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小説版「旭川青春グラフィティ ザ・ゴールデンエイジ」第二章・第三章



はじめに


前回から掲載を始めた「小説版 旭川青春グラフィティ ザ・ゴールデンエイジ」。今回は第二章と第三章。いよいよ物語の主要舞台になるカフェー・ヤマニの登場です。

ヤマニは大正末〜昭和初期の旭川に実際にあったお店です。この物語の頃のヤマニはまだ食堂時代から続く和風建築のままですが、昭和5年には第二章にも登場する名建築家、田上義也(たのうえよしや)の手によって、斬新なデザインのファサード(外壁)が取り付けられ、魔法のようにモダンな姿に変身します。

また店長の速田も登場する時代が早すぎたと思えるくらい鋭い経営感覚を持った人物です。

物語では、そんなヤマニに右翼とアナキストの2つの団体の男たちが現れ、なにやら剣呑な雰囲気が漂います。さらに第三章では、この物語の前半のヒロインであるのちの歌人、齋藤史が登場します。

それでは今回も最後までお付き合いください。




第二章 大正十四年八月 カフェー・ヤマニ


 こゝに理想の煉瓦を積み
 こゝに自由のせきを切り 
 こゝに生命(いのち)の畦(あぜ)をつくる
 つかれて寝汗掻くまでに
 夢の中でも耕やさん

                    (小熊秀雄 「無題(遺稿)」


 北海道の中央部に広がる上川盆地は、大雪山系(たいせつさんけい)の山々を源とする大小の河川が作る沖積平野である。
 上川とは、文字通り川の上流を意味する。その川とは北海道を代表する大河、石狩川である。山々から流れ込む大小の河川は、盆地を進む中で合流して一つにまとまり、盆地南西部から硬い岩盤の山地を貫ぬく渓谷、神居古潭(かむいこたん)を経て空知(そらち)平野に至り、さらに遠く石狩河口へと向かう。

 その上川盆地の最大の特徴は、調和の取れた美しい景観にある。概して盆地地形は、山に囲まれた安定感の反面、ある種の息苦しさを生む。ところが上川盆地の東にそびえる大雪(たいせつ)の山々は、二千メートル級の高山であるにも関わらず威圧感はない。中心市街地から四・五十キロ離れているためである。一方、他の方角の山々は街のすぐ脇にあるが、標高は低く姿もやさしい。東の雄大かつ荘厳な山塊に、その他の親しみのある山地。この独特の景観を持つ上川盆地に、北海道内陸部の開発拠点を設けようという構想が持ち上がったのが、明治十年代である。

 二十年代に入ると、道央から上川に向かう道路が建設されるなど、構想は具体化が進む。明治二十三年には、アメリカ、ミシガン大学で学んだ北海道庁技師、時任静一(ときとうせいいち)が市街地候補の三か所の測量を命じられ、街づくりの基礎となる区画割を作成した。現在、旭川の中心部となっているのは、石狩川と忠別川(ちゅうべつがわ)に挟まれた当初第三市街地とされた場所で、碁盤の目状の整然とした町並みが広がっている。

 その碁盤の目の中で、ほぼ東西に設けられた条通のうち、一、四、七の各条通は、他の通の幅が十一間(約二十メートル)なのに対し、十五間(約二十七・三メートル)と広い。その主要道路の一つ、四条通と、駅前から北に伸びるメインストリート、師団道路の交点に当たる四条通八丁目角にあるのがカフェー・ヤマニである。

 旭川一のカフェーの名店とされるこの店は、明治四十四年、同地で開業したヤマニ旭館(あさひかん)食堂が前身である。店主は、先月、二十三歳になったばかりの速田弘(はやたひろし)。屋号のもととなった父親の仁市郎(にいちろう)から店を受け継いだのは三年前のこと。時流を見てビヤホールに改装すると、二年前にはさらにカフェーへと転身させた。

 その速田は、地元では「旭川一のモボ」、「ヤマニの大将」、「ヤマニの兄貴」などと称されている。中肉中背、細面で、頭はオールバックに固めてある。舶来の赤いベストに黒の蝶ネクタイ、吊りズボンがいつものスタイルだ。

 四十席余りの広い店内では、半年ほど前から始めた女給連によるミニショーが終わったばかり。ショーの監督でもある速田が戻ってくるのをカウンター脇で迎えたのは、師範学校生の塚本武志である。白シャツに蝶ネクタイ、前掛けをしている。

「大将、お疲れ様でした」
「おお、ありがとう。武志君、君もボーイ姿が様になってきたね」
「ここでお手伝いを始めてもう一か月ですから」
「でもいいのかい? 学校のほうは」
「大丈夫ですよ。大将の弟子してるだけで社会勉強になりますから」
「ま、うちは人手が足りないで助かるんだけどさ」

 そう言って速田が武志の肩をポンと叩いた時、ガランガランと入り口の鐘が鳴って三人連れが入ってきた。画家の高橋北修、詩人で新聞記者の小熊秀雄、そして武志の親友、渡部義雄。

「これは、これは、北修さん。あれ、小熊さんは上京したと聞いていましたが?」

 目ざとく寄っていった速田がそう声をかけると、いつもの背広姿の北修がおどけたように言った。

「それが、また戻ってきちまったのよ。今度は……んー、三か月か」

 小熊が二度目の上京を企てたのはこの年の春のことである。前年に開かれた旭ビルディングの美術展会場で知り合った二歳年下の小学校教師と結婚したのが二月。そして二人連れ立って東京で新生活を始めたが、やはり詩や小説などの作品は売れず、新妻のなけなしの蓄えもほどなく尽きて旭川に戻った。

「まあヤマニが恋しくて帰ってきたってとこさ。それより紹介するよ。渡部義雄君。我が詩人の集いに参加したての有望株さ。こっちは旭川カフェー界の風雲児、ヤマニの大将こと速田弘御大だ」

 この日は背広姿の小熊に紹介されると、ぺこりと義雄が頭を下げる。

「渡部です。はじめまして」
「速田です。あなたのことは武志君から聞いてましたよ。ま、ここはお酒を飲まない人も来るところだから、たまに顔みせて下さい」
「きょうは我が愛する旭川の精鋭たちに、義雄君を引き合わせようと思ってね。ああ喜伝司とはたまたまそこで会っただけさ。じゃ俺は先に」

