演劇『修道女たち』
1、ケラリーノ・サンドロヴィッチ作『修道女たち』
11月9日19時開演の『修道女たち』、本多劇場にて観賞。
ケラリーノ・サンドロヴィッチの演劇は、今はなき青山円形劇場で見たナイロン100℃の岸田國士アンソロジーと、コクーンシアターでの『陥没』以来、3度目。そこまで熱心に演劇をフォローし続けているわけではない私にとっては、野田秀樹と藤田貴大、ノゾエ征爾に次ぐ回数観劇していることになる作家である。
そんな彼に対する私のイメージは、非常にあさはかなものだが、ポップさにあった。(これは別に批判をしたいのではない。)岸田國士アンソロジー『パン屋文六の思案』にしても、複数の戯曲の美味しい部分を井上茂太のダンスで繋げた、目を休ませないものだったし、『陥没』は三部作の三作目しか見ていない手前あまり大きなことは言えないが、役者たちの技量と、わかりやすいノスタルジアに頼った部分が大きいと感じていた。
しかし今回見た『修道女たち』は、緻密なメタファーの構築と重層的な対比の構造に基づいた、本当の本当に傑作と言える演劇だったのである。だから私はこうして即座に筆をとった。
完全に余談だが、しばらく前に見た劇団かもめんたるの芝居があまりにまずかったので、同じ劇場でのKERA・MAPに、かなり期待していたのは確かだ。ただそんな私の「口直し」に使うには勿体無いほどの、上質な3時間を楽しんだ。
2、宗教の二元論とその演劇的現前
プロローグは、修道女たちの合唱から始まった。ステンドグラスを模したプロジェクションやゴシック風のセットに彩られた舞台装置から見ても彼女らはキリスト教的な一神教のを信仰する修道院にいて、歌っているのは讃美歌ふうだ。
こういう謎の歌詞で、聞いている方は端からはてなマークで、笑いをこらえきれない。「アーメン」に当たる言葉はなんと「ギッチョダ」、これには吹き出す。
修道女は6人、前年に撮った写真が話題に上るが、そこには47人写っているらしい。(ピンボケでほとんど見分けもつかないという。)しかしそのあとの迫害でほとんどの仲間が命を落としたらしい。新しいこの国の王が彼女らの宗教を弾圧しようとしているのだった。話の序盤とはいえ知らされる出来事はかなり残酷だが、彼女らはそこにあまりこだわらず、笑いの多い軽妙な会話で進んでいく。
去年からの生き残りは4人だけ、院長のシスター・マーロウと大御所的なシスター・ノイ、それに中堅の若いシスター・ニンニとシスター・アニドーラ。悲劇の後に新しく加わった2人は親子で、母のシスター・ダルと娘のシスター・ソラーニ。
この6人組は組織としてあまり上手くまとまっているとは言い難い。院長は明らかに役職を押し付けられた格好で、皆をまとめる決断力が全くない。最年長のノイが発言力を持つがゆえに、院長はそれに振り回されるしかない。ニンニとアニドーラは中堅の二人だが、すでに亡くなった他の修道女が男性と通じていたことを酷く嫌い、感情的になったりする。ダルとソラーニはあまり信心深いようには見えず、特に娘の方は嫌々宗教に加わっているのを隠そうともしないのである。
そんな彼らは、雪の降りしきるこの日から巡礼へ出発しようとしている。目的地は聖女ゆかりの地に立つ山荘で、近くに村があるらしい。山荘で暮らして祈りを捧げつつ、村のバザールで列車の模型を売って資金を得るというのが習わしだ。列車というのは信仰のために重要な存在で、死後に魂が天上世界まで向かうための乗り物と考えられている。鉄道以前には船がこの役割だったといい、現にこの宗教では十字架ならぬ錨のマークがシンボルだ。
修道女たちが向かう山荘には若い女のオーネジーと、帰還兵のテオがいる。いわゆる「白痴」であるオーネジーは毎年ここへ来る修道女たちと暮らすのを楽しみにしていて、中でもシスター・ニンニと仲が良い。難しい言葉は理解できないが、とても純真で、信仰心が厚いのがよくわかる。幼馴染のオーネジーにあからさまに想いを寄せるテオは、戦争から帰ってきたばかり、その右腕には戦中に虫に食われた跡が残り、しばしば激しいかゆみが彼を襲う。戦争で仲間たちが死んでいくのを見て浮かんだ、決して救いの手を差しのべぬ神に対する疑いを、修道女たちへとぶつけることになる。
