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鳩の孵化を待ちながら、忘れかけていた自然との距離について考える


#映像試論
静止画や動画を含む映像行為をデザインやリサーチ実践の一環と捉え、目の前の出来事を「みる」ということの意味と在り方を考える。日記のような備忘録から映像論、人類学の考察まで。

それは随分はやい梅雨入りの報が入ったころ。玄関前のもみの木に、鳩が巣を作った。そこでは小さな卵がふたつ、親鳩に温められながら孵化を待っていた。

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首元のマフラーのような白黒の模様、背中の鱗模様から、どうやら「キジバト」という種類らしい。公園でよく見かける灰色の「ドバト」と並んで、全国的によく見られる鳩だそう。

親鳩はもみの木の幹近く、肩の高さくらいのところに枝や木屑を集め、身体がひとつちょうど収まる小さな巣を作っていた。ふたつの卵は親鳩の腹で包まれていて、外からはほとんど見ることができない。時々端から覗かせる卵の表面は白く汚れがなく、艶がかっている。鳩はほとんどの時間を巣で過ごしているらしく、人間がそばを通っても微動だにしない。ただし、近づきすぎると羽を大きく広げて威嚇の姿勢を示す。

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人間以外の生命の暮らし、近い将来誕生するであろう小さな命の寝息にこれほどまで接近し、耳を澄ませ目を凝らすなんて、一体いつ以来だろうか。大きな目を開いてずっしりと居座る親鳩と、時折留守になった巣に残されるふたつの卵をじっと見つめていると、生と死の循環が人間と同様、彼ら・彼女らの世界にも存在していることを改めて考えさせられる。

初めて巣を見つけた時に、どう対処すべきかがわからずいくつかのウェブサイトを読む中で、鳩の巣による害や様々なリスク、それらを駆除することを前提とした情報がその大半を占めていた。鳩の卵を私たちが勝手に駆除することは法的に禁止されているらしく、我が家の巣は結局そのままにして孵化を楽しみに待っているわけだが、やはりどうも違和感が残る。人間とその他の生物たちの生活圏が滲みあい線引きが難しくなったと指摘され始めて久しいが、改めてその当事者として具体的な経験をすると、それに対する回答を用意することの難しさに直面する。

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ある日、鳩の鳴き声が聞こえて玄関を出てみると、二羽のキジバトが巣の横で向き合っていた。オスとメスだろうか。そしてすぐ、一羽が飛び立ち、片方は巣を見張るように立っていた。キジバトは一年中ペアで見られることが多いらしく、欧州では「二羽のキジバト」を日本で言う「オシドリ夫婦」の意味で使うとのこと。多くの小鳥は虫を雛に与えることで栄養を共有するのだが、この鳩たちは親が種子を食べ、それを体内で液状化したもの(ピジョンミルク)を雛に与えることで育てていく。これはオス・メス双方に共通して見られる行動であり、ここにも鳩特有の生存戦略がある。

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この経験を人間社会の育児や家庭の話と結びつけることは、少々乱暴だろうか。仮にそうだとしても、小さな非人間の生命との偶然的な出会いは、凝り固まった社会規範や概念のしがらみから少しばかり自由になる、数少ない選択肢なのかもしれない。そろそろ巣ができて2週間をすぎる頃。孵化にはまだ時間が必要らしい。その後の経過を見てみたいと思う。


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