 そう言って小熊が奥のテーブルに向かうと、北修が口をとがらせた。

「どうせ俺は部外者よ」
「そうだ、北修さん。時間あります? 今度やるショーで手伝ってもらいたいことがありまして。良かったら奥に」

 北修は、東京で絵の修業をしていた時、大きな看板屋に勤めていて、たまに舞台装置の制作にも関わっていた。なので、ヤマニのショーで書き割りなどを使う際、制作を依頼されていた。

「おお、いいよ。大将の頼みとあらば、なんなりと」

 二人がカウンター裏の事務室に消えると、いつの間に寄って来たのか、武志が義雄の上着の裾を引っ張った。

「なしたのさ、お前。こんなところに来て」
「詩の集まりがあるからって小熊さんに呼ばれたのさ。それにお前のことも気になってたし。……それにしてもここ、さすが旭川一のカフェーだな」
 
 義雄は趣味の良い椅子やテーブルが並んだ店内を見渡した。

「そりゃそうよ。ここの大将は何をやってもセンスがいいのさ」
「お前はさ、なんでも影響されやすいんだから。……まあいいや。ここって旭川の文化人のたまり場なんだろ? どういう人が来んの?」
「教えてやるかい」
「え、お前。そういう人たちのこと、知ってんの?」
「当たり前っしょ」

 そう言うと、武志は一段高くなっているカウンター脇に義雄を連れていき、説明を始めた。

「まずあのテーブル席の三人。一番右は町井八郎さん。東京音楽学校を出た音楽の先生で、近くで楽器店もやってる。真ん中は札幌の人で田上義也(たのうえよしや)さん。有名な建築家だけど、バイオリンの名手で、旭川でも何度か演奏会を開いてるんだわ。で、この二人を結びつけたのが、左にいる竹内武夫さん。北海タイムズの支局長さん。実はうちの大将もチェロを弾くんで、この三人とは仲良しなのさ」

 まるで我が事のように誇らしげに言うと、武志は続けた。

「で、あそこの席なんだけど、いまタバコを吸ってるのが加藤顕清(けんせい)さん。東京美術学校を出た彫刻家さん。住んでいるのは東京だけど、ときどき旭川に戻ってきてる。眼鏡をかけているのは、歌人の酒井廣治(ひろじ)さん。東京時代は北原白秋の一番弟子と呼ばれた人で、旭川を代表する実業家でもある。そしてその隣でニコニコしている着物の人は佐藤市太郎さん。速田さんはヤマニの大将だけど、佐藤さんは活動写真館、神田館の大将。旭川以外にもいろんなところで活動写真館を経営してるのよ」
「そうなんだ。すげーな」

 義雄の声が高くなる。

 武志が解説した通り、旭川一の目抜き通りにあるヤマニには、連日のように多彩な顔ぶれの文化人、経済人が詰めかけている。その中心は、今や街づくりの主役となった開拓二世である。多くは北海道生まれで、文芸や音楽、美術といった文化活動に熱心な人物も少なくなかった。

 そんな地元の文化人のリーダー格として活躍していたのが、自らも小樽生まれの開拓二世の小熊である。その小熊の甲高い声が奥のボックス席から響いた。

「おーい、義雄くん。そろそろ来いよ」
「あ、すぐ行きます。武志、したっけな」

 そう言い残して義雄が向かった席には、小熊のほかに同年輩の三人の若者がいた。

「彼が話をしていた渡部君だ。こっちが鈴木政輝(まさてる)くん。東京の日大に進学して、今帰省中。こっちは今野大力(だいりき)くん。郵便局で働いてる。栄寿は……あ、美術展の時に会ってるか」

 先に紹介された二人は、軽く義雄に会釈をした。久しぶりといったように手を上げたのは小池栄寿である。政輝と栄寿は二十歳。大力は二十一歳。いずれも小熊と政輝が中心となって始めた詩誌「円筒帽(えんとうぼう)」の同人である。

「渡部君、詩はいつごろから?」

 書生姿で、浅黒い精悍な顔付きの政輝が義雄に聞いた。

「半年ほど前からです。でもまだ自分の思いをどう表現していいか、わかんなくて……」
「まあ、そういう時期は悩まずどんどん書くべきだと思うな。そうすれば自然と形ができてくる。なあ?」

 政輝が振った大力は、詰め襟の制服を着ている。

「いや、僕もまだ自分の気持ちにふさわしい言葉が何日も出てこないことがあります」

 それを聞いて、小熊が大げさにうなずいた。

「なるほどねえ。でも珍しいな。大力がこういう席に出てくるのは」
「いえ、鈴木君が帰ってきていると聞いたもんで……」
「そうかそうか。諸君、これが今野大力だよ。友のためにあえて苦手な場にも出てくる。人間性だね」
「そんなことないですから……」

 と、大力が坊主頭を掻いた時、入り口の鐘の音とともに大きな声が響いた。

「あの、すみません。困ります」
「いーから、ここに入っていくのを見た奴がいるんだよ」

 そう言って武志を押しのけるようにして入ってきたのは三人の男である。いずれも襟に旭川極粋会(きょくすいかい)と文字の入った揃いの法被を着ている。そして、少し遅れて白の麻の上下を着た大柄な男が現れた。

 旭川極粋会は、一年前に市内の有力者が中心となって結成した国粋主義の団体である。
 明治三十年代、都市機能の整備を待ち、陸軍第七師団は、一時的に置かれていた札幌から旭川に移駐した。三十三年からほぼ丸二年かけて行われた移駐では、司令部を始め、札幌に留め置かれた一つの歩兵連隊を除くほぼすべての部隊、病院や刑務所などの組織が旭川に移された。
 ちなみに第七師団の「七」は「なな」ではなく「しち」と呼ぶ。明治二十九年、宮中で行われた初代師団長、永山武四郎(ながやまたけしろう)の任命式が行われた際、明治天皇が「だいしちしだん」と呼んだためで、以来、この呼称が使われている。
こうして七師団(しちしだん)の本拠地となった旭川には、その後、少なくない数の右翼団体ができた。極粋会はそれらをまとめる上部組織として位置付けられている。

「営業中なんですよ。困ります」

 法被姿の三人は、止めようとする武志に罵声を浴びせ、店の中央まで進んできた。

「うるっせーんだよ」

 それぞれの席で客を接待していた女給のなかには、驚いて声を上げるものもいる。
 その時、カウンター脇の事務所のドアが開き、速田と北修が現れた。

「武志君、どうしたの? その方たちは?」
「すみません、大将。なんか探してる人がいるって……」

 武志の言葉にかぶせるように、法被姿の三人のうちスキンヘッドの男が速田に近づいた。

「おう、黒色(こくしょく)青年同盟の梅原って奴な。ここにいるはずなんだわ。出してもらおうか」
「梅原さん? 何かの間違いじゃないですか。ここにはそんな人いませんよ」

