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小説版「旭川青春グラフィティ ザ・ゴールデンエイジ」 プロローグ・第一章

はじめに


大正末〜昭和初期にかけて、北海道旭川市には、詩人の小熊秀雄、画家の高橋北修(ほくしゅう)、カフェー経営者、速田弘、のちの歌人、齋藤史(ふみ)ら、キラ星のような若き才能が集い、交差し、切磋琢磨した奇跡のような一時期がありました。

この時代の旭川を舞台にした住民劇「旭川歴史市民劇 旭川青春グラフィティ ザ・ゴールデンエイジ」が上演されたのは、2021年3月。コロナ禍のなか、多くの人たちの努力と支援によって実現した舞台は、大きな感動を呼びました。

「那須敦志@郷土史ライター」のページでは、これから6回に分けて、この劇のオリジナル脚本をもとにした小説を掲載します。

より多くの方に、戯曲より親しみやすい小説の形で物語を知ってもらおうというのが、今回の掲載の狙いです。

全十一章のうち、今回は「プロローグ」と「第一章」を掲載します。
最後までお付き合いいただけると幸いです。

なお物語や旭川の歴史について深く知っていただくため、文末に登場する人物や字句についての注釈を掲載しています。


*「旭川歴史市民劇 旭川青春グラフィティ ザ・ゴールデンエイジ」(作・那須敦志、演出・高田学)・・・架空の登場人物である10代の若者たちが、小熊秀雄ら当時旭川にいた実在の人物と出会い、自らの目標を見出す群像劇。物語の中で起きる出来事もほとんど当時の実話を元にしている。令和3年月6〜7日、旭川歴史市民劇実行委員会の主催で、旭川市民文化会館小ホールで上演。

*オリジナル脚本・・・2021年7月出版の「旭川歴史市民劇 旭川青春グラフィティ ザ・ゴールデンエイジ ーコロナ禍中の住民劇全記録ー 」(那須敦志著・中西出版)に収録。




プロローグ 大正十四年六月 第一神田館



 暑いねぇ、まったくなんて日だい。映写室ってのはただでさえ暑いってのにさ。しかもきょうは六月。お天道様(てんとさま)、なんか勘違いしちまってるんじゃないのかい。あー、早くへっぽこ活弁(かつべん)の試写なんか終わらしちまって、アイスクリンでも食べに行きたいもんさ。あ、それより腹だ。腹が減っちまった。

 ……ちきしょー、あのデブ活弁。くだくだくだくだ文句ばかりたれてよ。震災で東京中の活動写真館がぶっ潰れちまって、おまんまの食い上げだってんで、流れてきたんだろ? それがこんな田舎の小屋に出てやるだけでありがたいと思えだの何だの。るせーんだよ。だったらさっさと帰っちまえよ。文句と一緒で、説明もやたら長くってよ。せっかくの活劇ものだってのに、写真がもったりしちまって台無しよ。

 ……リンリンリンリンリンリンリンリンうるせーなぁ。まだコマ送りが早いってかよ。しかしこの仕組みも誰が考えたんだか。活弁がボタンを押すと、映写室のベルがリンと鳴る。猿回しの猿じゃあんめえし、ベルに指図されてどうすんだよ。

 ……ああ? これでも早いってのか。おいおい、素人じゃあるまいし、活動写真のコマ送りは一秒に八コマまでって、分かってんだろうが。それ以上遅くすりゃ、フィルムが燃えちまうんだよ。これが限度。……何だ。野郎、説明止(や)めやがった。……ああ? 何だって? あの下手くそ技師じゃ語れねぇ。替えろって?

