することもなく、工夫してそれなりの生活を送れている。
グレーゾーンの私でさえも、これだけはっきりとした症状が出ているのだから、中度~重度の人は言うまでもない。
さらに、ADHDだけでなく、ASDやLD等を併発している人だっている。
Twitterを見ても、ADHDの衝動性と、ASDの言葉の裏を読む力の無さのせいで人間関係のみならず、仕事も上手くいかなかった人は多く見受けられる。
これに加えてIQも境界域だったり、知的障がいもあるとなれば、抽象的な物事を理解する力が不足している為、学生の頃から勉強ができずに苦労してきた人もいるだろう。
何重にも障がいが重複していて、尚且つ二次障害(後ほど説明)もある人と、ADHD単体且つグレーゾーンの私とは、その苦労の差は比べ物にならないことは一目瞭然である。


サイコの視点

次に、サイコの視点から見てみよう。
今回TLで話題になった「#発達は楽しい」と「#発達は楽しくない」の両者がいるように、自分の障がいについてどのように捉えるかはそれこそその人次第である。
例えば同じADHDでも、「この衝動性の『おかげで』色んな体験ができて楽しかった!!」という人もいれば、「衝動性の『せいで』色んな人からの信頼を失って辛かった」という人もいる。
ここは本人の性格によるところが多いだろう。
余談だが、HSP(繊細過ぎる人)はバイオというよりかはサイコに当てはまると思う。
また、障がいを楽しいと捉えるか、辛いと捉えるかは、バイオやソーシャルに違いがあれば勿論変わってくる。バイオに関しては先程説明したように、障がいの重複等が挙げられる。


ソーシャルの視点

では、ソーシャルの視点から見るとどうか。
ソーシャルワーカーを目指す者の端くれとして、「#発達は楽しい」というハッシュタグについて考察する際に、私が最も重視している項目でもある。

Twitterの発達障がい界隈(とここでは呼ばせて頂く)の方のbio欄を見てみると、結構な確率で、「AC」と書かれている方が多い。
ACとは―アダルトチルドレンの略称であり、機能不全家族で育ったということを指す。
最近の言葉を使うのであれば、「毒親」と呼ぶにふさわしい家庭で育ったということだろう。
大学の児童福祉論担当の先生も次のように仰っていた。
「育児自体大変なのに、お子さんが障害を持つことによって更に(育児が)大変になってしまうんですよね。そこでストレスが溜まってついつい手が出てしまう親御さんも残念ながらいらっしゃるんですよ。実際に、児童養護施設にも発達障がいや知的障がいをもつ子供さんが沢山いらっしゃいます。」
このように、障がい児と虐待には因果関係が存在すると見てもいい。

また、ACではなかったにしろ、その障がい特性から人間関係の構築が上手くいかなかったり、仕事でミスを連発して解雇処分を受けた人もいる。生活面においても、カードを使いすぎて破産したり、趣味に熱中しすぎて昼夜逆転生活を送った結果、生活リズムが狂う人もいる。学生であれば、勉強についていけない、又は友達がいない等といった理由から保健室登校や不登校を経験した人もいるだろうし、「やむを得ず」中卒や高校中退を選んだ方もいらっしゃることだろう。その結果、「元々発達障がいがあったのにも関わらず、適切な支援がなされなかったことによって、社会的にも上手くいかず、うつ病や双極性障害、または依存症等の別の精神疾患を併発してしまう」方もいる。これが所謂『二次障害』である。
このような決して良いとは言えない環境で生活してきた発達障がい者が、「#発達は楽しい」と言えるだろうか。いや、言えない。

逆に言えば、平均年収以上の家庭に生まれ、両親や親戚等から沢山の愛情を受けて育ち、障がいに対して適切な支援及び理解を得られて、友人や恋人にも恵まれ、仕事やプライベートも充実していれば、いくら障がいがあれどもそれなりに幸せだと言える人生を送れることだろう。それが今回の「#発達は楽しい」というタグに繋がる。勿論、バイオやサイコの面も大きいが。


これからどうする?

ここまで散々な論理を展開したが、「じゃあ、どうすればいいの?」と思う方もいるだろう。

生憎、私は一介の学生の身分であり、専門家ではないので「これが正解だ!」と断言できない。というか、する資格もない。

しかし、もし一つの提案をするとすれば、「他人ではなく、自分を見つめる」ことだと思う。

冒頭でも述べたように、同じ発達障がい者だからといって、「決して同じではない」ということを理解することが第一にやるべき事だと私は考える。その理由はここまで読んで下さった親切な読者の方ならお分かりだろう。これは発達障がい当事者のみならず、健常者の方にも理解していただきたい。

そして、「自分が持っているものは何か」をもう一度振り返ってほしい。
「自分が持っているもの」に関しては、実はそんなに深く考えなくてもいい。特技が無くても、家族、友人、恋人、フォロワー、お金、若さ、家、優しさ、向上心…本当に挙げだしたらキリがないのに、人間の多くが自分の欠点ばかりを見る上に、他人が羨ましく見えてしまう。仕方ないことではあるが。

自分の持ち物を確認したら、その持ち物を「どう利用するか」を考えて欲しい。
自分で考えるのが難しい場合、いろんな人を頼っていい。専門家は勿論、家族友人、それらが駄目ならSNSで知り合った信頼できるフォロワーもありだと思う。
人を頼ることができたその瞬間、貴方の持ち物に「受援力(助けて、と言える力)」が加わる。


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