 速田が怪訝そうな顔をすると、吊り目が特徴の小柄な男が吠えた。

「このたくらんけがあ。ここに入るのを見た奴がいんだよ」

 客の一部はあわてて帰り支度を始め出した。その時、麻の上下が三人を制して前に出た。旭川極粋会の現場責任者を務める片岡愛次郎である。

「まあ、ちょっと待て。……速田さんですよね。極粋会行動部長の片岡です。実は、無政府主義者の一味がいましてね。そこの梅原って男が、ある町工場(まちこうば)で悪さしたんですよ」
「そうなんですか。で?」
「うちの若い者が話をしようとしたら逃げましてね。で、探していたら、この店に、というわけなんです。お引渡し願えないですかね」
「でも、そういう方はいませんのでねえ」
 
 速田の表情は変わらない。

「速田さん。ご存じだと思うが、うちは純粋な愛国者の善意で支えられている団体だ。一方、黒色青年同盟っていうのは、アナキスト。危険な連中です。ご理解いただけませんか」

 片岡の言うように、黒色青年同盟は、二年前に東京で結成された無政府主義者の全国組織である。一年前には、北海道でも旭川や小樽に地方組織ができた。

「おう、行動部長がこうやって言ってんだ。さっさと出せよ」

 吊り目が突っかかったとき、奥の席にいた小熊が、ひとつ首をぐるんと回すと声を上げた。

「あーあ、今日日(きょうび)の蠅は、飛び回るだけじゃなく、ギャーギャー喚くようになったんかね。うるさくってしょーがねえな」

 それに呼応したのは、カウンターの脇にいた北修である。

「あのよ、お前ら極粋会ってのはあれだろ、辻川のとっつぁんが会長なんだよな」
 
 そうですがと片岡が答える。

「辻川泰吉(やすきち)といやあ、元は博徒の顔役。今は足を洗って旭川有数の実業家よ。そうだよな」
「おっしゃる通り」
「ただな。俺の知っているとっつぁんは、昔から堅気の衆を困らせるようなやり方は嫌いだったはずだ。だからよ」

 そう言って、北修が小熊を見る。喧嘩もするが、こうした時の二人の呼吸は絶妙である。

「おー分かった。なんなら俺が使いになろうか。そのとっつぁんとやらに来てもらうんだろ」

 席を離れて寄ってきた小熊を見ながら北修が言った。

「ま、こいつらの出方次第だけどな」

 二人の参入に意表を突かれたのか、法被姿の三人はどうしたものかと顔を見合わせている。

「……画家の高橋北修先生ですよね。会長の名前を出されちゃ、ことを荒立てるわけにはいきませんわな」

 ポケットに両手を入れたままの片岡は、苦笑しながらそう言うと、速田に顔を向けた。

「……まあ、今日のところは引き上げることにしましょう。ただね速田さん。梅原ってのは、東京から流れてきた男だが、すこぶる問題のある奴なんだ。見かけた時は、ぜひ知らせてほしい」

 片岡は部下の三人に行くぞと声をかけ、歩き始めた。三人は会計にいるボーイを威嚇しながら片岡を追ってゆく。


「すみません、なんか関わらせてしまって」

 極粋会の四人が店の外に出たことを確認した速田が、小熊と北修に頭を下げた。

「いーってことよ。それより武志も頑張ってたんじゃないか。やめてください、営業中でーす、なんてさ」

 北修がカウンターにいる武志をからかうと、小熊とともに奥の席から出てきていた栄寿と政輝が言った。

「……あれ、武志君、なんか服変わってない?」
「あと、いつの間に義雄君、そっちに行ったの?」
「えーと、それは、訳があって……」
「あ、ぼくも、武志に言われて……」

 カウンターには義雄もいて、何故かともにもじもじしている。その時、小熊が声を上げた。

「二人とも、もういいんじゃないか。そこで金庫番みたいに頑張っていたらばればれだよ。梅原さんとやら、出ておいでよ」

 カウンターの後ろの棚には、品揃えでは北海道でも負ける店はないと速田が自慢する各種の酒が並んでいる。その棚を背にした武志と義雄の間から、長髪の若い男が立ち上がった。黒ズボンに白シャツのボーイの格好をしている。黒色青年同盟旭川支部長の梅原竜也(たつや)である。

「黒色青年同盟の梅原と申します」

 武志があわてて説明を始める。

「あの、さっき大将にカウンターの下にこの人がいるから、そばに立ってれって。で、もし見つかった時、ごまかせるかもしれないんで、服も交換して……。あと一人で不安だったんで、義雄にも来てもらいました」
「店の裏にこの人がいましてね。何か訳ありだったんで、入ってもらったんです。さ、こっちにおいでなさい」

 速田にうながされてカウンターを出た梅原は、店の中央まで進み、深々と頭を下げた。

「皆さん、ご迷惑をおかけしました。普段は、できるだけ仲間と一緒にいるようにしているんですが……」

 と、栄寿の隣にいた大力が声を上げた。

「……あの、すみません。ひとつ聞いていいですか?」
「ああ、はい」
「東京からきたと聞きましたが?」
「はい。その通りで」
「では、震災の時に殺された大杉栄や伊藤野枝(のえ)と関係があったのではないですか?」

 梅原は少し考えると、うなずいた。

「……そうですね。彼等ととても近い所にいたのは確かです」
「じゃ旭川には?」
「……向こうでは日々監視の目がきつくなっていましてね……」

 そうですか、ありがとうございましたと頭を下げた大力が席に戻ると、梅原が速田を見た。

「……では私はそろそろ」
「お仲間を呼んだ方がいいんじゃないですか。連中、まだうろうろしてるかも」
「いえ、大丈夫です。それに、これ以上迷惑は……」

 速田がでもと言いかけた時、カウンター脇の椅子に座って話を聞いていた小熊が声を上げた。

「大将、本人が言ってんだから、無理に引き止めなくてもいいじゃない」

 立ち上がって梅原の前に出る。

「それより梅原さん。さっき片岡なにがしが言ってた話だけど、俺の耳にも入ってるよ。労働争議に割り込んで、あんた町工場の社長を何日も大勢で囲んて吊し上げたそうじゃない。俺は、労働運動の意義は認めるが、それじゃ暴力だ」

