西田哲学『善の研究』①➖純粋経験とは何か 第一遍第一章

最近西田哲学の論文を執筆し始めて、かなり苦戦をしています。
その中で第一関門となるのが皆さんご存知「純粋経験」という概念です。
西田の処女作でもあり、最重要である「善の研究」で、一番最初のに編まれています。
あまりに難解なため、この編を飛ばして次の「実在」から読むことを本人ですら進めています。
いつも通り私の読書における経験をここに綴りますので、一緒に読んでる感覚になれる点ではこの私の文章を読むのは面白いかもしれません。
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ちなみに第一編第一章しか進みません。贅沢に一文ずつ吟味して読み、綴りますので。


まず純粋経験を考える上で最も重要な文を引用する。

 経験するというのは事実其儘に知るの意である。全く自己の細工を棄てて、事実に従うて知るのである。純粋というのは、普通に経験といっている者もその実は何らかの思想を交えているから、毫も思慮分別を加えない、真に経験其儘の状態をいうのである。たとえば、色を見、音を聞く刹那、未だこれが外物の作用であるとか、我がこれを感じているとかいうような考のないのみならず、この色、この音は何であるという判断すら加わらない前をいうのである。それで純粋経験は直接経験と同一である。自己の意識状態を直下に経験した時、未だ主もなく客もない、知識とその対象とが全く合一している。

これはなんとなくわかるだろう。ただそれを経験する。純粋に。ちなみに直接経験と純粋経験は同一である。ただそれを見、感じ、判断をせず、事実のみを取り込むのである。「自己の意識状態を直下に経験したとき、未だ主もなく客もない、知識とその対象とが全く合一している。」ここにおける知識とはなんだろうか、分からない。前者は私の意識を持って何か経験した時、ということだろう。知識が主となっているのだろうか。「自己の意識であっても、過去についての想起、現前であっても、これを判断した時はすでに純粋の経験ではない。」端的に、判断、分析、解釈をするな、事実それ自体を認識しろ、ということだ。

その次に、どのような精神現象が純粋経験の事実であるか、と問うた後、「余はすべての精神現象がこの形において現れるものであると信ずる。」つまり、すべての精神現象が純粋経験の事実として実在している、と信じている、と述べて居るのだ。これが本当に難しい。ここで「信ずる」と言ってるあたり確証はないのか、そう思い込みたいのか、と解釈したくなる。「過去を直覚するのではなく、過去と感ずるのも現在の感情である。」これはなんとなくわかる。過去の記憶が今の感情によって多少美化されたりするのがそれであろう。「いわゆる意識の縁暈(辺縁)なるものを直接経験(純粋経験)の事実の中に入れてみると、経験的事実間における種々の関係の意識すらも、感覚、知覚と同じく皆この中に入ってくるのである。」ジェームズは経験と経験を結びつける関係それ自身も一つの経験される関係である、と考えているらしい。つまり、意識の周りを純粋経験の事実の中に入れてみると、、経験的事実間における様々な関係の意識も、その中に入る、ということか。しかし、経験的事実間がよく分からない。ジェームズの「純粋経験の哲学」から引用すると、

経験同士を結びつける関係はそれ自体が経験される関係であり、経験されるいかなる種類の関係も、他のすべてのものと同様に、その体系において「実在的なもの」として数えられなければならない。

ということはその関係自体も実在的なものとして、「存在している」ということか?少し明瞭になった。そういえば西田は実在しているものは全て純粋経験の事実である、と述べていた。そうであれば経験的事実間すらも実在するのはごもっともである。「意志においても、その目的は未来にあるにせよ、我々はいつもこれを現在の欲望として感ずるのである。」そもそも意志とは、「志に従って物事を成し遂げようとする、積極的な心の働き。また一般に、(ある物事を行いたいという)考え。個人の積極的な意欲を際だたせる働き。」まさしく情動という感じである。それが現在意識である、ということか。この章でよく感じるのは、西田はかなり「現在」に執着している。しかし、過去や未来の存在は否定していないようにも感じる。


「しかし純粋経験はいかに複雑であっても、その瞬間においては、いつも単純なる一事実である。たとい過去の意識の再現であっても、現在の意識中に統一せられ、これが一要素となって、新たなる意味を得た時には、己に過去の意識と同一と言われぬ。」前半はわかるが後半は納得がいかない。全ての精神現象が純粋経験の事実であるとするなら、過去の記憶が現在の意識によって統一されたがために新しい意味を得た、ということだが、純粋経験は意味を持たないのではなかったのか?ここらへんが難しい。そもそも純粋経験は経験であって事実ではないのか、それなら実在した状態が純粋経験の事実となれば良い、つまり、意味を持つ、経験的事実間それ自体は意味を持っているが内在しているという点で、存在それ自体は純粋であるというのか?よく分からなくなってきた、これが「善の研究」の難解さである。むしろここまで迷走しなければ本当の理解には辿り着けないだろう。種々の概説書を読んでこれを通読した際わかった気になっていたが本当の理解には程遠かったらしい。悲しいことにまだ三ページしか進んでいないのだ。「現在の意識を分析した時にも、その分析せられた者はもはや現在の意識と同一ではない。純粋経験の上から見れば凡てが種別的であって、その場合ごとに、単純で、独創的であるのである。」現在の意識を分析したら純粋経験からは離れるため妥当だ。後半は、それぞれの純粋経験は他とは異なる、独立的な存在ということか。西田はなぜ多くのものを現在と捉えているかというと、意識の焦点がいつでも現在であるからである。そして純粋経験の範囲は注意の範囲と一致しており、現在の意識がどこまでも広がるのなら、純粋経験の綜合も何処までも及ぶだろう。また、私たちは思想、意志を持たずとも主客未分に達するのが可能であるため、西田は注意のみではないとも言う。没頭のような主客未分状態の近くの連続である、精神現象は、知覚が厳密な統一と連絡を保っている。そのため、瞬間的知覚の連続が純粋経験であると言える。


