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5月15日の祈祷会の内容ですが

祈祷会   士師記1:22~36「イスラエル、カナン人と共に住む意味」  2024.5.15

 ヨシュア記の最後で、ヨシュアはイスラエルの人々に大切なことを3つ話しました。神はイスラエルの人々を守り導いてくださったこと。その神に従って歩むことと神の教えを守って生きていくこと。残っている先住民と交わることのないようにすること、それは、先住民の神々を拝むようになるからということでした。ヨシュアは、イスラエルの人々にこの3つのことを何度も語って聞かせるのです。それに対して、イスラエルの人々は、わたしたちは主に仕えます。この方こそ、わたしたちの神ですと答えていました。

 イスラエルの人々は、ヨシュアの時代から士師時代に入っていきます。士師記の1章をみると、約束の土地にはまだ多くの占領すべき土地が残っていたこと、そして、追い出すべき先住民が多く残っていたことが書かれてあります。士師記1章の前半では、ユダ族が先住民と戦い、土地を手に入れることが書かれてありますが、そこでも先住民を追い出すことができず、先住民が住み続けていたことが分かります。今日は、1章の後半の部分になりますが、マナセ族、エフライム族、ゼブルン族、アシュル族、ナフタリ族が先住民との戦いのことが書かれてありますが、多くのカナン人と戦いますが、占領することはできず、カナン人がそのまま住み続けていることが書かれてあります。時にはカナン人を強制労働に服させることもありましたが、徹底的に追い出すことはしなかったとあります。

ヨシュア記23:1
主が周囲のすべての敵を退け、イスラエルに安住の地を与えてから長い年月が流れ、ヨシュアは多くの日を重ね、老人となった。

 この聖書の箇所を読むと、ヨシュアの晩年には、神はイスラエルに与えてくださった約束の土地において、すべての先住民を追い出し、安住の地を与えてくださったとなっています。また、あなたたち神、主があなたたちに約束されたすべての良いことは、何一つたがうことなくはなかった。何一つたがうことなく、すべてあなたたちに実現した。(ヨシュア記23:14)とあります。このような表現だけをみると、すべては神の御計画は完成したと考えることもできます。イスラエルの人々は、神の民として、ふさわしく生きることができる環境が与えられたと考えることもできます。

 でも、現実には、約束の土地において、イスラエルの人々は多くの征服していない土地が残っていたこと、その土地に多くの先住民が残っていて、そのまま住み続けているのです。繰り返しになりますが、士師記1章には、ヨシュアの死後にも、多くの占領することができていない土地が残っていたこと、更に、その地には、多くの先住民が残っていて、そのまま住み続けていることが書かれてあるのです。

 ヨシュア記や士師記を読んでいく時に、大きな疑問が出てきました。それは、どうして、神は、イスラエルの人々は、神が与えてくださる約束の土地において、先住民を多く残していたのだろうかということです。約束の土地に先住民が残っていることによって、イスラエルの人々が先住民と交わることが起ってくるわけです。そうなると、イスラエルの人々が先住民の神々を拝む危険性が多くなるということです。約束の土地が完全にイスラエルの人々の土地になっていれば、偶像礼拝に陥る危険性は極めて少なくなってくるはずです。それが、先住民を多く残しているということは偶像礼拝を犯すリスクがより多くなっていくということです。士師記2章では、ヨシュアの死後、時が流れ、主を知らず、主がイスラエルの人々にしてくださった御業を知らない別の世代になっていきます。イスラエルの人々は、主の目に悪とされることを行うようになります。先住民と交わり、先住民が拝む神々を拝むようになっていくのです。ヨシュアが死ぬ前に、何度も警告として、先住民と交わってはならないこと、先住民の神々を拝むことのないようといった言葉がむなしく聞こえてきます。イスラエルの人々の答えが何だったのだろうと思います。

 ここで違った考え方をすることもできます。神は、イスラエルの人々のために、あえて、先住民を残したということです。約束の土地において、イスラエルの人々は、周りにいる多くの先住民と生活する中で、いかに神に従っていくことができるかを試されるということです。それが、イスラエルの人々が現実の世界の中で、どう生きるのかと問うことになるのです。

神は御自分にかたどって人を創造された。神にかたどって創造された。(創世期1:27)
主なる神は、見るからに好ましく、食べるに良いものをもたらすあらゆる木を地に生えいでさせ、また園の中央には、命の木と善悪の知識の木を生えいでさせられた。(創世記2:9)
主なる神は人に命じて言われた。「園のすべての木から取って食べなさい。ただし、善悪の知識の木からは、決して食べてはならない。食べると必ず死んでしまう。」(創世記2:16~17)

 この聖書の箇所には、人間の創造のことが書かれてあります。神は人間をご自身にかたどって創造されました。それは、人間に自由意志を与えてくださったということです。人間の自由意志をみるために、あえて危険な食べてはならない善悪の知識の置いたことです。この善悪の知識の木の実がなければ人間は罪を犯すことはなかったのです。でも、自由意志はないことになります。その流れで、約束の土地で、先住民を残したことと通じると思います。人間は神が与えてくださった自由意志の中で、いかに神を愛することができるかと問われているのです。

祈り 神よ。聖書の学びと祈る時を与えてくださり、ありがとうございます。イスラエルの人々はどうして、先住民を追い出すことをしなかったのだろうと考えてきました。罪を犯すリスクを残すことになるからです。でも、現実の中で、先住民を追い出すことができなかったのでしょうか。イスラエルの人々が先住民と共に生きて、どう罪を犯すことにしないようになるのかが問われているのです。私たちは、この問題をどのように考えたらいいのでしょうか。私たちは現実の生活の中で、神に従って生きることの意味を考えていくことができますように導いてください。この願いを、イエス様のお名前によって祈ります。アーメン。

皆様の祈り「                             」アーメン。

共に祈ってくださり、ありがとうございました。(横山厚志)

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