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銀座時代の速田弘 新資料

前回は「蔵出し」で、大正〜昭和初期の旭川の人気カフェー店主、ヤマニの兄貴、ヤマニの大将こと速田弘(はやた・ひろし)についての記事を投稿しました。
今回は、その速田の東京銀座時代の新資料について、この夏に発信した記事を紹介します。

それではどうぞ。

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◆ シローチェーンの広告

まずは、こちら。

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画像01 シローチェーンの広告

化粧品の広告としても通用しそうなスタリッシュなイラスト。
大正末〜昭和初期の旭川で活躍したカフェー・ヤマニ店主、速田弘が、戦後、東京銀座で展開したクラブチェーン、シローチェーンの広告です。

「銀座では何ンと申しても」。

このわざとカタカナを1字使った所、そして「CIRO」のロゴもおしゃれです。

「高級な 日動シロー」、「愉しい カジノシロー」、「落付た バーシロー」、「洒落た クラブシロー」。

4つの店にはそれぞれキャッチコピーが添えられています。
この広告が掲載されていたのはこちら。

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画像02 日劇ミュージックホールのパンフレット

昭和29年に発行された東京の劇場、日劇ミュージックホールのパンフレットです。
広告が載っていたのは、このパンフレットの裏表紙です。

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画像03 日劇ミュージックホールのレビュー(パンフレットより)

日劇ミュージックホールは、かつて東京の有楽町にあった日本劇場=日劇の5階にありました。
東宝経営の娯楽の殿堂と呼ばれたところですね。
開場は昭和27年。
主にトップレスの女性ダンサーが繰り広げる華やかなレビューが売り物でした。
踊り子さんが衣装を脱いでいくいわゆるストリップとは異なります。
またトニー谷や関敬六(せき・けいろく)ら、当時の売れっ子コメディアンによるコントも評判でした。
ただ昭和55年には、有楽町の再開発に伴い、日劇の閉鎖、解体が決まります。
このため同じ有楽町にあった東京宝塚劇場に移転。
昭和59年には、営業を終え、閉館されました。

広告が掲載された昭和29年といえば、ミュージックホールの開設から2年後です。
新たな娯楽の登場に注目したかつてのモダンボーイ、速田の意気込みが感じられます。

◆ 速田弘とは

ここで改めて速田弘について、押さえておきましょう。

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画像04 速田弘(1905−?・旭川新聞)

速田は、明治38年に旭川で生まれた実業家です。
経営していたのは、旭川中心部、4条通8丁目にあったカフェー・ヤマニ。
時代を先取りした鋭い経営感覚で、店を旭川有数のカフェーに育てました。
しかし戦時色の強まりに伴い経営環境は次第に悪化。
新店舗、パリジャンクラブへの投資も、結局は経営不振に拍車を掛ける結果となります。
そして1934(昭和9)年、行き詰まった速田は自殺未遂を図り、旭川から姿を消します。

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画像05 カフェー・ヤマニ(大正11年)

そんな速田が、再び注目されるのは戦後のこと。
前述のナイトクラブチェーン、シローチェーンのオーナーとして復活します。
ただ旭川を去ってからのいきさつは不明です。
ワタクシの調査では、昭和29年時点で、速田が銀座に4店のシローと名の付くクラブを経営していたことは分かっていました(今回の日劇ミュージックホールの広告も昭和29年の刊行です)。
また昭和30年時点で、速田が当時の地域の飲食業者でつくる銀座ソシアルサロン組合(現在の銀座社交飲料組合)の副会長であったことも確認しています。
銀座において、一気に4店もの店舗を持ったとは考えづらい。
業界団体の幹部となるのは、相当の実績が必要だったはず。
こうしたことを考えますと、彼が銀座で店舗営業を始めたのは、戦後のもっと早い時期なのではないかと考えます。

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画像06 昭和30年代の銀座(絵葉書)