「もう我慢ならねえ。おう、上等だ、デブ。こっち上がってこい。相手してやるよ」

 ……ああ? 野郎、怒ってやがる。客もたいして呼べないくせして、俺らの何倍も給料もらいやがってよ。

 ……ん? なんだみんな騒いでる。え? 何? 後ろ? 後ろってなんだ? ……あ、やべえ。電灯に蓋すんの忘れてた。


 ……ちきしょー、駄目だ。下のフィルムにも火が移っちまって。

 ……ゲッ、ゲホッ。……煙がすげえ。目と喉が焼け付いちまって。もうダメだ、逃げねえと。

「みんな、逃げろー。逃げてくれー」




昨日の晝(ひる)火事 第一神田館燒く 映畫(えいが)「怒濤(どとう)」試寫中發火


 昨日午前十一時四十五分頃、突然旭川常備消防番屋火の見櫓から全市民を驚かす二つ番の警鐘が亂打され、師團通の一角に當り黒煙濛々(もうもう)と空を衝く。火元なる活動常設館、第一神田館三階は紅蓮の猛火に包まれ、附近一帯に火の粉は雨の如く降りしきり、一時は大火を豫期された程だった。

ホースの雨で猛火を喰ひ止む


 發火と同時に市内各消防番屋は勿論、永山(ながやま)、近文(ちかぶみ)、東鷹栖(たかす)、東旭川、神楽(かぐら)等の近村消防組、及び野砲隊より寶井中尉指揮の兵卒六十六名、並びに外出中の兵卒、及び二十八聯隊、二十六聯隊工兵隊より各一箇小隊出動の上、防火に努め、一方常備消防より自動車喞筒(ポンプ)駈付(かけつ)け、左隣なるメリヤス屋の路次にホースを引き入れ、延燒の火の手を防ぎ、各消防組も又ホースを此の方面及び裏手なる旗亭(きてい)梅林(ばいりん)等に懸命に力を注いだので、さしもの猛火も僅(わずか)右隣なる旭勧工場(かんこうば)屋上を一尺四方燒いたのみで、午後一時四十分、漸く消止めた。現場は旭川随一の目貫の場所柄で、旭ビルを初め各大小商店、旗亭等、櫛比(しつぴ)しゐるのと、眞晝間(まひるま)の事とて彌次馬多く、一時非常の雑踏を來した。

詳しき原因は目下取調中

 
 火災は寫真變(しゃしんかわ)りの爲め、三階映寫室において技師、森久治(二九)が海洋活劇、山本嘉一、水木京子出演の「怒濤」を試寫中、誤つて火を失したものにして、詳細は目下取調中。損害は建物總坪三百四十坪、損害見積り三万五千圓、其他五千圓位の見込みであると。因(ちなみ)に技師は鼻と足部に火傷を負ふた。




第一章 大正十三年十月 旭ビルディング百貨店


 おゝ平坦な地平に
 人は皆打伏す時
 我は一人楼閣を築かふ
 人が又我を真似るならば
 我は地下のどん底に沈む
 あらゆる者の生長する時
 我はいと小さくちゞんで行く
 人が皆美しく作り飾る時
 我は最もみにくゝ生きやう

                       (今野大力「我が願ひ」)


 その建物の大部分は、約百キロ離れた南富良野の石切り場から運んできたという花崗岩でできていたが、なぜか中に入ると樟脳(しょうのう)の匂いがした。

 建物ができたのは三年前。同じ師団道路にある札幌に本店のある百貨店、丸井今井が、三階建てのモダンなビルディングに建て替えられたひと月後のことだ。旭川初のビルディングという称号は譲ったが、こちらは四階建てと高さでは上回り、街の新名所として華々しく披露されるはずだった。

 ところが地主と建主、出資者ら十指に余る関係者が、詰めた協議をせぬまま見切り発車で着工したため、完成後の利用を巡って一向に意見がまとまらない。なんと竣工から半年を過ぎてもゴタゴタが続くありさまだった。

 ようやく衣料品を中心とした小売店として開業したものの、目新しさは半減。モダンなのは外観だけで、品揃えなどは旧来の店と変わりないというのでは、客足の伸びる要素はない。わずか一年で閉店を余儀なくされてしまった。

 このいわくつきの物件、口の悪い地元っ子から幽霊塔なる異名で呼ばれたほどだったが、嫌気のさした建主から小樽の物産会社が土地、建物を買い取ったのが一年前。その名も旭ビルディング百貨店として新装開店が決まったのが、この年春のことである。

