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回帰の美術史 〜 1900年以降の「再評価」と「反動」

 授業での発表で使った資料を公開。『Art since 1900』をそれぞれのやり方で再編集してみるというもの。理論的にはこの本に寄っかかりつつ(なので議論の怪しさをも引き継ぎつつ)、制度解体が過剰に進んだ状況で再び美術史を可能にする方法を考えるという問題意識のもと、『Art since 1900』を逆から読んでいくという「回帰の美術史」を考えた。

◎ コンテンポラリーアートの窮状(座談会2)

ベンジャミン・ブークローによる悲観的な現状報告から始めよう。

 コンテンポラリーアートワールドの参加者は大部分、かつてはブルジョワ公共圏に一体化していたあの要素が、どのようにして取り戻し不可能なかたちで消滅してしまったのかについて、体系的な理解を発達させることがまだできずにいる。それに取って代わったもろもろの社会的・制度的形成体に関してわれわれはいかなる概念も述語も持っていないばかりか、その作動様態はわれわれの大部分にとって、不透明で理解できないものでありつづけている。

 「ポストモダニズム」後、美術制度の解体が進み、(美術に関与するアクターが増えつづけているのにもかかわらず)その代わりとなっている枠組みを言語化できない状況。ハル・フォスターは、この批評言語不能を以下のように説明する。

 ここ数年で、戦後アートの異なるさまざまな側面を分節化するのにぼくらが使ってきたふたつの根本モデルが機能不全に陥った[…]一方では、モダニズムのミディアム−スペシフィシティに、ポストモダニズムの領域横断性が挑戦を突きつける、というモデル、それからもう一方で、歴史的アヴァンギャルドと、ネオ・アヴァンギャルドがこの批判に練り上げを加えるというモデル。[…]それはたとえば、20世紀のあらゆる時代から作品を引いてきて、「ヌード/行為/身体」あるいは「静物/オブジェクト/現実の生」といった図像内容重視の(イコノグラフィック)見出しのもとに束ねるという、テイト・モダンのミックス・アンド・マッチ式テーマ別展示にもはっきりしている。そして逆説的な話ではありますが、歴史以降というこの感覚はこんにち、制度が与える効果としてありふれたものです。

 ふたつのモデルとは、どちらも過去を参照する際の形式と言い換えられる。つまり、現在の作品をある過去の様式に照らし合わせることで理解を得ることの意味が価値を失っているということになる。だからテイト・モダンのテーマ別展示は、(単一で強力な歴史的ナラティヴへの反抗という面があるにせよ)「歴史以降」という感覚を与えるものなのである。
 美術史家クレア・ビショップも同様に、 “Radical Museology” においてこのテイト・モダンによる実践を批判している。

 もし現在と過去が、超歴史的、超地理的な集団に折り重なってしまうのだとしたら、場所や時代のあいだの差異をどう理解できるというのか?[…]ポスト2000年代の[テイト・モダンの]テーマ別コレクションにおける相対主義が、美術館によるマーケティングと完全に同時期に生まれていると言えてしまう。

 ビショップがここまで痛烈なのは、この超歴史的な(transhistorical)態度はすなわち脱政治的な態度なのであり、結果的にアート市場に対して八方美人な相対主義を生み出すと考えるからである。
 この批判は、Introduction 5でジョーズリットが提示するアグリゲイトなる概念にも同様に当てはまると言えるだろう。グローバルで文脈を無視した(「個々人の不完全な直感」に基づく)協働や並置といった実践はまさにテイト・モダン的な全面的な寛容を、受け入れてしまう。
 このような現状で考える必要があるのは、どのように美術を通して(20世紀以降の)歴史を語ることを再び可能にするか、ということになる。ビショップは美術館側からのこの問題に対する試みを挙げていくが、それらは、アーカイヴ的性格を持った展示によって過去の知られていない展覧会や美術的潮流を回帰させること、あるいはよく知られた作品の読み替えを可能にすること、とまとめることができる。そのひとつの例が、マドリードのレイア王妃芸術センターにおける2008年以降のコレクション展示であり、そこではピカソ『ゲルニカ』が様々な視覚資料と対置されることで、画家の才能やイコノグラフィーに帰着されることの多いこの作品が、制作当時の(スペイン内戦という)社会・政治的文脈に置き直されている 。
 もう一つの対処法を挙げるとすれば、この座談会でロザリンド・クラウスの使う「媒体」という概念であろう。クラウスは媒体を、グリーンバーグ的な意味でのメディウムとしてではなく、作品を生産する上で取り組むべき規則の「源泉」と定義し直す。この規則は作品生産の「とっかかり」となりつつ、その「制限」ともなる。この概念こそが、「キッチュから身を守るひとつのやり方」を提供するのだという。

