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カフェーと女給、その実態は

今回も別のブログ等で発表済の記事をアップデートしてお伝えする「蔵出し」投稿です。
テーマは、明治末に登場し、大正から昭和にかけて全国に普及したカフェーとその人気を支えた女給についてです。
そう、和服にエプロン姿のあの女給さんです。
記事では、旭川のことも書いていますが、中心はかつてのカフェー&女給全般のお話です。
それではどうぞ!

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◆ 赤い灯青い灯

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画像01 岡田嘉子(1902−1992・日本肖像大事典)

女優、岡田嘉子です。
演出家、杉本良吉とのソビエト逃避行で有名ですよね。
昭和3年、彼女の一座が演じた舞台から大ヒットしたのが「道頓堀行進曲」。「赤い灯青い灯」の歌詞で始まる当時人気のカフェーと女給をテーマにした曲です。
せっかくですので歌詞を掲載しておきましょう。

赤い灯 青い灯 道頓堀の
川面にあつまる 恋の灯に
なんでカフェーが 忘らりょか

酔うて くだまきゃ あばずれ女
すまし顔すりゃ カフェーの女王
道頓堀が 忘らりょか

好きな 彼のひと もう来る時分
ナフキンたゝもよ 唄いましょうよ
あゝなつかしの 道頓堀よ
(作詞 日比繁治郎  作曲 塩尻精八)

◆ カフェーの始まりと変遷 

さてカフェーの始まりですが、明治44年、東京銀座に開業したカフェー・プランタンが第一号とされています。
同じ年、やはり銀座にカフェー・ライオンとカフェー・パウリスタがお目見えします。
その後カフェーは急速に全国に広まります。
ただ面白いのは先陣を切った3店、同じカフェーと言いながら、それぞれの営業にはかなり違いがあったことです。

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画像02 カフェー・プランタンの店内(資生堂百年史)

まずプランタンです。
明治44年3月、画家の松山省三がパリのカフェーのような店を作りたいと開業しました。
画家の岸田劉生、作家の森鴎外、永井荷風、詩人の北原白秋ら多くの文化人が通ったサロン的な店でした。
開店当初は会員制。
大衆には敷居が高かったと言われています。
料理は西洋料理が主体です。
当時あまり馴染みのない洋酒も数多く揃えていました。

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画像03 カフェー・ライオン(建築世界)

次いで8月に開店したライオンは、大衆向けのお店です。
設立したのは、レストラン・ホテル業の築地精養軒です。
主眼は、生ビール、カクテルなど酒を飲ませることです。
ただ料理も、定食ありライスカレーありといった感じで豊富だったそうです。
経営者はその後サッポロビールに移り、ビアホールとして今も続いています。

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画像04 カフェー・パウリスタ(日本で最初の喫茶店「ブラジル移民の父」がはじめた カフェーパウリスタ物語)

そして12月に開店したパウリスタ。
ブラジル移民の父と言われた実業家の水野龍(みずの・りゅう)の店です。
ブラジル政府から豆の無償提供を受けるかわりに、コーヒーの宣伝普及に務めました。
なので、この店はあくまでコーヒーが主体。
値段も一杯5銭という破格で、文化人から学生まで、幅広く利用されました。
なおパウリスタには、女性専用の部屋「レディースルーム」もありました。
青鞜社(せいとうしゃ)の平塚らいてふらのグループや、歌人の与謝野晶子、女優の松井須磨子らが利用したことで知られています。

◆ 女給事始 

続いてカフェーを支えた女給です。
「給」は給仕の「給」で、ウエイトレス、つまり皿運びの意味です。
なので白いエプロンはあくまで給仕であることを示すために着ています。

実はこの女給、カフェーの草分けの時代から存在していました。
ただ3つの店でやはり女給に対する考え方が違いました。

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画像05 パウリスタの広告(日本で最初の喫茶店「ブラジル移民の父」がはじめた カフェーパウリスタ物語)

パウリスタから始めますと、実はここは女給が一切おらず、15歳未満の男の給仕を使いました。
ちょっとジャニーズっぽい趣向ですよね。
凛々しい制服姿のイラストが残っています。

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画像06 カフェー・ライオンの店内(広告で語る天賞堂と銀座の100年)

逆にライオンは当初から多くの女給を雇いました。
スタイルは定番の和服にエプロン。
今の大正のカフェーのイメージそのものですね。
店に通う文化人はそれぞれのお気に入りの女給について、雑誌などに書きたてたそうです。
このことで「カフェーの女給」という存在に一躍注目が集まりました。

