【シャニマス】SHHis G.R.A.D.感想·考察
※シーズのこれまでのコミュに関するネタバレと、その他にCatch the shiny tailのネタバレも含みます
(読まなくていい前書き)
普段他のコミュニティで迷惑を弁えない長文感想を垂れ流して管を巻いておりましたが流石にこれはnoteでやれよという長さのものはこちらに投下していこうと思いnote初投稿です。
だいぶ読みにくい乱文駄文になっておりますがお暇な方はどうぞお付き合い下さい。
シーズとは何か シーズとそれ以前との差異
GRADの感想考察と題していながら申し訳ないのですがまずは私のシーズに対する前提認識から話させてください。長くなります。
Catch the shiny tailの5話でプロデューサーの1択選択肢文として「みんな特別だし、みんな普通の女の子だ」って台詞があります。
私はこれがシャニマス全体のテーマの一つでもあると思っているのですが、シーズってユニットはある意味でこのテーマに対するアンチテーゼというか、「本当にそう言えるの?」っていう懐疑というか、自分たちが掲げたテーマをもう一度真っ赤な火に焚べて鍛え直すような、そんな要素があるように思っていて
というのもシーズ以前の23人って、この子らほんとに普通か?って思いませんか?
いやそれを否定したい訳ではなく、本当に自分のいる世界に一緒に生きてるような内面描写のリアリティや実在性をして普通の女の子だと感じる部分はちゃんとあって、その意味で普通ということが否定されるわけではないんだけど、
シーズの2人を見てから既存の23人を改めて見返すと、この子らいい子過ぎるんですよ。
性格が良すぎる 人間性が出来過ぎてる 人間力がありすぎる 内面が魅力的過ぎる 可愛すぎる 誰もがこの子のことを知れば好きになってしまうような、深く知れば知るほど好きになってしまうような、魅力に満ち溢れ過ぎてる ステータス盛り盛り過ぎる
智代子がクラスに一人はいるなんて大嘘…ではないにしても、人生を振り返ってみて「あぁ学生時代に一人はいたよなぁなんでこの子こんないい子なんだろって思うような人間性の聖人君子が」ってぐらいの普通だけど全然普通じゃない子で
シーズを鑑みて23人のそれらの特性を見たとき、
実はそれこそがアイドルの資質であり、これを持つものがアイドルになれるという特別性なんだという見方もできると思うんです。
(ここでのアイドルって概念は実際の商業的な場でのアイドルという言葉とはニュアンスが違ってて、どちらかというと「アイドルマスターシャイニーカラーズのメインキャラクター」という意味合いで、それになれるかどうかという意味合いで言ってる部分があります)
プロデューサーがスカウトやオーディションで見抜こう見出そうとし、その掴んだしっぽを判断基準にアイドルになれるかどうかを感覚する、そういうものがこれらの特性で、
というかメタ的に言えばキャラクターを作る時に魅力的なキャラクターにしようとするのは当然のことで、その結果として生まれるキャラクターがそんじょそこらに普通にはいないような内面の魅力盛り盛りになることは商業的に言っても当然の帰結ではあるんですが
二人はあえてそこを欠いて、リアリティラインをぎりぎりまで上げて、本当に特別じゃない人間として内面を造形されたキャラクターとして作られてるように感じる部分があり、そういう意味で、ある意味でアイドルとしての特別さを欠いた存在として、持たざる者として初期設定されてるのがシーズの2人なんじゃないかと思えるとこがあるんです。
(これは才能とかスキルの話ではないことは断っておきます。なんなら才能やスキルではシーズの2人はそれぞれステージやバラエティにおいて既存の23人を凌駕するものを持っている部分もある。)
にちかwingはプロデューサーやはづきさんやそして何よりにちか自身が「アイドルになるのは無謀だ」という認識を持っているところからスタートします。
美琴に対してはプロデューサーはそういう認識ではいないけど、美琴のこれまでの経歴がそれを指し示し、美琴に突き付けています。
じゃあどうして二人はアイドルになるのが難しいのか、無謀なのか、以前の23人に比べてこんなにも苦しい思いをしなきゃいけないのかというと、それこそが詰まる所は上で述べた「特別なアイドルの特性」を持っていないから
もう少し抽象的でなく具体的に言うとすれば、二人のコミュを読んで感じたそれまでの23人との内面の違い、都合よくいい子じゃないとことか読んでて辛いとことかがつまりはそれなんだと思う。
このあたりはシーズのコミュを読んでる人ならなんとなく言いたいことは伝わるんじゃないかと思います。
シーズの二人は、アイドルに届かない、持たざる者として、少なくともそれをスタートラインにしている。
二人は、本来アイドルにはなれない存在が、運命を覆す戦いをしているから、だからこんなにも苦しんでいる。
本来アイドルにはなれない、アイドルには届かない、そういう運命の元にある本当の意味で特別じゃない普通の子、アイドルじゃない一般人、モブの子を、どうやってアイドルにするか
それが、アイドルマスターたるプロデューサーの、最後の試練
