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「大正の郷土史エピソード3題」

維新後の日本は、明治、大正、昭和、平成、そして令和と移り変わってきました。
その中でワタクシがもっとも好きなの時代が、大正です。
そんな大正期の旭川には、お伝えしたい郷土史のエピソードがたくさんあります。
今日はそんな中から小ネタ3題をまとめてお届けします。
今回も別ブログなどで既出の記事をアップデートして掲載する「蔵出し」です。
それではどうぞ!


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◆ まずは画像クイズ!


本題に入る前に、まずクイズです。

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画像1 クイズ画像

上にあげた6枚の写真や画像。
それぞれが撮影されたり、描かれたりした年代。
明治・大正・昭和のいずれでしょうか。

ヒントはこちらです。

① 「元始、女性は太陽であった」のフレーズが有名です。
② 悲劇の最期となったアナキスト=無政府主義者のカップルです。
③ 当時、日本一の盛り場と呼ばれていました。
④ 「断髪」が一つのトレードマークでした。
⑤ 場所は上野公園です。
⑥ 左は竹下夢二、右は杉浦非水(ひすい)の作です。

お分かりになりましたでしょうか。
答えはいずれも大正時代です。
まあ今回は大正の話と最初に言ってしまっていますものね。


◆ 「踊り場」ゆえの独自性


もう少し前フリにお付き合いください。
若干の解説をしながら、大正について書きます。

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画像2 平塚らいてふ(1886−1971)

① は、平塚らいてう。
1923(大正12)年頃の撮影とされる写真です。
「元始、女性は太陽であった」は、編集長を務めた雑誌「青鞜(せいとう)」の創刊号を飾った言葉です。
大正時代は、このように女性の新しい生き方を模索する動きが大きく広がった時期でした。

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画像3 伊藤野枝と大杉栄

② は1917(大正6)年に撮影された大杉栄と伊藤野枝(のえ)です。
野枝は、らいてうの後任の「青鞜」の編集責任者です。
大杉は陸軍幼年学校中退という異色の経歴の社会活動家です。
まず社会主義、のちに無政府主義に転じ、日本の労働運動、左翼活動に大きな影響を与えました。
自由恋愛の実践者としても注目された2人。
ですが関東大震災の混乱の中、憲兵大尉の甘粕(あまかす)正彦らによって虐殺されてしまいます。

このように大正時代は、社会主義関連の活動が盛り上がりを見せた時期です。
ただ1925(大正14)年に制定された治安維持法により、以降は活動家への弾圧が強まります。

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画像4 浅草の賑わい(絵葉書)

③は浅草六区を紹介する大正期の絵葉書です。
浅草オペラに代表される大衆文化が花開いたのもこの時期です。

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画像5 北沢楽天「時事漫画」より(大正14年)

④はモガ=モダンガール。
漫画家の草分け、北沢楽天(らくてん)が描きました。

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画像6 メーデー集会(大正9年)

⑤は第1回メーデー。
約1万人の労働者が集まったそうです。

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画像7 「ゴンドラの唄」楽譜(大正5年)

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画像8 三越呉服店ポスター(大正3年)

⑦ の左側(画像7)は、出版された流行歌「ゴンドラの唄」の楽譜の表紙です。
右側(画像8)は三越呉服店の広告ポスターです。

こうした絵画、デザインの分野から、建築、ファッションに至るまで、大正期には幅広い分野で和洋折衷の新しい「美」が生まれました。
いわゆるモダニズムと言うやつですね。

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画像9 大正時代の東京丸の内(都立図書館蔵)

大正は、大きな変革の時期だった明治と昭和に挟まれたわずか15年の期間です。
「歴史の踊り場」といった言い方もされます。
ですが、明治や昭和のように外圧に左右されるのではなく、日本人が自分の頭で考え、自分の足で歩いた時期である。
ワタクシにはそんなふうに思えます。
またそれが上にあげたような、さまざまな新しい潮流を生んだ背景であると思います。


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◆ 大正の旭川


前書きが長くなってしまいました。
ここから本題です。
さまざまな新しい風が吹いた大正期。
そうした中での旭川はどんな様子だったんでしょうか。

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画像10 大正期の旭川(絵葉書)

こちら大正期の旭川中心街です。
中央の通りは駅前のメインストリート、師団道路です。
そびえ立っているのは、活動写真館の第一神田館。
一部5階建ての威容を誇るマチのシンボルでした。

大正期の社会の大きな変化は、北海道内陸部の中核都市として発展していた旭川にも及びます。
特に大正の旭川は、街作りの中心が、明治に本州からやってきた開拓1世から、開拓2世に移り変わった時期です。
開拓2世は、北海道で生まれたり、幼児期に親とともに新天地にやってきたりした人たちです。
彼らは、しがらみのない自由な気質を持っていました。
故郷に思いを残してきた親世代と異なる特質です。
しかも開拓の草分けの時期を脱した北海道。
少しずつですが経済的な余裕も生まれていました。