◎ ポストミディアム条件時代の芸術(2007a, 1994b)

 グリーンバーグによるミディアム−スペシフィシティに依拠したモダニズム観に対して、70年代の「脱物質化」の流れがふたつある。ひとつは、ポストミニマリズム、すなわちサイト・スペシフィック、あるいはパフォーマンスの作品である。もうひとつは、デュシャン由来のコンセプチュアル・アートである。クラウスによれば現代のインスタレーション・アートはこれらの潮流、すなわちポストミディアムの系譜を受け継いだものである。
 このインスタレーションの流行にさらに棹差すものとして、クラウスの「媒体」はある。現代において媒体を重視する作品は、「芸術を各媒体に特化させる表現形式のひとつへと回帰」し、その「技術的支持体」を前面に出す。かつその技術的支持体とは、(ジャーナリズム、映画フィルム、パワーポイントなど)「商用の品や類型」から採られる。

 こうした「ポストミディアムに異を唱える者たち」の代表としてウィリアム・ケントリッジが取り上げられる。彼は木炭によるドローイングをアニメーションにした作品で知られるが、そのなかではいちど描いた絵が消去され(消し跡として画面に一部を残しつつ)うえから次の絵が描かれるという様子がストップモーションで繋がれていく。彼を特徴付ける「消去」の身振りが、ドローイングとアニメーションという「技術的支持体」を前面に出しつつ、南アフリカ人であるケントリッジがアパルトヘイト(とそこからの解放)という強大なナラティヴに対抗して美を打ち出す戦略として取り上げられている。
 さらに彼のアニメーションではドローイングの歴史への参照が見られる。たとえば遺体を線で囲む(最も原初的なかたち)、あるいは血の滴りを記録する染みのような線(ドリッピング絵画)が現れる。クラウスはさらに、20世紀におけるドローイングと抽象との関わり、キュビズムのグリッドから、果てはルネサンス以来の色彩と線描の相克に至るまで、豊穣な歴史性を読み取っていく。そこに「消去」のアニメーションとして新たな時間性を付け加えたのが、ケントリッジ自身の歴史への寄与ということになる。

 このように反−ポストミディアムの芸術作品は、媒体の技術的支持体を省察することで、ふたたび歴史を参照することを可能にする。それによって現代の政治的諸問題に対して直接的なメッセージ性を求められるという事態から逃れることにもつながるのである。

 前述のビショップの議論が、再評価による政治的文脈への回収であるとすれば、ここで提示されるクラウスのモデルとは反動によるメディウムへの(ある種フォーマリスティックな)回収である。これはフォスターのいう「ネオ」と「ポスト」の「ふたつのモデル」をどのように現代に継承できるかという試みとも言えるだろう。ただし、特にビショップのモデルは作品の意味を政治的文脈に依存させてしまう危険があり、また一方でクラウスのモデルにも表層的なフォーマリズムという落とし穴が常に付き纏う。両者をどのように組み合わせるかが問題になる。
 以上のような問題設定を下地に、本発表では『Art since 1900』から、芸術作品/実践において過去が参照される形式を「再評価」と「反動」をキーワードに抜き出していくことで、回帰の美術史と呼びうるような歴史的文脈を見出すことを試みる。

◎ ポストモダニズムの諸実践(1984b, 1977a)

 ポストモダニズムと呼ばれる美術作品の中でも特に女性作家たちによる「アプロプリエーション」と呼ばれる実践が、クラウスによって取り上げられている。既存のイメージを意図的に剽窃することで真正性あるいは作者という概念を疑問に付す態度、あるいはこのような概念を作り上げてきた美術史と制度が父権制によって営まれてきたことへの抵抗を示すようなこれらの作家は、イメージを「複数の表象の重ね書き(パリンプセスト)」(=ピクチャー)として捉えた。そこには(グリーンバーグ的)モダニズムが依拠するような特定の媒体への忠実も、作者の主体性も価値を与えられていない。
 クラウスは明言していないが、上述のケントリッジのアニメーションもまた(文字通り)ドローイングの重ね書き(パリンプセスト)なのであり、彼の作品はアプロプリエーションという事例に対して、媒体と作者性を再び与えた「反動」とも読み取れることになる。