 そのビルの最上階。二十畳ほどの程の大部屋に、長身痩躯、高い頬骨が特徴の眼光の鋭い男がいる。高橋北修(ほくしゅう)。二十六歳になったばかりの地元生まれ、地元育ちの画家である。お気に入りの一張羅(いっちょうら)、太い縦縞の入った紺の背広を着こんでいる。

 部屋の壁には大小さまざまな額装された絵画が運びこまれている。ビルの新装開店に合わせ、自らが所属する旭川美術協会が開催する絵画展の準備に当たっているのである。

 ……確かここは、一時期、繊維問屋の倉庫代わりにされていたよな。だからやたら樟脳(しょうのう)臭いんだ。北修が一人そう納得すると、大きな絵を抱えた三人の少年が、ふうふう言いながら部屋に入ってきた。

 旭川師範学校一年の渡部義雄(わたべよしお)と塚本武志(つかもとたけし)、そして二人の友人である同級生。皆、十五歳で、スタンドカラーのシャツに、絣の着物と袴。学校の制帽を被っている。一番遅れて入ってきた少年はかなりしんどそうだ。

「北修さん。何も言わずにいなくなんないでくださいよ。俺ら、指示してくれないと、どこに何置けばいいか分かんないんだから」

 三人の中では一番小柄な武志がそう言って口を尖らせた。童顔で丸顔。ニキビが目立っている。
 その武志をなだめた義雄は、北修ほどではないが長身で細面。七三に分けた髪の下には、旺盛な好奇心を示す瞳が光っている。

「あの、これはどこに置けばいいですか」
「おお、失敬、失敬。そうだな、それは……こ、ここらへんだな。あと、それは、そ、そっちな」

 言葉に突っかかるのは、興奮したりあせったりした時の北修の特徴である。三人は、指示された場所に絵を置くと座り込み、汗を拭った。

「やっぱり四階まで何度も往復するのはしんどいや。北修さん、話が違いますよ。ちょっと絵飾るだけって言ってたのに。これじゃ出面賃(でめんちん)、奮発してもらわなきゃ。なあ」

 と武志が義雄に同意を求める。

「いやあ、といってもねえ……」
「こいつなんか、かなりへばってますよ」
「……もう、足、パンパン」

 武志に指をさされた同級生はというと、漫画にしたいような眼鏡の痩せっぽちである。積極的に会話に加わる元気はないようだ。

「何言ってんだ。いい若いもんが。体鍛えるいい機会じゃねえか。したら、そのままちょっと休憩してろ」

 少し離れたところで絵の梱包を外していた北修がこう言うと、三人はへーいと声を合わせた。

「……これもわかんねえな。どーも俺にゃ、抽象画って奴は性に合わねえ」

 絵を眺めていた北修が独り言を言うと、着物の襟をバタバタさせていた武志が口を挟んだ。

「わからないと言えば下の階にもとんでもないのがありましたよ。何て言ったっけ、旭川新聞の記者さん」
「小熊秀雄(おぐまひでお)さんだよ。別名、黒珊瑚(くろさんご)」

 すぐ名前が出てきたところを見ると、義雄もその絵には興味を惹かれたらしい。

「そうそう、黒珊瑚。黒珊瑚。でもたまげたわー。何描いてあんだかわかんないうえに、絵の真ん中に本物の塩ジャケの尾っぽ、貼ってあんだから」
「確かああいう絵って、コラージュって言うんですよね?」

 義雄が聞くと、北修がまくしたてた。

「おう、お前らよく聞け。あんなのはな、こ、こけおどしよ。あいつはな、か、変わったことをすりゃ、芸術になると思っていやがる。だいたいあの頭だってそうなんだ。あのもじゃもじゃが、モダンだって言いやがる」

 と、その時、義雄らと同じ書生姿の男が部屋に入ってきた。当の本人、小熊秀雄である。日本人離れした彫りの深さに、ニックネーム通りとぐろを巻いたような特異な長髪。二十三歳。北修より十センチ近く背は低いが、その特徴と痩身のせいで実際より大きく見える。