 問われた梅原はふっとひとつ息を吐くと、小熊の目を見た。

「小熊さんでしたよね。失礼ですが、社会改革ってのは、情が入っちゃ駄目なんですよ。特にこの旭川は、陸軍師団の城下町だ。軍関係者や右翼団体が街を闊歩してる。我々も時には非情にならなければならないんです」
「だとしても……」

 梅原の言葉に次第に熱がこもっていく。

「私はね、理念は語ったものの何も反撃しないで嬲り殺された大杉や伊藤とは違う道を行こうと旭川にやってきたんです。ここで私は逆襲の足がかりを作るつもりなんだ。だからこそ、私は……」

 そこまで言うと、梅原は店内中の人の目が自分に注がれているのに気づいた。

「……失礼。仲間が待ってますので」

 再び深く頭を下げると、梅原は急ぎ足で店を出ていく。

 ガランガランと鐘の音がしたあと、北修がおどけたように言った。

「……右翼にアナキスト、師団通はにぎやかだねえ」
「詩人に絵描き、女給に社長。まだまだいるよ。だから世の中は面白い。なあ君たち」

 小熊がカウンターの二人にそう振ると、義雄がとまどいながら答えた。

「え? あ。そうかもしれません。なあ」

 と同意を求めた時、武志が素っ頓狂な声を上げた。

「あ!」
「何? どうした?」
「……あの人、俺の服着たまま行っちゃった!」



第三章 大正十五年七月 カフェー・ヤマニ



 あかしやの金(きん)と赤とがちるぞえな。
 かはたれの秋の光にちるぞえな。
 片恋(かたこひ)の薄着のねるのわがうれひ
 「曳舟(ひきふね)」の水のほとりをゆくころを。
 やはらかな君が吐息のちるぞえな。
 あかしやの金と赤とがちるぞえな。
                      (北原白秋「片恋」)


 ヤマニの大将こと、カフェー・ヤマニの二代目店主、速田弘は、若年ながら旭川の実業界きっての才人として知られている。
 体調を崩していた父親から店の経営を受け継いだのが、二十歳になったばかりの頃。それまで、弘はほとんど店の切り盛りには関わっていなかった。それだけに周囲にはヤマニの将来を危ぶむ声が少なくなかった。

 ところが若き二代目は、それまでの食堂から、まずビヤホール、さらにはカフェーへと大胆に転身を図る。その裏には、まず「食う」ことが優先された父親の時代に比べ、自分たち開拓二世の時代には、飲食業にもより高い付加価値が求められるという読みがあった。
 事実、生ビールを始め、各種の洋酒、ソーダ水やホットオレンジ、ホットレモンなど新たな嗜好品が旭川にも流入してきていた。さらにカフェーは、より身近で素人っぽい女性である女給との疑似恋愛的なやりとりが男たちの心をつかみ、全国的に急増していた。

 そうした時流に乗ったことに加え、速田は当時の一番のメディアであった新聞を使った宣伝を武器にした。

「カフェー劇場 ヤマニ座」
「街の波止場 女セーラー入港中」

 子供の頃から、作文が得意で、絵も達者だった速田は、自作のキャッチフレーズに、やはり自作のカットを添えた営業広告を連日のように地元新聞に掲載した。

「ヤマニの女は人殺し女子(おなご) 胸を突かうか首切りましょか イッソ!とどめを えェ刺しましょか」

 中にはこんな芝居調の広告文句もあった。その斬新さは、「次はどんな広告が出るのか」と、地元っ子の間で話題になるほどだった。

 さらに店の一角で行われるミニショーも、多才な速田ならではの趣向だった。速田は十代の頃からチェロを弾き、旭川で初めて結成された弦楽アンサンブル、旭川共鳴(きょうめい)音楽会で活動した。さらに自身が指導するチャールストン・ジャズバンドなるグループも結成していた。
 ミニショーは、このバンドによる演奏のほか、女給たちの歌や踊りが中心で、寸劇や福引などを行うこともあった。そのすべては、速田自身の監督のもとで披露された。

 そのヤマニでは、速田と女給たちがショーの出し物の稽古をしている。

「立ち位置、もう少し広がった方がいいかな。……そう、で、もう少し全体に右」

 普段は鷹揚な態度で女給たちの評判も上々な速田だが、こうした場面では細かなところまでダメを出す。ただこだわる一方で、ユーモアも忘れない。

「あと、みんな、もっと笑顔ね。せっかくべっぴん揃いなんだから、もったいないっしょ」

 表情を崩した女たちが取り組んでいるのは「ヤマニのテーマ」。浅草オペラの大ヒット曲「ベアトリ姉ちゃん」をもとに速田が作った替え歌である。
 カウンターの前では、その様子を北修と義雄が見ている。義雄は武志に用事があって少し前に店に着いたばかり。だが、何故か武志の姿はない。

「さあ、もう一回、頭からやろう」

 速田はそう声をかけると蓄音機に用意したレコードに針を落とす。流れ出したワルツの調べに乗って女給たちが歌い始めた。

 ヤマニの姉ちゃんまだねんねかい
 鼻からちょうちんを出して
 ヤマニの姉ちゃんなに言ってんだ
 むにゃむにゃ寝言なんか言って
 歌はトチチリチン トチチリチン ツン
 歌はトチチリチン トチチリチン ツン
 歌はペロペロペン 歌はペロペロペン 
 さア早く起きろよ

 「ベアトリ姉ちゃん」は、東京の浅草オペラで人気を集めた舞台「ボッカチオ」に登場する歌曲である。元歌では「ベアトリ姉ちゃんまだねんねかい」と、登場人物の若い娘、ベアトリーチェに呼びかけるが、速田はこれを「ヤマニの姉ちゃん」と替えた。

 ヤマニの姉ちゃん 新米女給さん
 なぜそんなにねぼうなんだ
 さあ早く起きないか
 もう店が開く時間だ

 笑顔で歌う女給たちの後ろには、小さなベッドがあって、そこに誰かが寝ている。歌に登場する新米女給のようだ。

 歌はトチチリチン トチチリチン ツン
 歌はトチチリチン トチチリチン ツン
 歌はペロペロペン 歌はペロペロペン 
 さア早く起きろよ

 (原曲 「ベアトリ姉ちゃん」小林愛雄・清水金太郎訳・補作詞 スッペ作曲)

 二番に入ると、そのベッドが前方に向かって次第に傾き、歌が終わると同時に寝ていた女給が転げ落ちた。持っていた目覚まし時計を見た彼女は、客席奥に向かって駆け出してゆく。

