西田哲学『善の研究』②➖思惟とは何か第一遍第二章

前回に引き続き善の研究を読んでいきます。今回は思惟がテーマです。意志とはどのように異なるのでしょうか。

 
前回のおさらいをすると、「思惟も意志と同じく一種の統覚作用であるが、その統一は単に主観的である。しかるに意志は主客の統一である。意志がいつも現在であるのもこれがためである。」ここでのポイントは思惟は主観的だ、ということだ。そこを念頭に置いておこう。

  
思惟は表象間の関係を定めこれを統一する作用だ。その最も一となる形は判断で、本来的に全体である表象の、二つの表象の関係を定め、これを結合する。一である表象が分化発展するということだ。その判断の背後にはもちろん純粋経験の事実がある。先に主語表象がある場合があるというが、まず主語表象とは、主語の観念または心像である。心像と表象の違いは後ほど明確にする必要がある。先に出現する際ですら、一に決定するとき、先に主客両表象を含む完全な表象が現れないといけない。結局、最後には純粋経験の事実の後に判断が現実に実在することになる。もちろんその実在したものも純粋経験だ。これは純理的判断も同様である。「種々の方面の判断を綜合して断案を下す場合においても、たとい全体を統一する事実的直覚はないにしても、凡の関係を綜合統一する論理的直覚が働いている。」事実的直覚というのは純粋経験か、それとも似たものであろうか、論理的直覚というのは、純理的判断の本になるようなものであると推察できる。

 
心像とは知覚と思惟の要素である。「知覚と思惟の要素たる心像とは、外より見れば、一は外物より来る末端神経の刺戟に基づき、一は脳の皮膚の刺戟に基づくというに区別ができ、また、内から見ても、我々は通常感覚と心像とを混同することはない。」
心像は外から見た際、実にscientificな脳科学的説明を用いている。実に客観的に説明される。しかし少々難解なため、別の所から説明を引用しよう。
「一方は外界の物による末端神経の刺激にもとづき、他方は大脳皮質の刺激にもとづくというように区別され、また我々自身、通常、知覚と心像とを混合することはない。」ということは、知覚は皮膚感覚的で、思惟は脳的働きであるといえよう。勿論、自分自身でこの区別はできないのは経験として知っているだろう。

また一見、知覚は単一であって、思惟は複雑なる過程であるように見えるが、知覚といっても必ずしも単一ではない、知覚も構成的作用である。思惟といってもその統一の方面より見れば一の作用である。或統一者の発展と見ることができる。

端的にいうと、近くも思惟も、普遍的意識の分化発展と言って良いだろう。知覚はcompositionとしての面を持ち、思惟は統一作用を考えれば一の作用であるのは妥当であろう。只、普遍的意識からの分化が心像を要素とするそれぞれであるのかは吟味する必要がありそうだ。

 
思惟は自分自身で発展していく。思惟の統一作用は意志の外にあり、問題(対象)について考えるとき、様々な方向があってその取捨選択が自由であるように思われる。しかしこのような事は知覚にも言えなくはない。

 次に普通には知覚は具象的事実の意識であり、思惟は抽象的関係の意識であって、両者全然その類を異にする者のように考えられている。しかし純粋に抽象的関係というような者は我々はこれを意識することはできぬ、思惟の運行も或具象的心像を藉かりて行われるのである、心像なくして思惟は成立しない。

心像は思惟の要素であるため、それがなければ成立しないのは納得できる。そして、思惟は心像間の事実の意識である。これは抽象的関係を意識できない理由となる。

 
思惟は心像から離れた独立の意識ではなく、含んでいる。心像と意味との関係は刺戟とその反応との関係と同じである。知覚は意志や動作となって現れ、心像は思惟として表象する。

 
また、西田は意志の中に理性が潜むと考えている。

されば純粋経験の事実は我々の思想のアルファでありまたオメガである。要するに思惟は大なる意識体系の発展実現する過程にすぎない、若し大なる意識統一に住してこれを見れば、思惟というのも大なる一直覚の上における波瀾にすぎぬのである。

アルファは物事の最初、オメガは最後という意味らしい。ここからも主客未分を感じられる。また経験において、一般的だとか個体であるかは発展途中において曖昧である。これは分化発展に依存する。感覚的印象が強くなったり、情動と密接な関係を結ぶと個体的に思えてしまう。これは勿論相対的区別であるため、性質の問題ではない。しかし経験あって個人があるため、純粋経験の事実が先行する。ここの純粋経験は普遍的な意識が自己自身を実現していく過程である。すなわち分化発展だ。ここで植物の種子の例が出てくるのだが、一般的なものが個体を生み、それが発展して一般になる、ということを言いたいのだろう。ここにおいて、真の個体は極限に達したもので、時空間において限定的で、一般の極地にたどり着いた、唯一性のあるものである。その例えとして芸術家の直角が、他の解説者が例として挙げている。


こんな感じで第二章が終わりました。前回で大まかな純粋経験の説明、理解が終えたので思惟とはどのようなものか、について集中できましたね。どんどん章を重ねていく毎に前回のテーマがブラッシュアップされていくので、次回は意志ですが、さらに思惟の理解度が上がるのが楽しみです。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?