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運動会指導で思うこと

 またこの季節がやってきた。

 我が子が荒れている。ちょっとしたことで妹とケンカして、嫌なつめ方をしている。それを母親に怒られ、泣き出す・・・。普段は、そんなことはなく、穏やかな子なのに、夏が終わりもう秋だなあ、と思う頃にこんな状態になる。

 原因は分かっている。運動会だ。運動会に向けた練習が、かなりのストレスになっているようだ。我が子と同じような子、全国にいっぱいいると思う。僕自身、小学校の教員をしていて、運動会への指導をしていて、そう思うことは多々ある。僕は古から行われてきた、従来の運動会はなくなればいいと思っている。その理由は2つ。

①順位付け

 徒競走(5〜6人で50mとか100mを走る種目)の話。昔、「ゆとり」の時代に、徒競走で手を繋ぎ合ってゴールするということがあって、批判されていた。「真剣さが足りない」「勝負に仲良しこよしを持ち込むな」などなど。うん、気持ちは分かる。体育というか、運動の楽しさには、「相手と競い合う」というものあるので、全力で走った方が、運動の楽しさを味わえるということは十分、分かる。
 しかし、それは何百人という観衆の前で、やらなきゃいけないことなのか。小学校では、その他のことは、特別支援だ、個に応じた指導だのなんだの言って配慮しているのに、運動会の徒競走だけは、何百人の前で明確に順位付けをするのだ。そりゃ、嫌になりますよ。残酷ですもん。競い合う楽しさは体育の授業の中で行えばいいのに・・・。
 プロの運動選手なら、観客の前でプレイして、優劣を競い合うのは当然だ。観衆の前で運動する気持ちよさもあるだろう。しかし、それを小学生に求めるのは、ちょっと辛すぎやしませんか?と提案したい。走ることが苦手な子は、本当に嫌なんだろうなあと思いながら、雷管(よーいドンのピストル)を撃ってきた。

②表現運動(ダンス)

 そして、表現運動。これも、言いたいことが山程ある笑。
 まず、多くの人が勘違いしているのが、「運動会のダンス=表現運動」ということ。表現運動というのは、体育の運動領域の一つで、運動会のためだけのものではない。でも、保護者が「運動会のダンス=表現運動」と思っても無理はないと思う。そこしか見ていないから。ダメなのは現役の教員でも、そう思っている人がいるということ。「違うよ!!」と声を大にして言いたい。
 特に、運動会のダンスの指導で、振付を提示し、それだけをさせている教員。振付を覚えられない、恥ずかしくて大きく踊れない、みんなと動きを合わせられない・・・そんな子たちをみんなの前で怒るのだけは、やめていただきたい。そして、体育の指導要領(教員が指導する元となる本)を読んで、勉強し直してほしい。我が子は、こういう指導を受けて、運動会が決定的に嫌いになってしまった・・・。

 表現運動では、「心の解放」とか「イメージへの没入」といったことが大切になってくる。そうすると、運動会で大衆の面前で踊ることは、表現運動の目的から外れてしまうと思う。見られること前提で踊るダンスと、誰にも見られずに心を解放するダンスでは、全然違うものになるでしょう。たまに、家で1人で音楽に合わせて踊ることありませんか?そっちの方が表現運動に近いのでは、と思ってしまいます。


 僕は、何度も組体操やソーラン節、ダンスの指導をしてきました。それこそ昔は、怒鳴って指導してしまったこともありました。組体操信仰みたいなものもありました。ごめんなさい・・・。今現在は、上に書いたようなマインドになり、指導の仕方も変えました。どうやれば子供自身が満足、納得できるか。それを1番に考えるようになりました。運動会という行事をなくすことはできないけど、子供たちが、いかに楽しめるか。

 つらつらと書き綴ってしまったが、これが今の気持ちです。コロナ禍で、だいぶ運動会のスタイルも変わってきたが、また元に戻りつつあるように思える。自分が勤務する学校だけになってしまうけど、少しずつ何かを変えていきたい。その指導を受けた子がいろいろな場で活躍し、社会全体が変わっていくことを期待して、今日もまた頑張ろうと思う。

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