純粋経験の直接にして純粋なる所以は、単一であって、分析ができぬとか、瞬間的であるとかいうことにあるのではない。かえって具体的意識の厳密なる統一にあるのである。意識は決して心理学者のいわゆる単一なる精神的要素の結合より成ったものではなく、元来一の体系を成したものである。

つまり純粋経験の肝は、具体的意識の厳密なる統一にある。意識は一の精神的要素が結合したものではなく、一の体系である。その中で様々な意識状態が分化発展(それぞれ独自に発展)する。だが、どれだけ分化してもその根本なる体系は維持される。また西田は「表象」を知覚表象は含めず、想像表象、記憶表象としている。知覚と表象を分けるのは外とのインタラクションかもしれない。私がよく分からない部分はこれである。

表象的経験であっても、例えば夢においてのように外より統一を破る者がない時には、全く知覚的経験と混合せられるのである。

おそらく知覚的経験と区別つかなくなる、と言うことか。経験は元来内外の区別は無く、表象も感覚と厳密にけつごうしていれば直に一つの経験である。現在の統一から離れて他の意識と関係すれば、現在の経験から離れ意味になる。

感覚がいつでも経験であると思われるのはそがいつも注意の焦点となり統一の中心となるが為であろう。

西田は現在に意識の焦点があり、意識の範囲は純粋経験の範囲にもなると述べている。そのためこの文は純粋経験の理解がより明るみになるのではないだろうか。

                                      意識の体系は統一的或者が秩序的に分化発展し、その全体を実現する。統一が厳密ではないか、他に妨げられる時、表彰となって現れたり、直に純粋経験の状態を離れる。この「直に」は直接か、時間的なものか微妙である。そのため、統一作用が働いている間は全体が現実で純粋経験である。表象は現実では無いと言いたいのかもしれない。意識は意志の情動的なものが本質だとしたら、統一的傾向は意志の発展である。そして意志は内面における意識の統覚作用である。ここで統覚の説明をすると、「哲学で、感覚的な所与を明白に意識し、それを自己の意識として自覚すること。また、自我が感覚的に多様なものを自己のうちで結合し、統一すること。」である。ここにおいては後者である。つまり、意志は意識をまとめ上げる。つまり意志は主客の統一である。非常に納得感がある。様々な意味や判断は経験そのものの差別(区別、分析)によって起こる。ということは、統一外からの関係が意味を生む、これが納得感を持つ。経験は自ら差別相を具えた者でなければならない。これはよく分からないため保留する。経験の意味や判断は他との関係を示すにすぎないため、経験そのものの内容は豊富になったりはしない。ここに純粋経験の尊さがあるように思える。

         
経験的事実間も純粋経験の事実として実在する。そのため、意味や判断すらも、意識系統の中の現在意識のどこかに存在するのである。余談だが、この経験的事実間である意味すらも実在する、ということは、マルクスガブリエルのcompositonの思想に近いものを感じる。外からの干渉により統一が崩れ、意味や判断が生まれ不統一になるのは結局程度の差ではなく、体系的発展であるという。つまり前述の背後にある巨大な統一意識に意味や判断を経験的事実間に昇華しうる、ということだ。ここで経験は自ら差別相を具えた者である必要性がわかる。潜在的に他のものと異なる性質を持っていなければ、その存在は独立しておらず、純粋になり得ないからだ。凡ての判断は複雑な表象の分析で、その判断が訓練されていき、統一が厳密になった際純粋経験の形になる、というパターンがある。これは体育などでよくわかるだろう。形式的な練習を繰り返し、意識せずに動けるようになる類のそれである。また意識は統一性を有する面と分化発展の面の二つの顔を持つ。そのため、純粋経験と意味や判断は見方によって変化するという。ここで純粋経験は背後にある統一意識としての純粋経験と、その中にある純粋経験のようなものを感じた。そのため、意味は統一作用から離れる、などのような凡ては純粋経験の事実である、と述べていたことから反するような内容が度々見受けられたように感じる。経験そのものは純粋経験であり、他からの干渉によって生まれた意味や判断それ自体は経験的事実間というそれ自体は純粋経験であるのだ。


また、西田は過去や未来は時間性質として訪れることは出来ない点において、どこまでもそこに時間がないように見えても、時間的現在は連続して一として繋がっているという。そして意識が漸進的に分化発展していく毎に(大きな)場をうんでいる、ということであろうか。しかし、一の中であるが。分化発展に関して少し曖昧であるが、次章で詳しく記述されているらしい。


とまあ、やっと、一遍の純粋経験の、一章の純粋経験が終わった。非常に疲れたが、ただページをめくっていた時より段違いの理解度を獲得したことは非常に楽しかった。これが哲学書を読むということか、と感じる。これを通して思ったのが、一つを真面目に取り組むことで普遍的な哲学の内容に対して取り組みやすくなった気がする。強くてニューゲーム、ってやつだ。この内容はカントなどにも通じており、意識、認識のあり方全般に生きるだろう。

最後に言えることは一冊丁寧に読むことは大事だ、ということである。次章の思惟も楽しみにしていただきたい。ここまで読んでいただきありがとうございました。


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