「……誰の頭がもじゃもじゃだって? これは天然のパーマネントウエイブと言ってほしいな。ところで喜伝司(きでんじ)、まだほとんど絵を飾ってないじゃないか。展示は任せろって言ったのはお前だろ」

 小熊が問い詰めるように言うと、一緒に現れた小池栄寿(こいけよしひさ)が取り成した。小熊らよりさらに年下の二十歳だが、地味なグレーの背広を着込んでいることと、きちっと整えた髪型のせいか、やや老けて見える。

「まあまあ小熊さん。そのために出面賃払って旭川師範学校の精鋭に来てもらってるんだから」

 栄寿はそう言うと、義雄に声をかけた。

「な、大丈夫だよな」
「……ああ、はい。とりあえず搬入は終わったんで。あとは梱包外して、飾るだけですね」
「この子らかい。師範学校の文芸部ってのは」
「ああ。君たち、小熊さんとは初めてだっけ?」

 栄寿が聞くと、元気な二人が立ち上がった。

「あ、はい。一年の渡部義雄です。よろしくお願いします」
「同じく塚本武志です」

 痩せっぽちも立ち上がろうとするが、もたもたしている。

「ああ、いいよいいよ、休んでて。旭川新聞で、文芸欄、社会欄を担当している小熊秀雄です。絵は本業ではないんだが、描くのは好きでね。な、喜伝司(きでんじ)」

「喜伝司って?」

 義雄が小声で尋ねると、武志が北修さんの本名らしいよと答えた。その時、日焼けした顔、小柄だが引き締まった体つきの少年がつかつかと部屋に入ってきた。着古した四つボタンの黒っぽい上着に、同じ色の丈の短いズボンを履いている。

「小池さん。言われた作業は終わりましたよ。あと何やれば」
「ああ、悪いね。まだ細かい作業があるんだよな」
「早く片付けちゃいたいんですよね。これ終わったら、別のところで仕事あるんで」

 いらつきを隠さない。

「ああ、僕もすぐ下に行くからさ」

 少年はため息を付きながらわかったと言うと、去り際に言い捨てた。

「俺ら、休んでるヒマないんで。よ・ろ・し・く、お願いします」

「……何だよ。あいつ、感じわりーな」

 武志がムッとしたのを見て、小熊が話し始めた。

「……奴は東二(とうじ)。松井東二。近文(ちかぶみ)コタンでは、ちったあ知られた顔さ。親父は腕の良い熊狩りだったんだが、事故で死んじまってね。だからあの年で、あれこれ稼いでる。な、栄寿」
「たしか年は君らの一つ下じゃなかったかな。悪いやつじゃないんだが、ぶっきらぼうでね……。おっと、ぼやぼやしてると、東二にしかられる」

 腕組みを解いた栄寿は、座ったままの同級生をちらりと見ると、二人に尋ねた。

「下はもう力仕事はないんで、彼借りて大丈夫かな?」
「ええ、僕らは」

 目で武志に確認した義雄がうなずく。

「じゃ、外した梱包材はまとめて縛っておくこと。別の子に取りに来させます。あと掲示が終わったら、作品名と作者名を書いた紙があるんで取りにきてください。では、ここは任せますよ。君、いいかい?」

 栄寿が部屋から出ていこうとすると、ヘトヘトだったはずの同級生がバネのように勢いよく立ち上がり、小走りについて行った。

「したっけ、また後でね」

「何だ、元気あんじゃん、あいつ」

 武志が呆れると、義雄が苦笑しながら小熊に尋ねた。

「……あの、小池さんって、美術協会の事務局長さんなんですか?」
「栄寿かい。いや、まったくの部外者さ。奴は教師で、やってるのは僕と同じで詩だ。美術協会には、こういう実務を仕切れるやつがいないんで借り出されてるってわけさ。ま、旭川の文化人の中では貴重な人材なんだが、そこが詩人としての奴の限界ともいえる。……なんてえことを言いまして。どれどんな作品が来ているのかな」