ともあれ、旭川で示した速田の優れた経営感覚は、やはり本物だったということでしょう。
ただ戦後の速田については、この頃、銀座で成功をおさめたという以外はほぼ不明です。
このうちシローチェーンについては、昭和30年代に経営者が別の人物に移ったようです。
そして40年代末までにはすべて閉店したと伝えられています。

◆ センスあふれる店舗デザイン

さて速田は、旭川時代、弦楽アンサンブルでチェロを弾きました。
ジャズのバンドも結成していたことが知られています。
こうしたアート分野の才能も速田の実業家としてのセンスの良さの源です。
その特徴がよく現れているのが、店舗と広告のデザインです。

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画像07 改装後のカフェー・ヤマニ(昭和5年・絵葉書)

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画像08 ヤマニ(改装前)と喫茶アボQを含むジオラマ(旭川市博物館所蔵)

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画像09 パリジャンクラブ(旭川市街の今昔 まちは生きている)

ヤマニは、昭和5年の改装後の姿です。
デザイン性の高いファサード(外壁)が特徴です。

アボQは、ヤマニの並びに速田が開店した喫茶店です。
名前はギリシャ神話の女神の名前が由来とされています。

写真は、旭川市博物館にある昭和始めの4条師団通界隈のジオラマです。
交差点に面した角のサッポロビヤホールの看板のある建物がヤマニ。
その右側、9丁目方向に視線をずらしていくと、街路樹が切れたところに白く見える壁(実際は黄色)に丸窓が2つ見えます。
この部分がアボQです。

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画像10 アボQを紹介する新聞記事(昭和6年・旭川新聞)

一方、パリジャンクラブは3〜4条仲通りの7丁目にありました。
右端の4階建てのビル(旭ビルディング百貨店)のすぐ手前がパリジャンクラブです。
少し分かりづらいのですが、入り口脇にシースルーの螺旋階段がある斬新なデザインです。

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画像11 パリジャンクラブの設計図(旭川市街の今昔 まちは生きている)

写真のヤマニと、アボQ、パリジャンクラブ。
3つの店舗の改修や設計は、いずれも札幌在住の名建築家、田上義也(たのうえ・よしや)が手掛けています。
田上は本業の他、バイオリニストとしても活躍した人です。
同じように音楽家でもあった速田と交流がありました。
おそらくは速田の斬新な感覚を理解した上で、田上も腕をふるったのではないでしょうか。
昭和初期の旭川に、こんな斬新なデザインの建物があったという事実は、実に愉快です。

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画像12 田上義也(1899−1991・ほっかいどう百年物語:北海道の歴史を刻んだ人びとー。第6集)

◆ 際立つ広告センス

続いて、広告について見ていきましょう。
戦前の速田は自分でコピーを考え、カットも自分で描いていました。
せっかくですので、少しまとめてご紹介します(画像はいずれも旭川新聞より)。

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画像13 ヤマニの広告①

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画像14 ヤマニの広告②

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画像15 ヤマニの広告③

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画像16 ヤマニの広告④

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画像17 ヤマニの広告⑤

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画像18 ヤマニの広告⑥

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画像19 ヤマニの広告⑦

いずも昭和始めのものとは思えないユニークさ。
速田のセンスが溢れています。

続いて、戦後のシローチェーンの新聞広告です(画像はいずれも読売新聞より)。

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画像20 シローチェーンの広告①

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画像21 シローチェーンの広告②

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画像22 シローチェーンの広告③

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画像23 日動シローの広告

旭川時代の斬新さこそありませんが、いくつかの文字種を組み合わせているところなど、「同種」のニオイがしますよね。
おそらくは、戦後も、広告のデザインは本人がアイデアを出すなど深く関わっていたと思われます。

