夫婦別姓について(結婚して姓を変えてからわかったこと、感じたこと、これからの議論について)
先日、最高裁で夫婦別姓を認めない規定が合憲であるとの判決が下されました。
この議論になるといつも思い出すのが、結婚したての頃の手続きや違和感と戦った記憶です。なので、つらつらと所感をまとめてみようと思います。
内容は「1,旧姓から新姓になって」という私自身の経験と、「2、夫婦別姓の議論と制度構築について」という夫婦別姓の議論についての所感にわかれています。
1,旧姓から新姓になって
私たち夫婦は2016年に結婚しました。
もちろん、夫婦別姓や姓の選択の自由についての議論は承知していましたが、私自身は夫の姓になることについては夫婦の一体感を醸成するものとして肯定的にとらえていました(この考えは今でも変わっていません)。
しかし、実際に変えてみて新しい姓になじむまで、とても大きな葛藤(戦い)がありました。
まず、手続きの煩雑さとの格闘です。姓を変えると、様々なものに登録している名前を変えなくてはいけません。そして、その名前を変えるためには順番がとても重要でした。
①まず、婚姻届け受理証などをもって免許証を変える
②免許証をもって、銀行口座・クレジットカード・私名義の水光熱費の名義・SIMの名義・新聞の名義、、、etc.を変える
③会社に結婚の届けと新しい姓を名乗る旨の届け出を出す(→働いていると、社会保険関連の届け出は会社がやってくれるので、ここはまだ楽でしたが、必要書類をそろえるには若干の手間がかかりました)
当時はコロナ前で、今よりももっと書面主義・対面主義でしたので、いろんな書類をもって様々な窓口に平日に並んだ記憶があります。いろんな申請も取り寄せて紙で出しました。メインのものをすべて変更するのに、3か月程度はかかったかと思います。(その後も忘れたように旧姓でメールや郵便物が届くので、都度都度変更していました)
新居での生活にも慣れない中、この手続きの煩雑さには地味に体力とやる気をそがれました。。。
次に、自分が自分でなくなった感覚との闘いです。
それまでの20数年間積み上げてきた「私」が、たった2文字の姓が変わるだけでこんなにも不安定になるとは、想像もしていませんでした。
今まで積み上げて血肉にしてきたものが、すべて一新されて意味をなさないような感覚になりました。
私の旧姓はあまりない姓でしたので、あだ名も旧姓をもじったものが多く、結婚後にあだ名を呼ばれると「それは前の私で今の私ではない」という感覚と「それでもそれは積み上げてきた私」という感覚がごちゃまぜになり、とても不安になりました。
逆に新しい姓で呼ばれると、「それは今の私」という感覚と「それは私だけど空っぽの中身のない私」という感覚が同時にあり、どう行動していいのかわからない状態でした。
たとえば、新しい姓で呼ばれたときに、今までの返事の仕方でいいのか、新しくスタイルを確立したほうがいいのか、どう返事をしていいのかすらわからない、返事の仕方という些細なことですら、どうしていいのかわからないような感覚が長く続きました。
今から思うと、アイデンティティの危機であったと思います。
今は結婚からかなり時間が経ち、旧姓の私と新姓の私とは連綿とつながったものであり、また別のものでもあるという感覚を受け入れて生活できるようになりました。新姓での積み上げができてきたからだと思います。
逆に、積み上げがうまくできなければ、いまだに新姓に馴染むことができず、違和感い苦しみ続けていたと思います。
馴染むことができたのは、私自身の努力もありますが、主人や環境の手助けもあり、成しえたことだと思います。
2,夫婦別姓の議論と制度構築について
私自身は夫と同姓でよかったと感じていますし、逆に別姓であったならば家族として一緒に生きていくという状態を確立できなかったと考えているので、夫婦同姓については肯定的な立場です。
しかし、だからと言って別姓を否定すべきではないとも感じています。先述したアイデンティティの危機は、本当にとても深刻なものでした。この危機をどちらかの性にのみ押し付けるというのは、社会的に不平等だと思いますし、どちらも経験したくない、もしくは理由があり別姓のままでいたいというのであれば、それはそれで二人で夫婦の形を考えて作っていく選択の自由があっていいと考えています。
そして、この議論は社会の中で行われ、社会として制度を確立すべきだと考えています。このため、夫婦別姓については、国会で議論すべしという最高裁の判決は間違ってはいないと思います。
今の日本では、法律は風潮を後追いする形で成立する場合が多いと感じていいます。まず社会での気運や別姓を受け入れる素地を固めてから、立法のための議論を通じて、新しい制度を確立していくほうが、安定的に制度を構築・運用できるのではないでしょうか。
また、結婚に伴う姓の選択の自由についての議論と、同姓であった場合の姓の変更をする性の偏りをなくすための議論は、混同されがちですが分けて議論すべきであり、またそれは社会の中で議論し決めていくものだと考えており、その集大成が国会での議論と立法による制度の構築と運用だと考えています。
今、夫婦別姓の必要性を訴えている方々にとっては、ゆっくり過ぎると憤りを感じられるかもしれませんが、社会にはまだまだ「結婚したら主人の姓を名乗り、主人の家に入ることがよいことだ、当然のことだ」という考えが根強く残っています。
性急に夫婦同姓の規定が違憲だとすることは、上記の考え方を否定することと捉えられることであり、大きな反発を招きます。地方と東京を行き来する生活をしていると、最先端の人たちと、そうでない人たちとの差を強く感じます。
目指すべきは、夫婦の姓を、同姓でも別姓でも自由に選択できる自由を手に入れることであり、その自由を享受できると全国民が実感し、制度を利用する未来です。
地方では、夫婦別姓は「東京でおきてるなんか先進的な人たちの話」です。けっして、自分事であると感じている人は多くありません。旧来の考え方で、十分であると感じている人がまだまだ多くいることに配慮し、議論を進めていきたいと感じています。
ここまで読んでいただきありがとうございました。乱文はご容赦ください。
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