 ハル・フォスターによればポストモダニズムと呼ばれる潮流も一枚岩ではなく、大きく二つに整理することができる。ひとつは「新保守主義的」、もうひとつは「ポスト構造主義的」である。前者は政治における新自由主義(新保守主義)の台頭と軌を一にし、国家、伝統、家族といった旧弊な価値観への回帰が叫ばれるなか、過度にコンセプチュアル化し「大衆を疎外」したモダニズムに対して装飾、具象、ナラティヴを回帰させるという方向をとった。つまり(縮約された)モダニズムへの「反動」である。この結果生まれたのは過去の様式のパスティーシュであり、歴史の乱用による健忘症の進行だったとフォスターは断罪する。一方後者は、モダニズムの諸実践が馴致され、美術制度にも市場にも好まれる様式となってしまったことへの批判に稼働されている。上述のアプロプリエーションもこの枠組みに含まれる。しかしながらこうしたモダニズムの先鋭化は、その歴史的正統性や伝統といったものへの懐疑から、過去への参照を封じ込めてしまったとも言える。戦略的ではあれど「歴史の乱用」であることには変わりないポスト構造主義的ポストモダニズムも、今日の「歴史以降という感覚」に影を落としている。

 ここで言えることは、新保守主義的な反動が歴史を参照することに積極的だったにもかかわらず、適切な形ではなしえなかったこと、対してケントリッジの形式上の反動は、逆に歴史性を際立たせる結果を生んだということである。

◎ マルセル・デュシャン(1966a, 1960b, 1953, 座談会1, 1942b, 1918, 1914)

 デュシャンが長い沈黙のあと、死の翌年に発表されるよう仕向けた『与えられたとせよ』は、彼の後進への3つの影響を突き放し、驚かせるものだった。3つの影響とは、レディメイド(1914)、インデックス性(と偶然性)(1918)、そして言語モデル(コンセプチュアル性)(1918)である。レディメイドはたとえばポップアートやフルクサス、インデックスはジャスパー・ジョーンズやブルース・ナウマンに、言語モデルはコンセプチュアル・アートに、それぞれデュシャンの名を刻んでいた。しかし『与えられたとせよ』で彼は、美術の制度批判をもう一歩推し進め、カント以来の集団性を持った美的経験という考えにヒビを入れ(この作品は一人ずつ覗くことしかできない)、さらに性的なスペクタクルにおいて見ることの純粋性を失わせる。これが美術館のなかに設置されることで、制度批判は「美(学)システム」の心臓部に照準を合わせた。
 マルセル・ブロータースやダニエル・ビュランなどの70年代以降のポスト構造主義的な制度批判は、デュシャンのこの流れを受けたものであると(再び)クラウスは指摘する。こうしてデュシャンはその支配を20世紀全体に行き渡らせたのである。

 しかしデュシャンは絵画からの撤退と渡米以来、継続して存在感を放っていたわけではなく、その間より注目を集めていた芸術家といえばピカソだった。だから上述の50年代以降の彼への注目の高まりは、あくまで「再評価」なのであった。このことの一因は、(少なくとも『Art since 1900』においては)グリーンバーグとその理論が負っている。彼はデュシャンを評価せず、(古くはカントから)ピカソを経て、ポロックのオールオーヴァー絵画に代表される抽象主義、さらにミニマリズムへという系譜を「正統なモダニズム」と考えていた。1960年の論文「モダニズムの絵画」をはじめこの時期の彼は、ポップアートやネオダダを批判し、オプティカリティの純粋性を絵画の到達点と結論づけたのだ。そこでは作家の政治性が捨象され、まさに表層的なフォーマリズム批評が断行された。その過程でデュシャンとともに、シュルレアリスムやロシア構成主義もが忘却されてしまった。
 このグリーンバーグの立場は、しかし初期の著作「アヴァンギャルドとキッチュ」(1939)とは大きく異なるものである。ここでの彼はアヴァンギャルドの啓蒙的役割を認め、(現象的な視覚ではなく)科学的な唯物論にたってモダニズムを援護していた。つまりグリーンバーグは第二次大戦を挟んで大きく転向しているのだが、その影には歴史を忘れ「新しくやり直す」ことを目指した戦後の傾向があるという(座談会1より)。芸術の脱政治化と歴史の健忘症はここにも見受けられるのである。

◎ ナチズム、ファシズム、ソーシャリズム(1937a, 1934a)

