コメダ珈琲

で勉強している。

年末年始は図書館が閉まってしまう。家にずっとこもっているのもなんだか気が滅入ってくるので、少しおしゃれして、散歩を兼ねて、近くの喫茶店にきた。

入り口で待たされたのに、いざ案内されてみると奥の席はかなり空いていた。あの待ち時間はなんだったんだろう。

少し迷ってホットコーヒーを頼む。ここは別にコーヒーがうまいわけでも安いわけでもないが、電源とワイファイの環境がとても良いので気に入っている。コーヒーの他は何も頼まない。

周りは、私と同じくパソコンに向かう人、本を読む人、商談する人、愚痴を言う人、メモを取る人、様々である。私を除いてはあまり他人に注意を払っているようではないし、皆自分のしていることに十全に集中しているように見える。すごいな。

私は集中力がないわけではない。昔から楽器を弾けば何時間でも遊んでいられるし、小説をひらけば最後のページまで時間を忘れて読んでしまうときもある。しかし、ここ数年は、こうして文章を書いているとき、あるいは携帯に入った辞書を引きながら外国語の本を読んでいるとき、集中力が続かない。なんだか隙が生まれてしまうのだ。

なんだろうこの隙は、と思う。意識にあいた穴。そこから寒風が入り込んできて、なんとなく侘しい気持ちになる。その穴を埋めたいという欲求が出てくる。埋める方法はいくつかあって、例えば音楽を聴くとか、ラジオを聴くとか、SNSを見るとか、ラインを開くとか、あとは何か食べるとかその辺をほっつき歩くとかもある。携帯を開くと無限に意識は散逸していくし、喫茶店だと急に歩き回ることもできないから、今は音楽を聴いている。YMOに最近惹かれるので、「テクノデリック」か「BGM」をBGMに。

意識の隙の存在に気づいたのは、一人暮らしを始めた頃じゃないかと思う。今までは家にいて本をひらけばストレートにその世界に入り込んで行けたのが、ワンルームの硬い椅子の上ではなんだか落ち着かなくなった。歩き回ったり、仕切りとカントリーマアムを食べながら、なんとか小説の世界に入り込むことができる。

実家暮らしと一人暮らしの違いはと言えば、当然それは寂しさなのだ。なんとなくの安心感が、意識を100パーセント何かに傾けることを可能にする。でも一人暮らしを始めてからそれが難しくなった。常に意識の穴、あるいは意識の余剰のようなものが生まれてしまう。何かに集中したと思っても、常に少し余っている部分、あるいは足りない部分、どっちでもいいけど、とにかく今やろうと決めたこと以外にも何か、意識を引っ張るものがもう一つ必要なのだ。

歩行とか音楽というのは精神というより身体を引っ張っていってくれるので、意識の隙を埋めるのにちょうど良い。その代わり歌詞なんかはほとんど聞こえていない。BGMにしてしまうことを申し訳なく思いながらも、バッハを聴くことも多い。ワーグナーでは精神の方をそちらに持っていかれてしまうのでだめ。SNSと同じみたいだ。

この意識の隙、なんだか現代的だ。常に意識をいろいろな小さなものに引っ張られ続けなくては生活できない私たちは、もう何か一つに100パーセント集中することなんてできないんじゃないか。あるいは、精神が何かに傾いているとき、もはや身体がおとなしくそれに従っていることなんてできないんじゃないか。私たちの行動は無限小に細分化されていって、意識は行為と行為の間を揺れ動くだけなんじゃないか。

そう考えたら、なんだか頭痛がしてきた。
頭痛も、私の意識を散漫にして、波のようにゆっくりとした周期で脳を揺り動かす、痛みの向こうに、YMOの無限反復のような霞んだ音楽が鳴っている。コーヒーがもう一杯欲しいけど、高いしやめよう。

この感じ、もう治ることはないだろうから、逆に利用する方法を考えることにしようか。
とりあえず、うどんを食べに行こう。お腹が空いた。
空腹に助けられた。

お金も欲しいですがコメントも欲しいです。