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ん?私がnote書く意味ってなくないか?


今日、朝起きてふと頭に降りてきた。

「ん?私がnote書く意味ってなくないか?」という気付きである。

その閃きに私はとても驚いたのだが、それはよく考えてみると始めた理由からして至極当然だなと納得した。

私は「透明人間」なのだ。


私がnoteを始めた理由(故に終わる)


「私がnoteを始めた理由」みたいな紹介の文は、当たり前だがほとんどの人は一番初めの記事として書く。しかし私の場合、それは一応の「終わり」に書かれることになった。

その時点でこういう結末は必然だったのかもしれない。


それはさておき、今日、朝起きたら頭の中の思考が幾らかスッキリしていて、まるで別人になったみたいな感覚を受けた。昨日久しぶりに酒を多く飲んだからかもしれない。

こういう急な考えの変化というのは私にとって珍しいことではないので特段驚くことではなかったのだが、私が驚いたのは自分の「文章」や「思考」、「発信」などに対する考えの変化であって、それすなわちnoteに関することでもあったのだった。

まさか、noteを続ける理由が無くなるとは。


「ん?私がnoteに文章を書く意味ってなくないか?」と気付いてしまったのである。


いやー、そういう考えが突然降ってきてビックリした。

というのも、noteに関してはこれからもボチボチ気ままに続けていこうかなと思っていたのだ。

実際、日頃から書きたい話や紹介や考察したい映画などについて色々構成を考えたり、調べ物をして考察を深めたりしていた。それこそ今も文章やサムネを書き溜めているものがあるし、まだ書き始めていない自分の述べたいネタというのはいくつもあった。

だから、こういう考えが今朝急に降ってきて自分でも驚いたのだった。「えっ?note辞めちゃうんですか!?」と。


しかし、そういう結論から逆算してよく考えてみると、私の態度や現状にそもそも無茶があったのだなということに気付いた。……私は「透明人間」であるのだ。

この「透明人間」というのは、そのままの意である。私は現実はおろかネット上でさえも「透明」であって、私が消えても……逆に世界の方が消えても……、別になんら互いに支障がない人間である。

金も地位もなければ、他人との繋がりも繋がる気すらもない人間。これは「透明人間」だと表現する他ないだろう。

一方で、発信を行う人間の殆どは人との繋がり(癒し)か金(生活)を求めているのだから「発信を辞める」というのは生存に直結している選択であって、もっと打算的ではあるが切実な話のはずなのだ。


では、そんな「透明人間」である私がnoteを始めた理由というのは、自分で言うのは少し気が引けるが、結構純粋な想いからだった。

「これは良いモノのはずだから、共有スペースに置いておくか」という、そういう公共的な気持ちが原点だった。


だから、別にそれで稼ごうとか、他人の関心を引こうとか、……これは自分でもビックリするぐらいにそういう考えが無かった。しかし、それ故に終わる時も一瞬だという……まぁそういう事情なのだ。

逆にそういう訳で承認欲求や金への執着というものは、やはり何かを維持するのに手っ取り早く有効な手段である。

しかし、利害が必ずどこかで生じるので間違いなくコンテンツの質は濁る(≠落ちる)し、公共性やモラルもなくなるというのは自明である。そして、それが良いことなのかは分からない。

ただ少なくとも、では私が今から承認欲求や金のためにnoteを続けてみたらと言われても無理だろう。それにそういう単純な欲望に溢れていたなら、こうなってはいない。もっと色々楽に生きれたのではないかと思う。


それに正直、自分の書いたものが本当に「良いモノ」だったのかというのも良く分からないなとも思い始めた。皮肉にもそれは「数」や「金」という明確な評価軸が無いからである。

所詮、素人の戯言に過ぎない文章はそういう箔付けこそが内容の良さを保証したりする。それは何より、おそらく読者側も価値が良く分かってないからである。

そういうことは『「知」の欺瞞』に関する話の最後の方に書いた。あれも結構良い話だと自分では思っているんだけれども、どうなんだろう。長めの文だから、最後まで読んだ人は少ないかもしれない。


ともかく、そういう訳で一旦noteは終わろうと思う。ただ、アカウントも記事も残しておこうと思うし、何なら記事もまたシレっと書くのではないかと思う。

それに多分、離れても戻ってきてしまうぐらいの方がもっと純粋で良い文章が書けるんじゃないのかなぁ。

幸いそこは「透明人間」らしく、スッと現れてスッとまた消えることにする。

それが「透明人間」唯一の利点なのである。



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