それから宗教の外にいる村人を象徴する存在としてテンダロやドルフ、保安官がいる。彼らは一人の俳優によって演じられるが、何より現世での生活を送っているものたちであって、修道女たちの敵か味方か、最後まで微妙な立場にいる。
ストーリーを追っていると長くなりすぎてしまうだろうから、少し整理しつつ進めようと思う。
6人の修道女は2人ずつペアで、それぞれに、罪とその償いという多分に宗教的なテーマが関わってくる。彼女らの信仰はほぼキリスト教であるから、罪は常に現世、肉体と関わるものであり、またその償いは逆に天上世界、魂へとつながってくる。
例えばソラーニは自分を振り回す母親から常に逃れようとしている。宗教を渡り歩く母親に付き合うのが嫌で嫌で仕方がないのだ。一方ダルの方も、男を求めてやまない不埒な女で、全く心のこもっていない「悔い改めます」を乱用するのが常だ。この不信者ふたりは同時にテオに惹かれるが、それにより軋轢が表に出てくる。結婚相手を勝手に決めたという母親にしびれを切らしたソラーニが大切なネックレスを暖炉に投げ入れると、ダルはそれを拾おうとして顔に大火傷を負うのだ。
このダルの行為は、自らの肉体を犠牲にして娘を守ったものであった。ネックレスと娘の婚約話は、彼女が真実信仰している祈祷師の言葉に忠実にいた結果であったことが明かされる。ソラーニは母親の無償の愛情を知って、真に「悔い改め」、祈りを捧げるようになる。
あるいは院長とシスター・ノイは権威的に微妙な関係にある。役職上立場が上の院長は決断力がなく、ノイの発言に惑わされるばかり。ノイの方はあまり論理性のない説教くさい意見をよく口にするが、彼女はここでは宗教的なしきたりを守る存在であって、何をするにしてもしないにしても彼女の許可を皆が伺うのである。しきたりはしきたりであるから、神の存在と同様論理的な理由など存在しない。その理由のなさをノイは体現している。それに比して院長は常に現世での論理性にとらわれている、最も宗教的でない人間である。院長はいつも決断に理由を求めてしまうのだ。例えばその理由の位置にうまくノイが収まれば、「ノイが言っているし」ということでやっと決定を下すことができるという具合である。
最後にニンニとアニドーラはどちらもレズビアンである。前者はオーネジーが、後者は前年の悲劇で亡くなった修道女が愛の相手だ。ふたりの一番の違いは、その愛の形に表される。アニドーラは愛する女性とキスをしたという過去が、その霊によって喚起され、悔い悩む。恋人が死に自分が生き残ったという罪悪感が、彼女に対する罰なのであった。翻ってニンニは、オーネジーとひっしと抱き合い愛を感じる場面が2度あるが、決してキスをしない、つまりその関係は精神的なものに保たれるのである。象徴的なのは夜の場面、修道服姿のオーネジーとニンニが別れるとき、ふたりの顔が近付き、口付けかと思わせるが、顔と顔のあいだにはわずかな隙間が保たれる。それをニンニの持つ蝋燭の光が照らし、黒い壁を背景にぼうっと、この決定的な隔たりが浮き上がるのだ。
この瞬間のジョットの絵画のような美しさを介して、プラトニックな愛と肉体的な愛とが対比される。そして後者にはもちろん、テオのオーネジーに対する恋心も含まれているはずだ。テオはオーネジーを愛しているが、神に疑いを抱く彼にとって愛とはあくまで現世的なものでしかない。だから彼は夜にはオーネジーを薪小屋へと誘うし、迫害を逃れて遠くへ行こうと持ちかけるのだ。
テオには虫が住み着いている。ニンニによればそれは孤独を吸って生き、成長し、宿主の体を木へと変えてしまうのだ。テオの右腕はその虫のせいでしばしばひどいかゆみに襲われるが、この極めて肉体的な感覚と共に、彼の身体は嵌入した虫に乗っ取られてしまう運命にある。ダルの火傷が治るという奇跡が起きて、修道女たちが神への感謝を共有した喜びを、音楽と踊りで表現する時、この劇中で最も幸せな場面を、テオは後ろからただ佇んで見ていることしかできない。オーネジーが彼の愛を受け入れず、そして肉体は破滅へと向かっているために、絶望に追いやられている。彼はその場から静かに立ち去った、そして痛烈な孤独を感じたのだろう。次に舞台に現れた時、テオの肉体は完全に木に変わっていて、声さえも奪われてしまうのだった。