 そう言うと、小熊は少しはにかんだ表情を浮かべながら、少し離れたところに立て掛けてある絵に近づき、眺め始めた。

「じゃ、俺らもやるかい」

 義雄が武志に声をかけると、二人は運び込んだ作品の梱包を外し始めた。


 作業を再開して十分ほど経った頃、作品の点検をしていた北修が、近くにいた小熊に声をかけた。

「ところで小熊よ。お前の推薦した『抽象画研究会』とかいう連中の作品、どうにかならんのか。何描いてるか分かんねえ絵見せられたって客は喜ばんだろうが」

 そして声を低くしてこう付け加えた。

「お前のシャケもだけど・・・」
「ああ? 聞き捨てならんことを言うな。お前は客を沸かせるために絵を描いてるのか? 第一、芸術は分かる、分からないじゃない。全身全霊で感じるもんだ」
「そんなこたあ分かってる。ただ上か下かもわかんねえ絵を見せられても、俺りゃ何も感じねえってことよ」

 それを聞いて小熊の声が大きくなった。

「あーあ、情けないねえ。自分の認識を超えた作品に会うと、とたんに思考停止に陥る。喜伝司、だからお前はだめなんだよ」
「言いやがったな。いつも言ってんだろ。俺はお前より三つも年上なんだから呼び捨ては止めれって。そ、それから、き、喜伝司は言いにくいんで北修で通してるんだ。分かったか、この菊頭野郎」
「菊頭たあなんだ。いいか、そこの二人、よく聞けよ。こいつはな、せっかく絵の修行に東京に行ったのに、震災にあって逃げて帰ってきた軟弱者よ」
「うるっせーな。お前だって、せっかくあのおっかねえ東京に付いていってやったというのに、『詩、売れません』とか言って、二か月でとんぼ返りしたろうが。ど、どっちが軟弱よ」
「何を」
「何だ」

 いきなりつかみ合いを始めた二人を見て、たまげたのは少年二人である。しばらくはあっけに取られていたが、まず義雄が声を上げ、武志も続いた。

「ちょっと、ちょっと、止めてくだい。大人気ないですよ」
「そうですよ。まあ、いいじゃないですか。そんな喧嘩するような話じゃないじゃないですか」

 実はこうした喧嘩は、北修と小熊の間では珍しいことではない。お得意の芸術談義で議論が白熱すると、ともに自己主張の激しい質(たち)だけに、お互い引くことを知らない。時には殴り合いに至ることもあるくらいで、つかみ合いなど子犬のじゃれ合いのようなものである。
 その二人が、若者の仲裁の言葉に噛み付いた。まず北修が小熊から離れると武志を睨みつける。

「ああ? お前、今なんて言った?」
「えっ、ああ。……まあ、いいじゃないですかって……」

 義雄にも。

「おめえは?」
「……あの、大人げないって……」
「まあ、いいじゃないか? 大人げない? お前ら何はんかくさいこと言ってんだ。俺らの世界に、まあいいじゃないかなんてことは、一つもないんだ」
「その通りだ。俺たちの主張は自分の命そのものだ。それを否定されるってことは、自分を否定されたってことだ」
「そうよ。お前ら、そもそも何なんだ、何をもって俺らの話をどうでもいいと断じるんだ」

 どうやら標的は若い二人に切り替えられたようである。

「何をもってとか言われても……」

 困ったように武志を見る義雄。

「……そんな大それた意味は……」

 武志は涙目になっている。

「どうした君たち。質問に答えたまえ」

 小熊がそう言うと、武志がいきなり深々と頭を下げ、義雄もならった。

「ごめんなさい。許してください!」

 思わぬ二人の反応に、小熊があきれたように頭(かぶり)を振った。

「……ダメだ。君たち、全然ダメじゃないか」

 と、そこに駆け込んできたのは、下の階で栄寿を手伝っているはずの同級生である。息を切らせている。

「あの、たいへんです。小池さんが、小熊さんにすぐ来るようにって」
「ん? 俺? どうした。なんかあったか」
「それが、野良犬が下の階に入り込んで……」

 小熊と顔を見合わせた北修が尋ねた。

「野良犬? 野良犬がどうした」
「絵を、小熊さんの絵を、齧ってるんです!」


(続く)