ライオンについては、大正13年、筋向かいにタイガーという名のやはり女給を前面に立てたカフェーが開店。
ライオン対タイガーの戦いでこれも話題になったそうです。

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画像07 カフェー・タイガー(建築写真聚カフェー内部第1巻)

そしてプランタンです。
ある文献には、開業に当たり、「女ボーイ入用」という女給の募集広告を新聞に載せたと書かれています。
ところが、女ボーイがどんな仕事をするのか分からず、面接で酒や料理の給仕をしてもらうと言われ、帰ってしまう良家の子女が多かったそうです。
また別の文献には、男性の給仕の他、開店当初から若い女性の給仕もいたと書いてあります。
さらにここには未掲載ですが、大正末のプランタンとされる写真には、和服にエプロン姿の女給が写っています。
ただ彼女らが、給仕の業務を主にしたのか、接待もしていたのかは不明です。

いずれにしろサロン的なプランタン、大衆路線で女給を前面に立てたライオン、そして純粋喫茶のパウリスタということになるでしょうか。
それぞれを真似た店が、この後、全国に普及していくことになります。

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画像08 雑誌「青踏」掲載のプランタンの広告(明治44年)

ちなみに、昭和4年に書かれたジャーナリスト、村嶋歸之(むらしま・よりゆき)の著書「カフェー考現学」には、さらに細かくタイプ分けがなされています。

① 純粋カフェー・・・コーヒー販売を主とするもの。パウリスタ系。
② レストラン的カフェー・・・西洋料理を主とするもの。
③ バー的カフェー・・・酒の販売を主とするもの。プランタンは2と3を合わせたような店。ライオンは3のバー的な店か。
④ キャバレー的カフェー・・・飲食物のほかに余興(ショー的なもの)を提供する店。
⑤ ベーカリー・・・今でいうスイーツの販売を主とするもの。ケーキ店などがソフトドリンクと合わせて提供。
⑥ ソーダ・ファウンテン・・・清涼飲料の販売を主とするもの。ソフトドリンク主体の店。

◆ 大阪カフェーの東京進出 

こうした中、ライオンの大衆路線をさらに過激に進めた店が登場します。
いわゆる「エロサービス」を売り物にした大阪のカフェーです。
分類すれば、風俗営業を前面に出したカフェーの登場と言えますでしょうか。

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画像09 大阪のカフェー街(絵葉書)

大阪カフェーの特徴は、当初は女給に着せていた白いエプロンをやめてしまったことです。
なにかと言うと、東京のカフェーはまだ女給は給仕であると言う建前を残していました。
ところが大阪では、女給は「給仕ではなく、あなたを接待する人」であると宣言したわけです。
「カフェー考現学」にはこう書かれています。

「東京の女給が、未だ上品に白のエプロン姿凛々しく、客席を離れてつつましやかに、客の指図を待って佇んでいる時、大阪では、女給が早くもエプロンを外し、惜しげもなく愛嬌を振りまきながら、客の傍に寄り添う如く腰を下ろす」(「カフェー考現学」より)

昭和3年以降、ユニオンや美人座などの大阪のカフェーが相次いで東京に進出します。

これ以降、露骨に性を売り物にし、店もそれを宣伝する風俗店的な性格の強いカフェーが勢力を伸ばし、全国的にもこうしたカフェーが急増しました。

◆ チップ制度 

こうした過激化の背景にあるのが、チップ制度であるとされています。

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画像10  カフェー・タイガーの店内(建築写真類聚)

この頃の女給は、チップをもらう女給と、チップは受け取らず固定給のみの女給の2種類がいました。
固定給の女給は純粋なウエイトレス、皿運びです。
彼女たちも、一般的には洋装にエプロン姿。
14〜15歳といった女性が主だったとされています。
これに対しチップをもらう女給は、エプロンをしていたとしてもいわゆる接待要員です。
その割合は、昭和初期で接待要員の女給が8割から9割近くと圧倒的だったと言われています。

実はこうした接待要員の女給は、経営者と雇用関係を結んでいませんでした。
経営者は女給に対し、客を接待し、チップを貰う「場を提供」しているという建前です。
チップの他は、売上に対する報奨金があるだけです。
原則、給料はありません。
なので、女給は客にたくさん酒や料理を頼んでもらい、チップをはずんでもらおうと頑張ります。
女給が頑張れば店も潤う。
ということで、こうしたチップの制度が女給による性サービスを過剰にさせることにつながったわけです。