 デュシャンと同じく、シュルレアリスムやバウハウスの重鎮たちはじめ多くの芸術家たちが戦争を避けアメリカへ渡った。その発端はもちろんヨーロッパにおける全体主義の台頭である。1937年の悪名高い「退廃芸術展」は、ナチスがモダニズムを駆逐した決定的な事件と言われている。しかし全体主義とモダニズムの関係はより微妙なものである。ムッソリーニはある時期未来主義を受け入れていたし、ナチスも映画など先進的なメディアを活用していた。つまり彼らは(主に身体表現の歪曲への)反動的なものとモダニズムとの混合物を作り上げていたと言える。古代ゲルマン由来のナチスの鉤十字、古代ローマ由来のファシズムのファスケースなど、彼らと歴史との関わりも特徴的である。国家の伝統を強調する一方で、彼らは「超歴史的」な、さらには超越的な仕方で国家を表象する必要にも迫られていたのであり、そこで導入されたのが新古典主義だった。
 一方ソ連では、1934年にジダーノフが『プラウダ』において社会主義リアリズムの綱要を打ち出した。彼らは全体主義に比べても、より「現実」を描くことを重視していたのであり、そこには現代の唯物論的な世界を自然主義的な過去の様式で描くという矛盾がつきまとった。その結果社会主義リアリズム絵画は写真への依存を深めることになったが、そのことは隠蔽されることを望まれていた。
 この二つの反動が一堂に会したのが1937年のパリ万博だった。当時のフランスはレオン・ブルムの人民戦線政権下であり、全体主義と社会主義との対立は明らかに意識されていた。スターリン様式のロシア館とシュペーアによるドイツ館のプロパガンダの競演である。
 ハル・フォスターはドイツのパヴィリオンを「純粋なモニュメントという装いをまとった、さまざまな類型の寄せ集め(パスティーシュ)」と評する。実際その中身は過去の様式の折衷なのだが、それは「歴史を包摂、というかじっさいには超越しようという驕慢な野心」を示している。とすれば、新保守主義的ポストモダニズムのパスティーシュの反歴史性もにわかに解像度を増す。

 対して「民主主義の抵抗とモダニズム芸術をさまざまな水準で連結させた」スペインのパヴィリオンでは、人民戦線政府と反乱軍の内戦下の切迫した状況で、共和国派として(ミロと)ピカソの絵画が展示されていた。かの『ゲルニカ』である。

◎ ピカソと反動(1937c, 1919)

 この絵画は当初は共和国派のために製作された。『フランコの夢と嘘』という版画とコミックの融合も共和国支持の資金援助のために描かれたものだ。
 ゲルニカでピカソは牛や馬という動物の形が人間と渾然一体となった様を描くが、それまでの彼の作品にはなかったこの寓意的な特徴が人々を混乱させた。誰が全体主義側で誰が民衆側か明示されていなかったからだ。挙げ句の果てにピカソ自身は「雄牛はファシズムではなく暴力行為と暗黒を表す」と多義性を強める発言をする。同時代的にはゴヤと比較されて祖国を憂う画家として称賛されることが多かったが、内戦終了後に作品がアメリカに渡ると、一転フォーマリズム的な解釈に身を委ねることも増え、特定の内戦という文脈を徐々に失って、ヒューマニズム的な普遍性を獲得するに至った。
 ベンジャミン・ブークローの分析によれば、ピカソの半身半獣に、同時期の現象としてミッキーマウスやドナルド・ダックを対置することが可能である。「ミノタウロス」的神話の身体は、意識の合理性の奥に無意識の激しい力が潜んでいるというフロイト的事実を表す。対してミッキーマウスたちは、そんなものを持たないどこまでも浅薄な没落した主体に寄り添う。ポロックら抽象表現主義者たちへの『ゲルニカ』の印象は、無意識の神話的性質を予見させるものであり、絵画がそこに到達できるという特権を示すものでもあった。しかし50年代終わりには、大衆の主体性の変容を受け入れたリキテンシュタインがドナルド・ダックの方を絵画へ登場させる。

 ピカソの絵を評価するのが困難なのはなにも『ゲルニカ』に始まった話では無い。
 キュビズムを発展させていたピカソは、1919年に突如として自然主義的な肖像画を復活させる。19世紀自然主義を思わせる『肘掛け椅子に座ったオルガ・ピカソ』はアングル様式のパスティーシュである。パスティーシュという「不正行為」は、「内的な絵画ロジックなるものが存在し、それを明らかにすべきだというモダニズムの考え」を嘲るものである。ではそれはキュビズムの延長線上にあるのか、あるいは全く別のものなのか。いったい何がこの時期のピカソを「反動」へと突き動かしたのか。多くの研究者が外在的な理由あるいは内在的な理由を見つけようとしてきた。
 クラウスはこの両極端に架橋するような理論を求める。