「奇跡」についても言及した方が良いだろう。
オーネジーはこの劇で、神を最も純粋に愛する人だ。彼女は不思議な力を持っていて、たくさんの奇跡を起こす。
例えば皆でお茶を飲むという場面がある。もうすぐお祈りの時間だが、その前に皆で一服しようということになり、周りに流されて院長も許可を出す。お茶はオーネジーが淹れに舞台から去るが、仲の良いテオのお茶だけとんと苦くしてやろうというイタズラを企んでいる。しかし出されたお茶は、なぜかニンニ以外の修道女がとったものはどれもとても苦く、ニンニとテオとオーネジーのものは甘くて美味しいのだ。みな自分でカップを選んだのに、味が変わってしまったのだろうか。この甘さはどうやらオーネジーの愛情を表していて、仲の良いニンニとテオのお茶は(苦くしようとしても)甘く、特別な感情のない他の4人にはお茶は苦いということらしい。こうして、オーネジーの持つ神秘的な力が明らかになる。
彼女はその後、山荘を襲いにやってきた村人たちを瞬時にして眠らせる離れ業も披露し、彼らに逆に修道女たちの信仰の力を思い知らせるにいたるという出来事もある。
しかし上の二つを凌いで何よりも奇跡的な出来事といえばそれは、彼女の肉体がぶどう酒に入った毒で滅びなかったことに違いないだろう。
村人たちが寄付したパンとぶどう酒。パンはそれをかじったネズミがたくさん死んでしまったことからして、毒入りらしいとわかった。ぶどう酒も同じだろう。修道女たちが死ねば、村は残忍な国王によって焼き払われなくてすむのだから、十分あり得る話だった。
修道女たちは急いで荷物を片付け山荘を出ようとするが、シスター・ノイは決心を固めていた。彼女は前年の悲劇の折、ぶどう酒に毒が入っているかもしれないことを知っていながら皆が飲むのを止めなかったことを悔いている。その償いのためには、何としても修道院を存続させて自らは生きることを選択するしかないと彼女は考えていたのだ。しかし毒入りかもしれないぶどう酒が与えられるという一年前と同じ状況を前に、考えは変わるのである。
もし毒が入っていなかったら、村人は自分たちの村が焼き払われるのと引き換えに修道女たちを守ろうとしたことになる。
もし入っていたら、修道女が死ぬことで、村人たちが救われることになる。
それを「確かめたい」というわけではなく、ノイは、ただ神のために、ぶどう酒を飲むことを決める。飲まなければ、どちらの救いも、達成されないからである、そして何より、そのことが彼女の罪の償いとなるからである。
他の修道女たちとオーネジーもいまや、神を前に肉体への執着など全くなく、ぶどう酒を飲むことを決める。院長だけは周りに流された格好だったが、「こういう時は飲むんです」という言葉を発し、ついに現世的な論理を離れ宗教の意志へと服することができる。
ぶどう酒を勢いよく仰いだ彼女らは、白鳥の湖の音楽をバックに、微笑んで一言も発することなく、準備を整え、山荘を出立する。自らの運命を受け入れ、言葉なく通じ合った者たちの至福が示される。
結局ぶどう酒は毒入りであった。血相を変えて山荘に戻ってきたオーネジーは、修道女たちが血を吐いて苦しんでいるとドルフにいう。しかしもう手遅れなのは明らかである。
そのあとが、この劇のクライマックスだ。
オーネジーの前に、轟音とともに列車がやってくる、それはもちろん天上世界行きであり、そこには修道女たちがあの微笑みを浮かべて並んでいる。彼女らは現世を離れ、天上世界へと登ることを許されたのだ。
ニンニが手招きする。修道女になりたがっていたオーネジーにとって、神と一体となるまたとないチャンスである。こうして彼女は精神的な愛、神とニンニへの愛を選択し、列車に乗り込む。
身体全体が木となってしまったテオは、それをただ見ているだけでどうすることもできない。彼は戦地で仲間を殺してひとり逃げた罪、神を信頼できないことの罪、そして肉体的な愛しか理解できないことの罪を償わねばならない。木は命を絶つことができず、現世にとどまり「守られる側」に居続けるしかない。それが、孤独という名の、未来永劫続く罰なのである。