「みんな特別だし、みんな普通の女の子だ」という言葉と、もう一度本気で向き合う
それがシーズというプロジェクト
ここまでが自分のシーズに対するベースの前提認識です。──────────────────────
シーズG.R.A.D. 今の二人に必要だった、死と再誕の儀式
シーズGRADの話にやっと入ります
率直に言うと、
私は、シーズの二人はアイドルを楽しめるようになればそれが問題の解決でありゴールだと思っています。
シーズの物語は二人をアイドルとして幸せにすること、幸せなアイドルにすることが究極の目的であり、それは二人がアイドルを楽しめるようになれば叶うことだと思っていて、
そして、アイドルを楽しむためには今の状態から余裕を持てるようになることが必要なんだと思う。
ではなぜ二人がアイドルを楽しめる余裕を持てない状態であるかというと、それは二人がそのままではアイドルに届かない存在であり(上述)、アイドルになるために足りないもの、その欠落を埋めて補って自分をアイドルまで届かせるためにあるものが、技術とそのための練習であり、
その欠落の補填を怠れば、アイドルに足りない二人は、持たざる者である二人は、すぐにアイドルの座から滑り落ちてしまう。
少なくとも二人はそう感じていて
だから止まることができない
練習を怠ることができない
なぜなら止まればそこでアイドルの時間が終わってしまうと思っているから。
だからアイドルに余裕を持つことができない。
アイドルを楽しむ余裕なんてない。
だから、
二人が余裕を持つことができるようになるためには、一度今の呪いの生を終えて新しく産まれ直し、新しく始め直す必要があった。
その死と再誕の儀式をそれぞれに行ったのがシーズGRADだったんだと思います。
美琴GRAD
美琴は章タイトルのdeadとaliveでも示されてる通り、“死”(終わり=帰郷)に向かって死に場所を探すような呪いの時間を、一度止めて終わりの場所に行ってそこから見つめ直すことによって、曇りガラスで見えなくなっていた今の場所にある“生”をもう一度拾い直すことができたのだと思います。
思うに、美琴の帰郷に際して主眼に置くべきは“北海道に帰ったこと”じゃなく“ステージ(アイドル)から離れたこと”なんだと思っていて、
「居場所がなかったから他に行く先はない」ということではなく、ステージから離れることによって「ここ(ステージ)は自分の居る場所なんじゃなく、自分の居たい場所なんだということに気付けた」ということなんだと思うんです。
美琴の“なぜアイドルなのか”は自分のルーツに立ち返ってそこで劇的に得られるものではなく、ずっと美琴のそばにあったものだった。
そんなの言われてみれば当然のことで、そうじゃないわけがない
そこにそれがなければ美琴の今までの姿勢に説明が付かない
あんなにも命を捧げ、すべてを捧げ、何もかも犠牲にして、それだけに突き進んだのは、そこにずっと確かにあったからなんです。
美琴の命を脈打たせるものは、美琴の感動はずっとステージにあった。
そこにスポットが当たらなくて見えづらくなっていたのはきっと読み手も美琴も同じで、なんのことはない、海外に行って故国の良さに気付くのと同じような些細なことで、その大事なことに気付けたというのが北海道帰郷編の意味だったのだと思います。
そしてそれは、命を一度止めることで、にちかの言うところの「死んでいる」場所へ行きアイドルという自分の生を見つめ直すことで得られたものでした。
にちかGRAD
にちかは、wing終盤の「そうなの?」で、なみというアイドルの本質である“悲しみ”に触れることによって、本当の意味でなみの靴を自分のものとして履くことができて(それはその悲しみがにちか自身のものだから)、その美しさによってwingで優勝しアイドルの時間を勝ち取ることができた。
でも、同時にそれはなみと同じく悲しみのアイドルという呪われた時間を始めることでもあった。
(これはアイドルにはなれない者がアイドルになるための、「自分を殺してアイドルという別の偶像になる」という一つの方法であり、天井と八雲なみとの失敗の物語であり、にちかの物語の中で否定し乗り越えなければならないものとして定位されているテーマでもあります)
wingで勝って手に入れた仮初めの時間、アイドルじゃないにちかがアイドルをやれる仮初めの時間。それを、wingで負けていても、にちかが諦めない限りアイドルの時間が終わりじゃないってことをにちかが分かることが必要だった。
だから、wingの敗退をGRADでやり直す必要があった。
それが呪いの時間を終わらせるための必要な儀式だった。
余裕を持つためには、二人ともその時間を一度終える必要があった。
それを終わらせるためには、止まる必要が、怠る必要が、負ける必要があった。
怠っても、負けても、止まっても、そんなことじゃ二人のアイドルの時間は終わったりしない。
俺が 絶対に終わらせない
それを示す必要があった。
それを証明する必要があった。
それを経験する必要があった。
それがシーズGRADだったんだと思います。
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