<注釈・プロローグ>


* 第一神田館(だいいちかんだかん) 
・神田館の大将と呼ばれた実業家、佐藤市太郎(さとういちたろう)が、1911(明治44)年に旭川の師団通に建てた活動写真館。常設館としては北海道で2番目にできた。6年後に改装されて以降は、一部5階建ての威容を誇ったが、1925(大正11)年、試写中の映写室から出火し全焼した。

炎上する第一神田館(大正14年)

* 活弁
・ 活動写真弁士の略。無声映画時代にスクリーンの脇で筋や台詞を語った説明者。活動弁士、弁士とも。

* 震災
・ 1923(大正12)年に起きた関東大震災のこと。

* 師団通
・ 旭川駅前と陸軍第七師団司令部を結ぶ戦前の旭川のメインストリート。師団道路とも言う。

大正末の師団通

* 旗亭(きてい)
・料理屋、料亭のこと。

*勧工場(かんこうば)
・ 戦前にあった集合型の小売施設。今で言うと、小規模なショッピングモールのような店舗。

<注釈・第一章>


* 旭ビルディング百貨店
・ゴールデンエイジの旭川で最も高かったビル。

旭ビルディング百貨店


* 今野大力・こんのだいりき
・ 旭川で青年期を過ごしたプロレタリア詩人。

* 丸井今井
・ 北海道で最も歴史のある百貨店。旭川には、1987(明治30)年に進出し、丸井今井呉服店旭川支店として開業した。その旭川支店が百貨店になったのは1922(大正11)年。もちろん旭川初の百貨店だった。

* 高橋北修・たかはしほくしゅう
・ 旭川画壇の草分け的存在である画家。

高橋北修

* 旭川美術協会
・高橋北修らが結成した旭川初の美術団体「ヌタップカムシュッペ画会」(ヌタップカムシュッペは大雪山を示すアイヌ語)が発展解消し、1923(大正11)年に発足した組織。

* 旭川師範学校
・ 1923(大正12)年に開校した教員養成のための教育機関。

* 出面賃(でめんちん)
・ 出面(でめん・でづら)とも言う。大工や左官などの日当のこと。幅広くアルバイト代のことを指すことも。

* 旭川新聞
・ 1915(大正4)年創刊の北海東雲(しののめ)新聞が前身。4年後、旭川新聞と改題した。1942(昭和17)年、11紙が統合して北海道新聞が誕生するまで、北海タイムス、函館新聞などと並ぶ道内有力紙だった。

旭川新聞社(昭和4年)

* 小熊秀雄・おぐまひでお
・ ゴールデンエイジの旭川の文化活動を牽引した詩人。のちに東京に出て活躍する。

* 黒珊瑚(くろさんご)
・ 小熊秀雄の異名。とぐろを巻いたような特異な髪形にちなみ、本人が署名記事に使った。

小熊秀雄

* シャケが貼られた小熊の絵
・ 油絵をベースにしたコラージュ。小熊は実際に旭ビルディング百貨店での美術展にこの作品を出展した。

美術展に出展された小熊の作品

* コラージュ
・画面に、様々なものを貼り付ける美術の技法。「糊付けする」を意味するフランス語が語源。

* 小池栄寿・こいけよしひさ
・ 旭川生まれの教師、詩人。戦後になり、手記「小熊秀雄との交友日記」を発表する。

* 近文(ちかぶみ)コタン
・ 明治期に入り、政府が同化政策の一環として、上川地方のアイヌ民族を集住させた地区のこと。この措置により、彼らは古くからの山野をめぐる自由な暮らしを奪われた。

* 「震災にあって逃げて帰ってきた」
・ 北修は関東大震災の際、住んでいた借家が倒壊する直前に外に飛び出して急死に一生を得ている。

* はんかくさい
・ 愚かな、おかしな、の意味の北海道の方言。

* 「小熊さんの絵を、齧ってるんです。」
・ これも実際にあった出来事。どこからか準備中の美術展会場に入り込んだ野良犬が壁に立てかけてあった小熊の絵のシャケの尾を齧ったという。

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