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5月29日の祈祷会の内容です。

祈祷会     士師記3:1~11「士師オトニエルの働き」   2024.5.29

 士師とは「さばきつかさ」という意味です。戦争時には戦いのリーダーであり、平時には政治的宗教的なリーダーということができます。ヨシュアによって、イスラエルの人々は神が示された約束の地に入っていきました。ヨシュアの死からサムエルの登場までの間を士師時代といいます。サムエルの登場は、イスラエルが国を立てていくことになります。サウル、ダビデ、ソロモンの時代になっていきます。ヨシュアは死ぬ前に、イスラエルの人々に大切なことを語っていきました。それは、神がイスラエルを導いてくださったこと、イスラエルの人々が神の教えを守り信じて歩むこと、先住民と交わってはならないこと、特に、先住民の神々を拝んではいけないことです。

 そのヨシュアの遺言があったにも関わらず、士師記1~2章では、イスラエルの人々が手に入れた約束の地には、多くの先住民が残っていたことをいいます。約束の地に先住民がいなくなれば、イスラエルの人々が先住民と交わることも、先住民の偶像を拝む危険性はなかったと思いますが、そうではないことがあるのです。とにかく約束の地に先住民が多くいて、彼らとイスラエルの人々は共に暮らしていかなければならないということです。

 士師記の神学というものがあります。イスラエルの人々は平和時に、神を忘れて先住民と交わり、先住民の神々を拝んでしまうのです。人々は神の教えを破ったことになります。怒った神は、敵を人々に送ります。すると、人々は敵によって苦しい状況になっていきます。そうすると、人々は神に助けを求めます。神は人々を憐れみ、救助者である士師を送ります。士師が活躍し、人々と共に敵と戦い、追い出すことになります。平和がやって来て、人々は喜びます。士師がなくなります。すると、人々はまた神を忘れて、先住民と交わり、偶像を拝んでしまいます。すると、神は怒って、敵を送ります。敵によって、人々は苦しむようになります。人々はその敵からの苦しみから神に助けを求めるようになります。神は人々を憐れみ、士師を送って、敵を追い出します。人々は平和の中で、神を忘れていきます。このようなサイクルが繰り返し繰り返し行われるのです。人々は同じ過ちを何度も繰り返してしまいます。それでも、神はイスラエルの人々と共に歩んでくださるのです。

・3:1~6、神からの試み
 先住民が残っているといいました。その理由が、ここには書かれてあります。カナン人とのいかなる戦いも知らないイスラエルの人々とそのすべての者を試みるために用いようとして、主が留まられた諸国の民のリストです。主がそうされたのは、ただ以前に戦いを知ることがなかったということで、そのイスラエルの人々に世代の戦いを学ばせるためにほかならなかったというのです。ペリシテ人の5人の領主、カナン人、シドン人、ヒビ人がそれです。このリストはイスラエルの人々を試みるために、主がモーセに授けた戒めに聞き従うかどうかを知るためだったといいます。でも、イスラエルの人々は先住民の中に住んでいて、先住民の娘を妻に迎え、自分たちの娘を先住民の息子に嫁がせ、先住民の神々に仕えたのです。

 ここでは、先住民が残っている理由として、イスラエルの人々に先住民との戦いを知らないことで、戦いを学ばせるためだったこと、主の戒めを守るかどうかを試みるためだったといいます。主が先住民を残しているとあえて考えると、主の意志が強く出ています。あえて危険な存在である先住民を残すことによって、イスラエルの人々の主への信仰心を試しているということです。残念ながら人々は、主の戒めをすぐに破ってしまっています。

・3:7~11、救助者オトニエル
 イスラエルの人々は主の目に悪をされることを行っています。主を忘れバアルとアシュラに仕えました。主はイスラエルに対して怒りに燃え、アラム・ナハライムの王に売り渡したとあります。8年間、人々はアラムの王に仕えることになります。人々はその苦しみの中で、主に助けを求めて叫びました。主は人々のために、1人の救助者を立てます。そして、人々を救われます。これが、カレブの弟ケナズの子オトニエルです。主の霊がオトニエルの上に臨み、オトニエルは士師としてイスラエルを裁くのです。オトニエルが戦いに出ると、主はアラムの王を破ることができました。国は40年にわたって平穏であったとあります。こうしてオトニエルは死んでいきます。

 ここまで読んでいくと、イスラエルの人々の歩みを通して、人の罪を知ることができます。人は平和な時、順調な時に、神を忘れ、罪を犯していくということです。逆に、人は大きな苦難や苦しみや悲しみにあるときに、神を求めるということです。神に助けを求めて、神のもとに帰っていくということです。人がいつも神のもとにあるためには、苦しみや悲しみが必要だということです。私たちはいつも幸福と平和を求めています。しかし、それが続くと、私たちは神を必要としなくなるということです。神を忘れ、罪を犯していくということです。人はなぜ苦しみや悲しみがあるのか、人生の中で大きな問いですが、その答えの1つとして、神のもとにあるために、神を求め、信じ続けるためということです。では、人が幸福であり平和である時も、神から離れず、神を求め、信じ続けることができるためにはどうしたらいいのでしょうか。不可能なことなのでしょうか。この問題は、私たちが問い続ける必要があることです。

祈り 神よ、聖書の学びと祈る時を与えてくださり、ありがとうございます。イスラエルの人々の歩みを通して、人とは何かを問われています。人は幸福であり平和な時には、神を必要としなくなります。逆に苦しみや悲しみがある時に、神を必要とします。人が神を信じ続けるには、苦しみや悲しみが必要であるということを知ります。どのような時でも、神を信じ求めていく信仰があることを願います。イエス様のお名前によって祈ります。アーメン。

皆様の祈り「                              」アーメン。

共に祈ってくださり、ありがとうございます。(横山厚志)

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