◆ 女給の生活 

ではそうした女給の生活、具体的にどんな様子だったのでしょうか。
もう少し詳しく見ていきましょう。

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画像11 大正時代の旭川のカフェー(旭川市街の今昔 まちは生きている)

まず数です。
昭和2年のデータによりますと、全国のカフェーの女給は合わせて約4万人です。
これを娼妓(遊郭で働く女性)および芸妓(いわゆる芸者さんなど)と比べますと、全国で娼妓は37000人、芸妓は43000人。
女給は、芸妓よりは少ないが娼妓よりも多いという結果です。
長い歴史を持つ芸娼妓に対し、この時点で10年の歴史しかない女給がこの数なわけですから、急増ぶりが分かります。

次に稼ぎです。
固定給の女給を除き、昭和4年当時の東京の女給の平均収入は30円から50円。
他の職業婦人から比べるとまずまず高収入(小学校の教員の初任給が50円くらい)でした。
ただ衣装代からアクセサリー、化粧品に至るまで基本すべて自前です。
さらに出銭(でせん)と呼ばれた必要経費の徴収や、遅刻欠勤の際の罰金などもありました。
そうそう割の良い仕事でもなかったようです(ただ稼ぐ人は若いサラリーマンの2倍、3倍の年収をあげるケースもありました)。
ちなみに昭和初期のチップの額は、一流店で1人2円(当時の1円はいまの2000円余りか)、場末の安カフェーでは1人50銭がせいぜいでした。
チップを置かない客もいたそうです。
またチップの1割をピンハネする店もあったと言います。

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画像12 昭和初期の旭川のカフェー(旭川市街の今昔 まちは生きている)

続いて年齢です。
これは大正14年、中央職業紹介事務所という役所が、東京、大阪の女給3000人について調べた統計があります。
それによりますと、東京では19歳、大阪では18歳が最も多く、次いで東京・大阪とも21歳。
17歳から21歳までで全体の66%を占めていたそうです。
イメージよりはかなり若いです。

次に出身地です。
これも大正15年の中央職業紹介事務所の統計があります。
東京の女給の出身地ですが、調べた1200人のうち、最も多いのは地元東京で745人、2番目が神奈川の79人です。
3番目が新潟の63人で、次いで51人の北海道という結果となっています。
ちなみに昭和2年の統計で、東京の娼妓5734人の出身地は、東京929人、山形605人、秋田539人、茨城427人に次いで、北海道は342人と5番目に多くなっています。

実は北海道は、開拓民の貧しさゆえ、多くの女性が娼妓や女給として本州に渡った土地と言われています。
それを裏付ける悲しい数字です。

◆ 芸娼妓と女給 

女給はわずか10年で娼妓の数を上回り、芸妓に並ぶほどに急増したと書きました。
そうしたカフェーや女給の急増で影響を受けたのが、遊郭であり芸者遊びの花柳界です。

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画像13 東京吉原の遊郭街(絵葉書)

たびたび触れている「カフェー考現学」には、遊郭や料亭などの売り上げが落ち、いわゆるディカウントをして対抗したことが書かれています。
カフェー人気に押された要因について、まず芸者遊びはあまりにも金銭的、時間的な無駄が多く、時代に合わなくなったと分析しています。

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画像14 東京新宿のカフェー街(昭和初期・建築世界)

遊郭についても、いわゆる玄人相手の遊びよりも、より身近で素人っぽい女給との疑似恋愛的な遊びを好む男性が増えたとしています。

「いつまでも昔のままのお客ではない。客の享楽的態度が変化したのだ。まずテンポが早まった。ブラっと入って一杯の酒に蕩然となり、チップと一緒に女と握手し、投げキッスに送られて帰ってゆくと言う要領だ。急テンポで、手軽で、安値だ。手続きの面倒な、時間のかかる、そして値段の高い封建的な世界に、どうしてスピーディな近代人がよりつこう」(『カフェー考現学」より)

◆ 旭川のカフェーと女給 

続いて、旭川のカフェーと女給について触れておきましょう。

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画像15 カフェー・ヤマニ(画面左・昭和5年・絵葉書)

郷土史家、渡辺義雄氏の著作によりますと、旭川のカフェー第1号は、大正8年に3条通7丁目に開店したカフェー・ライオンということです。
ここは銀座の人気店の名前にあやかったと見られます。
そして大正12年、明治時代に創業した4条通8丁目のヤマニ食堂が改装してカフェーとしての営業を開始します。

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画像16 カフェー・ユニオン・パーラー(昭和初期・旭川新聞)