 美が支配する圏域は、美の生産される場は「自律的」なのだと(誤って)触れ回るが、コンテクスト主義者モデルは、そういった自立性の外にある原因が及ぼしてくる効果こそが文化表現であるだろう、と、洗練の度合いは多少とも異なるにせよ、前提するのである。内在主義者についても見たとおりで、みずからのモデルを、独立した有機体−芸術家の創造的意志だったり、ひとつの芸術伝統が示す一貫した発展だったりするが、どちらも同じこと−という形姿に合わせて切り整えるのである。
 

 ピカソは、自らのキュビズムが生み出した二つの帰結として、モンドリアンらの抽象、あるいはピカビア、デュシャンらの「機械状形態(メカノモルフ)」を目の当たりにする。しかしどちらにも与しないという選択を迫られるのである。なぜなら彼は「抽象に対してはいつでも声高に異論を唱えていたし、見るという行為を機械化すること(たとえば写真はそうだと言う者がいた)にも、作る行為を機械化すること(たとえばレディメイド)にも対立していた」からだ。ピカソはキュビズムのいきつくものへの拒絶を、新古典主義的な肖像画に仕立てていったのだとクラウスは読む。
 最終的に彼女が持ち出してくるのは、フロイトの「反動形成」である。すなわち「強い欲求が抑圧され、不思議な変容を蒙るさま」であり、それによって「低級でリビドーを充填されたそれらの衝動は否定され」、「ちょうど反対のもの」、すなわち「高級で、称賛に値し、実直で、礼節をわきまえた振る舞い」に置き換えられる。しかしこの変容は、逆に禁じられた欲求を満たすために働くというものである。
 ピカソのパスティーシュはこのようなものとして、つまり(禁じられた)キュビズムと(行儀の良い)新古典主義という全くの別物が結びついてしまった産物として考えることができるという。
 さらにこのモデルは、時を同じくしてヨーロッパ中に広がっていた「秩序への回帰」という動向(ジャンヌレ+オザンファンのピュリスムなど)や反動的絵画(デ・キリコや後期ピカビア)をも説明することができるという。すなわち「こういった反モダニズムは、モダニズム作品の中の或る種の特徴を拒絶し抑圧しようとするのだが、まさにその当の特徴的内容によって、それ自身条件づけられている」のである。

◎ まとめ

 最後に見た内在主義者/コンテクスト主義者という対立は、はじめに前提としたクラウスによる反−ポストミディアムモデルとビショップによる社会的文脈モデルの対立に重ね合わせることもできるだろう。しかし両者を組み合わせる、あるいは両者の間に留まり続けるために、クラウスは(反−ポストミディアムモデルに忠実であることなく)精神分析理論を用いた。これ自体とても内在主義的な、作者の内面(欲望とその抑圧)に特権を与えた分析であると批判できてしまうのではないだろうか。反面、『ゲルニカ』を政治的文脈だけから読むことを是とするようなビショップの論も首肯しがたいのである。この点についてはまだ結論を出せる状況ではない。
 ここまで「再評価」と「反動」をテーマに『Art since 1900』を見てきたが、それは「この本を後ろから読んでみる」という試みでもあった。それによって作家や作品の受容と評価がどう変化してきたか、何かが回帰したときいったい何が回帰しているのか、をある程度浮かび上がらせることができた。あるいは、この本がどれだけ悲観的な現状認識のもと編まれたものなのかを見ることもできた。しかしもちろん今回は触れられなかった歴史の線がいくつも存在する(構成主義やアールデコ、ミニマリズムなど)。あるいは、後ろから読むことは、すでに再評価されているものしか拾い出せないという指摘も考えうるだろう。

 本書の分析が興味深いのは、出来事の時系列順に文章が並んでいるという体裁をとりながら、その内容は多岐にわたり、しばしば作家や作品のその後やそれ以前が書き込まれることである。(あるいは項によっては有名作家のその後自体に焦点を当てたものもある(1944))そのため単線的な歴史記述には終始せず、幾度も固定した歴史認識を反省する機会が与えられている。ただそれゆえに、この本に取り上げられていない動向や作家、作品について、より注意を払う必要があるだろう。


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