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画像11 舗装道路が登場した旭川中心部

こうしたことが、第一神田館に代表されるモダンな建物や、道路の舗装など、マチの近代化を後押ししました。
そんななかで、こんなことも起きました。


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◆ 旭川初の死亡事故


時は1917(大正6)年6月。
起きたのは、旭川では初めての自動車による死亡交通事故です。
新聞は次のように伝えています。

「旭川区一条通十四丁目左七号、伊藤長蔵長男、政千代(十六)は、富士製紙会社旭川電気事務所の小使なるが、二十二日午前十一時四十分頃、自転車にて一条通十丁目方面より師団道路に向て疾走中、折柄師団道路方面より驀進し来れる槇荘二郎氏所有自動車弁慶号と衝突し、後頭部其他を轢傷し、直に付近の星野医院に担ぎ込みたるが、応急手当の暇なく直に絶命したり」(大正5年3月25日・北海タイムス)

◆ 弁慶号と義経号


事故を起こした「弁慶号」の写真が残っています。

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画像12 旭川初の乗合自動車「弁慶号」(大正6年頃)

かなりの人数が乗っていますね。
フォード型で、16人乗りの大型車だったそうです。
記事にある当時の議会議員で実業家の槇荘次郎(まき・そうじろう)氏が、事故の前年に買い入れた2台の営業用自動車のうちの1台です。
もう1台は「義経号」。
こちらは12人乗りだったそうです。

記事によりますと、この日は朝一番に市内で車の修理を行い、その後作業員がオーナーである槇氏宅に向かう途中、事故が起きました。
犠牲になった伊藤政千代さんは16歳とありますね。
その若さで亡くなるとは、さぞ無念だったに違いありません。
事故の際、車には運転していた作業員以外乗っておらず、けが人などはいませんでした。
ただこの事故をきっかけに、槙氏は2台のフォードを売却。
営業自動車業を廃業したそうです。

◆ ユニーク実業家、槇荘次郎


ところで、この槇氏は、旭川の実業家の中でもユニークな発想をすることで知られていました(ちなみに息子さんの槙三郎氏も、真っ赤なジープで選挙活動を行うなど、ユニークな活動で知られる市議会議員でした)。
1928(昭和3)年発刊の「旭川写真帳」には、荘次郎氏が道庁に働きかけて設置の許可を得た「北海道庁選定食用蛙飼育所」の看板と、蛙?(置物かも)を手にした本人の写真が載っています。

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画像13 槇荘次郎氏と食用蛙飼育所の看板(昭和3年・「旭川写真帳」より)

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画像14 手には蛙?(同上・拡大)

この食用蛙、時には飼育所から逃げ出すこともあったようです。
1929(昭和4)年夏には、市内の河原で夜な夜な化け物のうめき声が聞こえると、新聞にも取り上げられた「旭川の化け物騒動」が起きます。
実はその正体。
槙氏の飼育所から脱走?した蛙だったとされています。
旭川の人にはなじみのない食用蛙の野太い鳴き声が不気味に聞こえた、というのが実情のようです。

◆ 親しまれた円太郎


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画像15 駅前を走る乗合自動車「円太郎」(昭和初期・絵葉書)

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画像16 円太郎の試運転を伝える記事(大正13年7月5日・旭川新聞)

なお、槇氏が弁慶・義経の運行を始めた頃、旭川ではまだ馬鉄=馬車鉄道や馬車が交通の要でした。
しかし人口の増加に伴って不便さが募り、1924(大正13)年、市は10台の自動車を買い入れて民間の会社に貸出し、本格的な乗合自動車の運行が始まります。
この車は円太郎(えんたろう)と呼ばれ、市街電車の運行が本格化するまで、住民の足として親しまれました。

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画像17 通りを行く馬鉄(絵葉書)

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画像18 駅前を運行する馬車(右)


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さて、大正時代はさまざまな大衆娯楽が発達した時代です。
そんな中、大正初期、東京からある興行団体が旭川にやってきました。
そしてそのことがきっかけで、スポーツというか武道というか、試合が行われたんです。
続いての話題は、そのユニークな試合についてです。

◆ 大正の異種格闘技戦


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画像19 旭川中学柔道部(「シマレガンバレ キャンパス人脈 旧制旭川中学編」より)

坊主頭で腕組みをする若者たちの集合写真。
よく見ると、着ているのは柔道着です。
1917(大正6)年3月に撮影された旧制旭川中学、現在の旭川東高校の柔道部の猛者たちです。

この写真が撮られた約半年前、旭川中学、略して旭中(きょくちゅう)柔道部は、思いがけない者たちから挑戦状を突きつけられます。
相手は、ロシア人のイワノフ、インド人のラッシマンという2人の外国人ボクサーです。
実は、この2人を引き連れて道内を巡業していた「東京弘道館」と称する団体が、当時、強豪として知られた旭中柔道部を巻き込むことで、興業を盛り上げようと画策したのです。
今なら到底実現不可能なお話ですが、それは万事おおらかだった大正時代。
日本男児たるもの、敵に背中は見せられないと、なんと学校側は挑戦に応じてしまいます。