「たいへん。遅刻しちゃうー!」

 カウンター脇の通用口から新米女給の姿が消えると、速田が手を叩いて女たちに告げた。

「オーケー、上出来、上出来。きょうはこのあたりにしておこう。あとはみんな休んでて」

 監督の指示に二階の控え室に移動を始めた女たちと入れ替わるように北修が前に出てきた。

「大将、なんまらいいわ。これ見たらヤマニのファンがまた増えるわ」

 後ろに従う義雄も目を輝かせている。

「ほんとです。芝居仕立てになってるんですね」
「ああ、たまにマイムを入れてもいいんじゃないかなと思ってね。ベッドが傾く仕掛けは北修さんのアイデアさ」
「はい。よくできてました。どうやって動かしてるんですか?」

 ああ、それはと速田が言いかけた時、傾いたベッドの陰から武志が顔を出した。

「……俺だよ。北修さん、勘弁してくださいよ。中は狭いし、女は重いし」

 仏頂面で外に出てきた武志は、モスグリーンのルバシカを着ている。もとはロシアの男性用の上着だが、明治の終わり頃から、ロシア芸術に憧れる演劇人や絵描きらに愛用された。腰の辺りを赤い紐でくくっている。

「だいたいこのベッドだってほとんど俺が作らされたじゃないすか。絵の修業をさせてくれるっていうから、弟子になったのに……」
「え、なに? お前、大将の弟子だったじゃん?」

 義雄が驚くと、武志は目線をそらした。

「いや店の手伝いはさせてもらってるよ。でも絵描きもかっこいいかなって」
「相変わらず、腰が据わんない奴だな」

 そして、ツンツンと武志の上着を引っ張る。

「それにこの恰好、いつも形から入るんだから。北修さん。いいんですか、こんなの弟子にして」
「装置作りはよ、手間がかかるからな。手伝いがいると重宝なんだよ」

 涼しい顔である。

「あーあ、俺もう北修さんの弟子やめよっかな。きついし、きったなくなるし」
「まあ、そう言うなって。俺に付いてるといいぞ。看板描きも覚えられるし、小唄だって、都都逸だって教えちゃうぜ」
「そんなの絵に関係ないじゃないですか」

 武志はそう言うと、置かれたままのベッドを指差した。

「ちょっと直したいところがあるんですけど。手伝ってくれます?」
「おう、いいよ。武志先生のご指示とあらば」
「止めてくださいよ。そういうの……」

 二人がベッドを引きずってホール脇の物品庫に行くのを見届けると、速田が義雄に声をかけた。

「……なんか、いいコンビだね、あの二人。……そういえば義雄君。久しぶりだね。あ、そうか、先だっての十勝岳の噴火で富良野に行ってたんだ」
「はい。学校で支援隊が組織されたんで、参加したんです。二週間、上富良野(かみふらの)に入ってました」

 旭川の南東に位置する十勝岳が爆発的な噴火を起こしたのは、この年の五月二十四日のことである。正午すぎと午後四時すぎの二度あった噴火は、山頂付近にあった残雪を溶かし、大規模な泥流を引き起こした。死者・行方不明者は百四十四人。未曽有の大災害である。

 さらに同じ日には、旭川の糸屋(いとや)銀行が経営破綻するという出来事もあった。もともとは兵庫県で創業した銀行だが、開拓景気に沸く北海道に注目して旭川に本店を移し、営業範囲を、上川、留萌、宗谷、空知の各地方に広げていた。ところが、大正後期になると、大戦景気の反動による不況の影響を受けて一気に不良債権が増加。営業停止に至ったのである。火山の噴火と銀行の破綻。地域にとっては二重のショックだった。

「泥流がすごかったって聞いたけど」
「そうですね。一面泥の海みたいになってて。これに百人以上も飲み込まれたのかって。あ、そう言えば銀行つぶれたの、影響なかったんですか?」
「うちはほとんど取引がなかったのさ。ただ周りはね」
「去年は、神田館の火事もありましたしね」
「そうだね。だからうちなんかが頑張って師団通を盛り上げなきゃならないと思うのさ……」

 速田はそう言うと、話題を変えた。

「それはそうと、どうなの創作の方は?」
「ああ、そっちはなかなか」
「鈴木政輝君に続いて、今野大力君も東京に出たんだろう」
「はい、だから自分も頑張ろうと思うんですけど……」
「ま、焦らないことだわ」
「……大将、上富(かみふ)の最初の一週間は武志も一緒だったんですよ。言ってませんでした?」
「え、そういや用事で休みますって。そうか、言ってくれたらよかったのに」
「照れ臭かったんじゃないですか。そういう奴ですから」
「なるほどね」

 速田が目を細めながら、うなずいた時、入り口の鐘が鳴ってドアが開いた。二人が目を向けると、襟に白のレースが付いた空色のワンピースにクロッシュ帽、耳隠しの若い女が様子を伺うようにして入ってきた。小ぶりのハンドバックを脇に、日傘を手にしている。

「……ごめん下さい」

 速田がはいと答えると、すばやく店内を見渡たした女は、慌てたように言った。

「ごめんなさい。まだ開店前ですね」
「や、そうなんですが……。コーヒーですか?」
「……ええ」
「では、大丈夫です。お入りになってください。すぐ支度しますから」
「……でも」
「いえ、いいんです」

 速田はそう言うと、恐縮した面持ちの女に向かい、体を折り曲げるようにしてお辞儀した。片手は腹のところに、片手はテーブル席の方を示している。まるで淑女をエスコートする紳士である。

「どうぞ、お入りください」
「ああ、はい。……それでは失礼いたします」

 笑いをこらえながら女が席に着くのを見て、速田はカウンターに入った。女は好奇心を隠せない様子で、店内のあちこちに視線を向けている。湯を沸かし始めたところで、奥の扉から北修と武志が戻ってきた。物品庫での作業を終えたようである。