修道女たちの殉教という救いはあまりに貴く、またテオへの孤独という罰はあまりに酷い。その聖書的な二元論の現前に、感涙を禁じ得ないラストシーンであった。
3、『修道女たち』と私たち
こうして劇が終わって劇場を出て、少し冷静になって考えることは、なぜケラさんはこの戯曲を今年上演したのだろうということだ。この極めて宗教的な題材を、なぜ今。
いくつか理由は考えうる。最も表面的なことでいえば、迫害されるマイノリティを彼らの側から描いたということは、昨今の政治的状況を鑑みればまず意味はあるように思える。
そして、修道女たちの帰依、無償の愛を描いたことにも意義がある。特に院長が現実的な論理を捨てて宗教へと身を委ねたことは、今現実世界においてどれだけ私たちが140字的論理性に縛られ、右往左往し苦しんでいるかを思い知らせてくれる。
この理由のなさへの寛容、帰依と贈与の肯定は、明確なメッセージ性を持っている。
しかしそれだけでは、この劇の不条理でシュールな雰囲気をうまく説明できないように思われる。
劇を通して、観客は常に修道女たちに感情移入できていたわけではないだろう。端からテンダロによって論難される彼女たちは、あるいはテオの率直な神への疑問に対して驚くほど何も答えられない。そして宗教的規範の不審さと融通の利かなさには、見ている側も常に苛立たされる。ラストシーンでは彼女らの至福に感動したとしても、そこへ至るまでには紆余曲折があり、それでこその3時間であった。
シュールさに関して最も印象に残ったのは、神に召される修道女たちの高貴さに比して、罰されるテオは木の着ぐるみを着させられて、なんとも滑稽に演出されたことであった。激しい感動と「パッション」の時空間に、なぜか笑いを引き起こしかねない要素が存在していることの不思議。これはある種激しい異化効果を持っていて、客の心理を邪魔すると同時に、笑いと感動の間に奇妙な感覚を持たせた。
考えてみれば、キリスト教的な神との合一という観念は、過激に全体主義的なものである。そこでは快楽はもちろん、個人の自由、人権、そういったあらゆる「現世的な」ものに価値は認められない。なぜならキリスト教においては、現世にいることそのものが罪、あるいは罰であって、人は神の審判によって天上世界へと召されることが人生の唯一の目的なのであるから。
そうすると、修道女たちの殉教を、真に讃えることは果たしてできるだろうか。
あのような主の導きに、私たちは服することができるのだろうか。
それはできないと言わざるを得ない。
私たちは現実の論理性に惑わされ続け、宗教的な非理性を非難し続け、そうして自らには永遠の孤独を課す、そうすることでしか生きられない、そこから逃れることは決してできないのだと、誰もが「身」を以て知っているはずではなかろうか。現世的なものを全く捨てるという選択を現実世界ですることは(それこそ宗教的な理由を除いて)ないし、そもそも完全に快楽を捨てることなど不可能だ。こうしてオーネジーほどの純真さを持たない私たちは、テオとともに、天井行きの列車を虚しく見送るしかないということになる。
だからこの劇は、滑稽さという形で、「本当にこれでいいのでしょうか」という疑問の余地を常に残してくれている。
天上と地上、魂と肉体という宗教的二元論に回収され得ない、(回収されるというある種の幸せに浴することができない)、苦しい現代人たちは、その二元論的な構図でないところに別の形の救いでのを求めるしかない。それはこの劇においては、全体に散りばめられていたシュールな笑い以外にないと、思い知らされるのである。
合一という全体主義とそれに乗ることが許されないものの対立がまず舞台上にあり、さらに二元論的構図をシュールさによって笑いに変えるしかない私たちが客席にいる。劇場全体で示されるこのより大きな対比も、『修道女たち』には絶対に欠かせないものなのである。2018年の演劇たる本作が、同時代人たる私たちを、見事に引き裂いていったのだった。