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画像20 旭川中学の正門(昭和3年・「写真旭川」より)

話は急展開に進み、決戦の舞台は、劇場、佐々木座に決まりました。
市の中心部にあった北海道でも有数の規模の劇場です。

突然の挑戦状を受けて立つという男気を見せた旭中柔道部を応援しようと、当日は大勢の観衆が詰めかけました。
おそらく入場料を払っての観戦でしょうから、このあたり、弘道館側の目論見がうまく当たったと言わざるを得ません。

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画像21 佐々木座(明治35年・「上川便覧」より)

で、肝心の試合ですが、旭中からは柔道部内の紅白戦でともに大将をつとめる実力者の高橋永と永井義一が登場。
それぞれイワノフ、ラッシマンと対戦しました。

ところが、対戦場は、劇場の舞台に畳を敷いただけで、ロープなどはなし。
「つかまえてしまえばこちらのもの」と踏んでいた2人でしたが、相手を捕まえようとしてもフットワークで逃げられます。
ようやく体をつかんでも相手は上半身裸のため、思うように技がかけられません。
高橋は辛うじて時間切れ引き分けに持ち込みましたが、永井はかなりのパンチを浴びてしまいました。
柔道家には不利なルールだったようです。

そういえば、旭川は昔から格闘技が盛んな地域として知られています。
中でもレスリングと柔道は旭川ゆかりの名選手がたくさんいます。
レスリングではメキシコ五輪の中田茂男(なかた・しげお)選手ら3人、柔道でもアテネと北京を連覇した上野雅恵(うえの・まさえ)選手ら3人のオリンピックメダリストがいます。

大正時代に行われていた「異種格闘技戦」。
旭川にふさわしい歴史エピソードといえそうです。

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画像22 大正時代の旭川(絵葉書)


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最後は大正も終わりに近づいた頃の歴史エピソードです。
旭川の中心部は、過去何度か大きな火事が起きていますが、その中でも特に有名な火事の話です。
そう、あのマチのランドマーク、第一神田館が全焼してしまったんです。

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画像23 第一神田館と師団道路(大正8年・「シベリア出征凱旋記念写真帳」より)

◆ 神田館炎上


第一神田館は、実業家の佐藤市太郎(さとう・いちたろう)が、1911(明治44)年に開業した活動写真館です。
常設の施設としては、函館の錦輝館(きんきかん)に次ぐ北海道で2館目の活動写真館でした。

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画像24 第一神田館の火災を伝える記事(大正14年6月・旭川新聞)

通りでもひときわ目立つその建物が炎に包まれたのは、1925(大正14)年6月10日の正午前です。
出火場所は3階映写室。
活劇映画「怒涛」という作品の試写をしていた際に、出火したとされています。
たちまち火は燃え広がって、まず3階より上の部分が崩れました。
「火の粉が雨のように飛び散った」と新聞には書かれています。

この頃のフィルムはセルロイド製で燃えやすく、光源に使われたアーク灯が発する火花によって発火することがありました。
ただ新聞記事の中で、市太郎は、「この日中の暑さとフィルム自体の温度との加重によって爆発したものだと思います」と語っていて、確たることは不明です。

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画像25 炎上する第一神田館(「旭川市街の今昔 まちは生きている」より)

この火事では、出火と同時に近くの消防番屋からいち早く消防が駆けつけました。
さらに隣村など近郊の5か所の消防、そして地元の陸軍第七師団からも応援が入りました。

当時の旭川の消防資材は、蒸気式とガソリン式のポンプ7台、手押しポンプ6台が主力で、写真のように3階あたりまでは水を飛ばせたようです。
またこの頃の火事では、延焼に備え、周りの建物の家財道具を駆けつけた人たちが運び出すのが一般的でした。
通りにはそうした家財道具が山のように積み重ねられているのが見えます。

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画像26 火事現場と周辺(「旭川市街の今昔 まちは生きている」より)

この写真では、火の勢いが少し落ち着いてきたように見えますね。
実はこの日は、全くの無風状態。
これが幸いして、火は1時40分に鎮火。
神田館は全焼してしまいましたが、心配された周りの建物への被害はほとんどありませんでした。

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画像27 画像26アップ

なおこの頃は、消防組の象徴として、まだ「まとい」が先陣を切る時代でした。
写真にも神田館隣の商店の屋根に、「まとい」の姿があるのが確認できます。

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画像28 佐藤市太郎(1867−1942)

なお第一神田館の経営者、佐藤市太郎は、当時、北海道内に10を超える活動写真館を持ち、「神田館の大将」と呼ばれた有名人でした。
実は元は旗本の家柄であるなど、経歴や人柄がとてもユニークなのですが、彼については改めてまとめたいと思います。

いずれにしろ、この第一神田館の焼失から1年余。
大正の世は終わり、60年以上に渡る激動の時代、昭和が始まることになります。

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画像29 大正時代の旭川(絵葉書)


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