「ああ、いいところに来た。あちらのお客様にお水を」
「お客様? ああ、わかりました」

 武志は一番入口に近いテーブル席に座った女をチラリと見ると、カウンターにあるコップに水を注いだ。お盆に乗せると、テーブルに近づき、女の前に置く。

「いらっしゃいませ。……どうぞ。ご注文は?」
「ああ、それは聞いてるんだ。コーヒーでよろしかったですよね」
 
 速田はコーヒーをドリップする用意を始めている。

「ええ、お願いします」
「それでは、もう少々お待ちください」

 武志がカウンターに戻りかけたところで、女があのと声をかけた。くっきりとした二重瞼の奥の瞳に好奇心が溢れている。

「はい、なにか?」
「こちらは旭川一のカフェーと聞いてきましたが、ロシア風なんですね」
「え? ロシア風?」
「ええ、とっても素敵」

 女は目線を武志の顔から彼の上着に移した。

「ああ、これですね。これはあの、訳がありまして……」

 慌てたように武志が言うと、女は右手を口元にやりながら目を細め、コロコロと笑った。

「とってもお似合いですわ。抱月(ほうげつ)、須磨子(すまこ)の芸術座の舞台に出てくる方みたい」

 抱月、須磨子は、言わずとしれた演出家、島村抱月と、女優、松井須磨子のことである。大正三年には、カチューシャの歌のヒットで知られる「復活」の舞台を持って旭川にもやってきた。が、二人ともすでに故人である。

「……ごゆっくりどうぞ」

 武志が照れくさそうに告げたとき、義雄とともに奥のテーブルに座っていた北修のだみ声が響いた。

「……もしかしてあんた、齋藤参謀長のところのお嬢さんじゃないのかい?」
「……はい。齋藤瀏(さいとうりゅう)はわたくしの父ですが」

 齋藤瀏は、旭川第七師団に二年前に着任した陸軍大佐である。佐佐木信綱(ささきのぶつな)門下の歌人でもある彼は、文武両道の幾分毛色の変わった参謀長として、市民にも知られていた。

「やっぱりか。一度、そこの北海ホテルで、父さんと一緒にいるところを見かけたんだわ。そのとき、連れの小熊秀雄が、参謀長と娘さんだって。あ、俺は高橋北修と言います」

 北修がそう言うと、やや怪訝そうな表情だった女は、笑みを浮かべて立ち上がった。

「初めまして、わたくし齋藤史(ふみ)と申します。そうですか。小熊さんのお友達なのですね」

 どうやら小熊とは面識があるらしい。

「まあ喧嘩相手って言った方がいいかな」
「ああ、面白いお店。やっぱり来てよかった」

 この齋藤史と名乗る女、見かけよりはかなり若いようだ。コロコロとよく笑う。

「あの、北修さんはね、絵描きさんなんですよ。あ、これお願い」

 武志に淹れたてのコーヒーを渡しながら速田が口をはさんだ。

「そうですか、絵をお描きに」

 史はほほえみながらそう言うと、コーヒーを運んできた武志を見て言った。

「ああ、なので、こちらの方も」
 
 どうやら武志の衣装がたいそう気に入ったようだ。

「んー、それは関係あるというか、ないというか……。着替えてこようかな」

 武志が頭をかきながら、小声でつぶやく。

 ヤマニは、昼間、喫茶として営業しているため、味にうるさい速田が淹れるドリップコーヒーを目当てに来店する客が少なくない。ただそれでも史のような若い女が一人で店を訪れるのはきわめて珍しいことである。北修を始め、武志や義雄、普段からたくさんの女性に囲まれている速田までもが、一人優雅にコーヒーを味わう史をちらちらと見ている。
 好奇心を抑えきれなくなった速田が口を切った。

「……あの、参謀長のお嬢さんって言うと、やっぱりお生まれは」
「ええ、東京の四谷ですが、小学校は旭川の北鎮(ほくちん)小学校に通ったんです。今回は父もわたくしも二回目の旭川生活を楽しんでおります」

 北鎮小学校は、将校が住む官舎街の一角にある男女共学の小学校である。通うのは七師団所属の将校の子弟のみ。陸軍将校の互助組織である偕行社(かいこうしゃ)が運営する私立の学校である。皇后の御下賜金(おかしきん)によって建設されたことから、北の学習院とも呼ばれている。

「そういえば、先週までお宅に若山牧水が来てたんじゃなかったかい。歌詠みの。新聞で見たぜ」

 北修は椅子から乗り出すようにして言った。

「はい。父は軍人ですが、短歌をやっております。なので、牧水先生とは東京でお会いしたことがあって、それが縁で訪ねていらしたんです」

 若山牧水は、九州、宮崎出身で、多くの新聞、雑誌の歌の選者としても活躍する当代一の人気歌人である。短歌雑誌による借金返済のための資金稼ぎの旅に出て、北海道に入ったのが先月末。旭川には、齋藤家である参謀長官舎に四泊し、揮毫品の頒布会や講演を行うとともに地元歌人らと交流を深めた。

「そういや小熊さんが新しい短歌の会を作るって言ってましたけど、関係あるんですか?」

 速田はいつの間にかカウンターから出て、史のテーブルの側に来ている。

「はい。牧水先生の歓迎の歌会を開いた時に、父や酒井廣治先生が、旭川歌話(かわ)会を作ろうというお話になって」
「かわかい?」
「はい。歌とお話で歌話会。それで小熊さんに幹事をお願いしたところ、快く」
「そうか。奴さん、こんところ顔を出さないと思ったら、それで忙しいんだ。ま、こんな美人さんに頼まれれば、頑張るよな。なあ義雄くん」
「え、あ、はい、あの、そうですね」

 実は義雄は先程から史の様子に釘付けなのである。急に速田に振られてなにやらもごもごと言っている。

「美人、みんな好きですからね。なんちゃって」

 かわりに武志がおどけるが、北修の耳には入っていない。

「その歌話会とかにはあんたも?」
「はい。実は牧水先生が、あなたも短歌をやった方が良いとおっしゃってくださったものですから」
「短歌と言えば、そこの義雄君も小熊さんの集まりで詩を作っているんですよ。その会にも入れてもらえばいいのに」

 今度は速田が振ると、義雄は慌てたように首を横に振った。

「いえいえ、僕なんかが……」
「あら、同じような年代の方に入っていただけると、うれしいですわ。ぜひいらしてください。お待ちしておりますわ」
 
 史がにっこりとしながらそう言うと、義雄が跳ねるように立ち上がった。声が一オクターブ高くなる。

「ご、御親切に。あ、あ、ありがとうございます」
「おい、焦った時の北修さんみたいになってるっしょ。大丈夫かい」

 武志がからかうと、また史がコロコロと笑った。

「ああ、やっぱり楽しいお店。勇気を出して来てよかった」

 史はそう言うと、コーヒーを飲み干し、ハンドバッグと日傘を手にした。

「すみません。お代は?」
「ああ、もうお帰りですか。でしたらそちらの会計で。武志君、お願い」

 史は先を行く武志に付いて入り口脇のレジスターのところに行くと、財布から小銭を出して支払いを済ませた。そして軽く武志に会釈すると、店内の三人に顔を向けた。

「それでは、皆さま、失礼いたします。御機嫌よう」

 武志を含む四人は史の後ろ姿をうっとりとした表情で見送る。


「いやー、普段水商売の娘ばかり見ているせいか、新鮮だねー。みんなには悪いけど」

 退店する史を見届けた速田が女給たちの休憩室がある二階に目をやった。

「おうよ。何ちゅうか、若いのに、優雅と言うか」
「やっぱり、おじさん方も感じるところはおんなじなんですね。……ぜひいらしてください、お待ちしておりますわ、だってさ。たまんないねー、なんまらめんこいわ、なあ」