なお本人の名前が書かれた火事見舞いを見つけましたので、これも紹介しておきます。

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画像24 火事見舞いの新聞広告

◆ シローチェーン

さて戦後の銀座に花開いた速田のシローチェーン、いったいどんな店だったのでしょうか。
キャッチコピーにも見られるように、4店、それぞれに個性があったと推測できます。
出店場所からいってもどれも一流のナイトクラブだったことが伺えます。
雑誌銀座文化研究(銀座文化史学会編)に添えられた昭和29年の銀座の地図には、シローチェーンの各店舗の名前が確認できます。

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画像25 昭和29年の銀座地図①(銀座文化研究)

まずは西銀座5条1丁目のこの区画。
日動シローの名前があります。
隣に日動画廊の名前がありますが、日動シローは画廊の入るビル(日本動産火災保険本社ビル)の地下にあったと思われます(シローの入り口はビルの裏側)。
日動画廊は日本で最も歴史あるとされる洋画商です。
この場所には、いまは東京海上日動銀座ビルが建っています(中に日動画廊も)。

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画像26 昭和29年の銀座地図②(銀座文化研究)

つづいてはみゆき通り沿いの銀座6丁目のこの区画。
ここにもシローの名前があります。
当時の銀座年鑑で確かめますと、この店はカジノシローだったことがわかります。
現在は銀座尾張町towerという10階建てのビルになっています。
なお同じ区画には交詢社(こうじゅんしゃ)の名前が見えます。

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画像27 昭和29年の銀座地図②(銀座文化研究)

交詢社は明治13年に福沢諭吉らが設立した日本初の実業家の社交クラブです。
クラブは現在も同じ場所に建つ交詢ビルディング内にあります。
なお交詢ビルディングの地下にかつて交詢社シローという店があったと書かれているネットの記事がありました。
ただ調べた限りでは銀座年鑑にはその名前はなく、確認はできていません。

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画像28 昭和29年の銀座地図③(銀座文化研究)

最後に銀座8丁目のこの区画。
シローBARの文字が見えます。
銀座年鑑によりますと、この住所には、クラブシローとバーシローがありました。
ここはいま資生堂パーラーや資生堂ギャラリーなどが入る東京銀座資生堂ビルになっています。

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画像29 戦後の銀座(絵葉書)

一方、4店舗のうち看板店の日動シローでは、ジャズなどのバンド演奏が日常的に行われていたようです。
サックス・クラリネット奏者の清水万紀夫さんは、インタビュー記事で、若き日に日動シローで演奏していたこと、のちにクレイジー・キャッツに参加する桜井センリさんのバンドも出演していたことなどを語っています。
旭川でジャズバンドを結成していた速田のことですから、うなずける話です。

またネットである記事を見つけました。
Obacoという方のブログで、青春時代の思い出について書いているのですが、そこに日動シローが登場します。
この方は17歳の頃、西銀座の名曲喫茶「らんぶる」でウエイトレスをしていたそうです。
裏通りをはさみ、「らんぶる」のすぐ前が日動シローでした。

25のコピー

画像30 昭和29年の銀座地図①(銀座文化研究)

先程の地図を見ると、そのとおりの位置に「らんぶる」があります。
ブログによりますと、暇な日の夕方、入り口の前のドアのところに佇んでいると、田舎から出てきたばかりという彼女には縁のない(obacoというからは秋田出身の方なのでしょうか)、小顔で背が高く、スラリとした足にハイヒールの美人たちが、狭い入り口から階段を降りてゆくのをよく目にしたそうです。
当然この美人たちはシローのホステスさんですよね。

ジャズの生演奏が流れる店内で客を迎える艶やかなホステスたち。
どんなに華やかな大人の空間だったのかと、想像を掻き立てられます。

戦後の速田弘については、本格的に調査をしたいとつねづね考えていた所ですが、場所が東京であることからなかなか進んでいません。
ただ末裔の方を探すなど、機会を見つけて、何とか調べることができたらと思っています。
読者の中で何か情報をお持ちの方がいたら、ぜひお知らせ下さい。(2021年7月初出をアップデート)

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画像31 戦後の銀座(絵葉書)

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