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親戚紹介④父方の祖母

それでは、今日は父方の祖母の話をしていこうと思う。

父方の祖父の所でも触れたが、家は九州の長崎にあって、父とともに帰省して私に記憶があるのは、小学校2年の時と3年の時だけだった。

祖父は俗にいうハゲ頭、今で言うならスキンヘッド?いやハゲ頭か…。だったが、祖母は白髪だったが、髪が長く、腰のあたりまであったのを記憶している。

私たちは千葉に住んでいたので、なかなか会いに行くことができないので、父はよく幼い私に祖母と電話をつないでくれたのだった。だが、場面緘黙のせいもあってか、祖母がゆったりと優しい口調で話し終えると、私は何を話したらよいか分からずに、受話器を耳にあてたまま、15分くらい無言になってしまうのだった。

小2と小3の時に帰った時の記憶で色濃いのは、現在はもうないのだが、当時、長崎オランダ村というテーマパークのような所があって、その小2と小3の2回とも行ったと記憶している。父と妹と私と祖母4人で行ったのを覚えている。無邪気に先を急ごうとする私が、ふと振り返ると、後ろからゆっくり付いてくる祖母の姿を目にし、私は子供ながらに気をつかって、歩みを祖母に合わせようとしていたと思う。

オランダ村には、チューリップ畑や欧風の建物やら、風車などがあった記憶が色濃い。

また父から、おもちゃ屋でプラモデルの電池で動くゴジラのようなのを買ってもらって祖父母の家で、動かして遊んでいると、「〇〇ちゃん、それはおそろしかね」と言っていたのをよく覚えている。九州の方言なので、子供心には、意味が分からなくはなかったと思う。

そして、私は成人して、うつ病の診断が下されて、体調が一段落したある日、ふと長崎に行って祖母に挨拶をしに行こうと思ったのだった。それを父に告げると交通費などの他、行き方の説明など詳細な手紙を送ってくれた。

父に言われた通りに道を進んでいくと、見覚えのある道に入った。ああ、ここがそうだ。ついに来たんだという思いが走った。私は、お土産にシュークリームを買っていったのだが、その時の祖母の年齢は89際で、その年90になると言っていたが、認知症のような事は何も感じられなかった。当時、私は折り紙にはまっていて、作った色とりどりの作品をいくつか、祖母に贈った。最初、二言三言の会話を交わした後、祖母が急にあらたまって、私にひれ伏してきたので、私も同じように深々と頭を下げたのだった。きっともう会えないと思っていたが、こうして会うことができて、嬉しかったのだろう。
祖母は、私に結婚の意思があるかという話をしてきた。私の家庭は複雑な環境の中で育ったので、自分に自信をもつということがなかなかできず、今の今まで、恋人のひとりもできたことがない。当時もそうだったのだが、片想いをしていた人がいて、その人の事を想って、誰か決めている人はいるかという問いに対して、一応いる…みたいな返事をしたように記憶している。

認知症はないものの、高齢だったためかヘルパーさんが来る時間があった。祖母は少食で、私の買ってきたお土産をあまり口にせず、ヘルパーさんにあげたり、私にあんたが食べなと言われて、頂いたのだった。

私が中学か高校の頃に、祖父が他界したがお墓参りなどには行けておらず、この時初めて、祖父の仏壇に手を合わせたのだった。

この時、私は一晩だけ泊まったのだが、居間に祖母が寝て、私は祖父の仏壇のある部屋で寝たのだった。祖母は寝る前まで、ラジオをつけていたのを覚えている。父は私に2泊3日の航空券を渡してくれたので、2泊目は、ハウステンボスに行ってみようと思っていた。当時はもう長崎オランダ村という施設はもうなくて、代わりにハウステンボスというテーマパークができていた。祖母にそう告げると祖母は、私が1人で行くという事に対して、とても心配していたようだった。祖母は、誰か友達とハウステンボスに行くと思っていたようだった。

そうこうして、祖母の家を後にしたのだった。

この日を最後に、もう私が祖母と逢う事はなかった。母が父を家から追い出し、父が実家に住むようになって、3年くらいが経ったころだっただろうか。祖母は100歳で息を引き取ったと聞いている。父の話では、身体は弱っていってはいたが、最後までボケる事はなかったそうだ。

私にまた時間ができて、余裕ができたら祖母のお墓参りにも行きたいと思っている。

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