さらに大正14年7月には、カフェー・ユニオン・パーラーが3条通8丁目に開店します。
ここはヤマニと並んで当時の旭川の文化人が数多く集った店です。
詩人で教師だった小池栄寿(こいけ・よしひさ)の手記「小熊秀雄との交友日記」には、このユニオン・パーラーの開店の日に、詩人の小熊秀雄と小池、そしてやはり詩人仲間の鈴木政輝(すずき・まさてる)の3人が訪れ、コーヒーとホットレモンを味わったと書かれています。

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画像17 カフェー・エロスの広告(昭和初期・旭川新聞)

これらの店は、過激なサービスが売りの店ではありませんでしたが、その後は旭川でも大阪カフェー風の店が増えてきます。
画像はそうした店の一つ、カフェーエロスの広告です。
モデルはなんとエロ子さんと言う名前です(一応、顔は隠しました)。

旭川のカフェーが最盛期に入るのは昭和5年頃からで、ピーク時には70~80軒ものカフェーが営業したと言います。

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画像18 旭川のカフェー街(旭川市街の今昔 まちは生きている)

一方、旭川ゆかりの小説家、木野工(きの・たくみ)の「旭川今昔ばなし」には、昭和10年の統計データとして、旭川のカフェーで働く女給の数を325人と紹介しています。
この時代、旭川新聞では、「赤い灯青い灯」とタイトルを付けたカフェーの紹介や話題を載せる記事を載せていました。
昭和4年5月には、こんな記事が出ていて、当時の様子を忍ぶことができます。

「3条通から4条通7〜8丁目界隈には、4の8のヤマニカフェーを筆頭に、前向かいには三日月、横向かいにはちんや、仲通には扶桑軒、その前が平野バー、3条に転じては金子バー、広東軒、ライオン、喜楽バー、当八軒、その裏手に行っては来来軒、千代田カフェーと軒を連ねている。だがヤマニはこれらのカフェーを圧倒的に凌駕し、設備と内容とホールの醸し出す情緒と色彩はまさに旭川のカフェーの白眉であろう」(旭川新聞より)

◆ 規制強化とカフェーの衰退 

全国状況に戻ります。
隆盛を極めたカフェーですが、さすがに時代が進むと陰りが見えてきます。
その背景には当局による規制があり、さらに戦時体制の強化があります。

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画像19 銀座のカフェー(昭和初期・建築写真類聚カフェー外観集1巻)

まずカフェーに対する警察の規制です。
早くも昭和4年に始まっています。
内容的には、住宅に近い地域での新規出店の不許可(既存の店でも歌舞音曲は禁止)、営業時間の規制(原則夜12時まで、歓楽街でも1時まで)、一定の明るさの確保、別室、しきい、カーテン等の禁止(過激なサービスの抑制)などが上げられます。
さらに昭和8年には、特殊飲食店営業取締規則ができ、カフェーは風俗営業の特殊飲食店として位置付けられ、いっそう規制が強化されます。

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画像20 銀座のカフェー(昭和初期・建築世界)

そんな中でも、昭和10年頃まではカフェー業界は発展を続けます。
たださすがにそれ以降は戦時体制が一段と強化され、物資不足も深刻さを増したことで、廃業する店が相次ぎました。
そして終戦間近の昭和19年3月、カフェーは一斉停止命令により姿を消すことになるのです。

◆ まとめ 

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画像21 カフェー・ヤマニの店内(旭川新聞)

いろいろと説明してきましたが、このカフェー、多くの演劇作品に登場してきた歴史があります。
林芙美子原作で、森光子が長く主演した「放浪記」がありますし、カフェーパウリスタが登場する劇作家、宮本研の名作「美しきものの伝説」もそうです。さらに小説や映画、テレビドラマなどでもしばしばカフェーのシーンが登場します。かつて、カフェーには若者から老人まで多様な男女が集い、酒を飲み議論を交わしました。
時にはさまざまな恋愛の物語の舞台にもなりました。
そうしたドラマが生まれる魅力的な場所であったことが、舞台等に多く登場する理由ではないかと思います。

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画像22 旭川歴史市民劇の舞台その1

実は、ワタクシが脚本を書き、2021年3月に上演した旭川歴史市民劇「旭川青春グラフィティ ザ・ゴールデンエイジ」でも、前述した実在の旭川のカフエー・ヤマニが主要な舞台となりました。
劇ではヤマニに集うさまざまな人々が活躍しましたが、ご説明したようなカフェーの魅力も伝えることができたのではと思っています。(2020年10月初出をアップデート)

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画像23 旭川歴史市民劇の舞台その2


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