 レジスターの所から戻ってきた武志が義雄の背中を叩く。だが義雄は史の去った入り口の方を見たままである。なにやらぶつぶつつぶやいている。

「え、なに? 何言ってんだよ。……ん? 天使? 天使ってなんだよ?」

 その時、義雄が振り向いて、武志の両肩をつかんだ。

「天使だよ、天使。武志、スゲーよ。俺、天使を見ちゃったよ。わかんないの? スゲーよ。天使が目の前に舞い降りたんだよオ!」


(続く)


<注釈・第二章>


* 大雪山系(たいせつさんけい)
・ 標高2291メートルの主峰、旭岳などからなる北海道中央部の山々の総称。「富士山に登って、山岳の高さを語れ。大雪山に登って、山岳の大(おおい)さを語れ(大町桂月)」のフレーズで知られる。

* 石狩川
・ 大雪山系の石狩岳を源とし、上川盆地、石狩平野を経て石狩湾に注ぐ全長268キロの北海道第一の川。

* 神居古潭(かむいこたん)
・ 旭川市と深川市の境にある約10キロメートルに渡る石狩川の渓谷。アイヌ語のカムイコタン(魔神の住む所)が名前の由来。古くから交通の難所だった。

* 空知平野(そらちへいや)
・ 石狩川の中流域に広がる石狩平野のうち、上川地方に隣接する北部地域の平野部のこと。

* 石狩河口
・ 石狩川の最下流部。石狩湾に面した日本海に注ぐ出口。

* 時任静一・ときとうせいいち
・ 工部大学校を経て、アメリカに留学。ミシガン大学で都市計画を学んだ工学士。旭川などの市街化計画を立てるため、北海道庁に嘱託技師として雇われた。時任はアメリカの都市に倣い、300年後、500年後も区画の変更を必要としない立案を目指したと伝えられている。

* 忠別川(ちゅうべつがわ)
・ 上川地方を流れる石狩川の支流の一級河川。大雪山系の忠別岳を源とし、旭川市内で美瑛川(びえいがわ)と合流し、まもなく美瑛川は石狩川と合流する。

* 速田弘・はやたひろし
・ 1905(明治38)年、旭川生まれ。大正〜昭和の旭川の飲食業界で異色の才能を発揮したカフェー経営者。

* 女給
・ 飲食店で客の給仕に当たる女性のこと。多くはカフェーで客を接待する女性をさす。和服に白いエプロン姿が定番とされるが、過激なサービスを売りにする店が増えるにつれ、エプロンなしの店が一般的となった。

大正時代のカフェーの女給

* 田上義也・たのうえよしや
・ 栃木県出身。札幌に移住し、北海道建築の父と称された名建築家。音楽家としても活躍した。

* 北海タイムス
・ 1887(明治20)年、札幌で創刊された北海新聞が源流(北海タイムスとなったのは1901年)。1942(昭和17)年、道内11紙が統合して北海道新聞が誕生するまで、有力紙として親しまれた。戦後、同名の新聞が発刊されたが、1998(平成10)年に廃刊した。

* 町井八郎・まちいはちろう 竹内武雄・たけうちたけお
・ のちに旭川で始まるマーチングバンドの国内最大級のイベント、音楽大行進を共同で発案した人物。

* 加藤顕清・かとうけんせい
・ 旭川で少年〜青年期を過ごした。のちに日本を代表する彫刻家となる。

* 酒井廣治・さかいひろじ
・ 戦前戦後を通して旭川の文化活動を主導した歌人。旭川信用金庫の初代理事長を勤めるなど実業界のリーダーでもあった。

* 北原白秋・きたはらはくしゅう
・ 詩、短歌、童謡など数多くの名作を残した福岡県生まれの文学者。旭川には、弟子の酒井に会うため、1925(大正14)年8月、樺太旅行の帰りに来訪している。

* 佐藤市太郎・さとういちたろう
・ 幕末の江戸で生まれ、北海道に移住した経済人。理容業で成功したあと、興行の世界に進出し、全道各地で活動写真館を経営した。

佐藤市太郎

* 鈴木政輝・すずきまさてる
・ 旭川生まれの詩人。1936(昭和11)年、北海道詩人協会を旭川で発会させ、中心メンバーとなるなど、地元詩壇のリーダーとして活躍した。

* 「円筒帽」(えんとうぼう)
・ 1927(昭和2)年に、小熊秀雄、鈴木政輝、今野大力らが旭川で創刊した詩誌。

「円筒帽」創刊号(昭和2年)

* 旭川極粋会(きょくすいかい)
・ 架空の組織。戦前の旭川にあった国粋主義団体「旭粋会」をモデルとしている。

* 陸軍第七師団(りくぐんだいしちしだん)
・ 旭川に司令部が置かれた北海道の陸軍の常備師団。北鎮(ほくちん)部隊などと呼ばれた。

* 黒色青年同盟(こくしょくせいねんどうめい)
・ 架空の組織。かつて存在した無政府主義者の団体「黒色青年連盟」をモデルとしている。

* たくらんけ
・ ばかもの、たわけもの、の意味の北海道の方言。

* 無政府主義者
・ 一切の国家権力を否定し、個人の完全な自由、および個人の自主的な結合による社会の実現を目指す人々のこと。アナキストとも。

* 博徒
・ サイコロ博打など、賭博を生業にしている人。

* 大杉栄・おおすぎさかえ
・ 大正時代の労働運動、社会運動に大きな影響を与えたアナキスト。関東大震災の際、内縁の妻でやはりアナキストだった伊藤野枝とともに、憲兵大尉の甘粕(あまかす)正彦らによって虐殺された。

* 伊藤野枝・いとうのえ
・ 福岡県生まれのアナキスト・婦人運動家。平塚らいてうのあとを継ぎ、雑誌「青鞜」の編集・発行人を務めた。

伊藤野枝と大杉栄

* 労働争議
・ 賃金など労働を巡る労働者と使用者の間の争いのこと。


<注釈・第三章>


* カフェー・ヤマニの広告
・ 大正末から昭和初期にかけて、当時の旭川新聞に頻繁に掲載された。時代を先取りした斬新なコピーとカットが特徴。ともに店主の速田弘の手による。

ヤマニの広告・ヤマニの兄貴(速田のこと)作品と書いてある

* 旭川共鳴音楽会(きょうめいおんがくかい)
・ 1921(大正10)年に旭川で結成された弦楽アンサンブル。バイオリン、ビオラ、チェロなどの奏者がメンバーだった。その後、奏者が増え、小規模な管弦楽団となる。定期的な演奏会を開いた他、チャリティー音楽会などにも出演した。速田弘はチェリストとして参加した。

* チャールストン・ジャズ・バンド
・ 速田弘が結成したとされるバンド。詳細は不明。

* 浅草オペラ
・ 大正時代に東京浅草で披露された大衆歌劇。絶大な人気を誇ったが、関東大震災で劇場が壊滅的な被害を受けて衰退した。

* 「ベアトリ姉ちゃん」
・ 浅草オペラの代表曲。オペレッタ「ボッカチオ」に登場する歌。

* 「ボッカチオ」
・ オーストリアの作曲家、フランツ・フォン・スッペ作のオペレッタ。日本では、まず大正初期に帝国劇場で邦訳による初演があったあと、浅草オペラで繰り返し上演され、人気を博した。

* なんまら
・ すごく、とてもという意味の北海道弁「なまら」のさらに強調した言い方。

* ルバシカ
・ ロシアの男性用上着。ロシア文化の影響を受けた大正〜昭和の日本の芸術家が好んで着たことで知られる。ルパシカとも。

* 十勝岳の噴火
・ 十勝岳は、上川地方と十勝地方にまたがる火山。1926(大正15)年5月24日に発生した噴火では、大規模な泥流(でいりゅう)が発生し、死者・行方不明者が144人にのぼる大惨事となった。

* 泥流
・ 火山噴火や山崩れの際、雪などが融けて山を流れ下る現象。

* 糸屋(いとや)銀行
・ 明治時代に関西から旭川に進出、その後、本店も旭川に移した銀行。十勝岳が噴火した1926(大正15)年5月24日、不況の深刻化に伴い経営破綻し、旭川は二重のショックとなった。

糸屋銀行本店(大正4年)

* 今野大力くんも東京に
・ 実際に大力が上京したのは1927(昭和2)年3月。

* 上富(かみふ)
・ 上富良野のこと。

* クロッシュ帽
・ 釣鐘に似た形の女性用の帽子。ツバが下向きについている。

* 耳隠し
・ 大正から昭和初期を中心に流行した女性の髪型。両サイドの髪にコテなどでウェーブをつけて耳を隠した。

* 齋藤史・さいとうふみ
・ 東京出身だが、父親の転勤に伴い、旭川で2度暮らした。のちに日本を代表する歌人となる。

齋藤史

* 抱月・須磨子の芸術座
・ 抱月は演出家の島村抱月(しまむらほうげつ)、須磨子は女優の松井須磨子(まついすまこ)のこと。芸術座は、1913(大正2)年に2人が作った劇団。

芸術座による「復活」の舞台 

* 島村抱月・しまむらほうげつ
・ 明治〜大正期の演出家、演劇指導者。師である坪内逍遥(つぼうちしょうよう)と創設した文芸協会で活動したのち、女優、松井須磨子と芸術座を結成した。1918(大正7)年、世界的に流行したスペイン風邪により業半ばにして急逝した。

* 松井須磨子・まついすまこ
・ 文芸協会を経て、パートナーである島村抱月と結成した芸術座で女優として活躍する。1919(大正8)年、前年にスペイン風邪で急逝した抱月の後を追い、自死した。

* カチューシャの歌
・ 芸術座の舞台「復活」の劇中歌。主役の松井須磨子が歌い、レコード化されて大ヒットした。作詞は島村抱月と相馬御風(そうまぎょふう)、作曲は中山晋平(なかやましんぺい)。

* 「復活」
・ トルストイ原作の芸術座の当たり演目。1914(大正3)年に帝国劇場で初演された。芸術座は、同じ年に旭川の佐々木座でも「復活」を上演している。

* 参謀長
・ 参謀の役割は指揮官を補佐して作戦計画案を練ること。あくまで補佐役であって部隊への指揮権は持っていない。参謀長は、各参謀の統轄者。

* 齋藤瀏・さいとうりゅう
・ 長野県生まれの陸軍将校。佐佐木信綱(ささきのぶつな)門下の歌人としても知られる。旭川の第七師団には、大隊長、参謀長として2度赴任した。

齋藤瀏

* 佐佐木信綱・ささきのぶつな
・ 万葉集の研究で知られる歌人、国文学者。

* 北海(ほっかい)ホテル
・ 旭川最初のホテル。1920(大正9)年、小樽にあった北海屋ホテルの旭川支店として営業を始めたのが始まり。3階建ての趣のある洋館だった。

北海ホテル(昭和3年)

* 「ああ、面白いお店。やっぱり来てよかった」
・ 実際には、高級将校の娘である史が1人でカフェーに出かけることはなかったはずだが、ここでは、ヤマニに興味を持ち、思い切って飛び込んだという設定とした。

* 北鎮(ほくちん)小学校
・ 創立は1901(明治34)年。第七師団の将校の子弟が通う私立の小学校として建てられた。

* 偕行社(かいこうしゃ)
・ 旧陸軍の将校で作った組織。親睦や互助、軍事研究などの目的があった。偕行社が各地で運営した宿泊施設を指すことも。

* 若山牧水・わかやまぼくすい
・ 酒と旅を愛した国民的歌人。数々の叙情歌で知られる。このシーンでは牧水の来旭を5月の出来事としているが、実際はこの年10月の出来事。

若山牧水

* 旭川歌話会(かわかい)
・ 若山牧水の来旭を直接のきっかけに結成された短歌の勉強会。この場面ではすでに結成されていたことになっているが、実際の結成はこの年11月。

* 「あなたも短歌をやった方が良いと・・・」
・ 旭川訪問時、齋藤瀏の参謀長官舎に4泊した若山牧水が、瀏の娘である史に作歌を勧めた事実を元にしている。史は、このことが短歌の道に本格的に進む契機となった繰り返し語っている。

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