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不潔さについての考察

 こんな惹かれないタイトルをつけてしまって、果たして読んでくれる人がいるのか分からないけれど、不潔さについて、常々思っていることがあるので、ここで考えてみたい。

不潔を意識した記憶

 なぜ「不潔さについて」常々思っているかというと、自分はもともと、軽度ではあるが潔癖症だった。それが、あることをきっかけに克服したからだ。

 潔癖症になったきっかけ自体は、今となってはもう分からないけれど、小学生の時が一番酷かった。給食の時間のときに、隣の席の女の子に「食べきれないので、パンを半分食べてほしい。」とお願いされて、「いいよ〜」と気軽に言ったものの、その女の子が手掴みでパンをちぎり手渡された途端に、「ごめん、やっぱり要らない。」と断ったり。その他にも、同級生に肩を組まれたり、髪に触れられたりすることがすごく嫌いだったし、ペットボトルの回し飲みなんて以ての外だった。

 そんな少年が中学生になったある日、毛根が薄いことと生活規則に厳しいことで有名な学年主任が、僕らの便所掃除のだらしなさを叱るついでに、こんな小話を挟んできた。

 「みんなも知っていると思うけれど、お笑い芸人でもあり、映画監督でもある北野武さんな、あの人は、あんな偉そうに見えるけれど、下積み時代に素手で便器を掃除していたんだぞ。」

 僕らの掃除の甘さと、有名人の下積み時代を無理矢理繋げる、最近どこかで仕入れてきたようなエピソードを滔々と披露されて、同級生たちはみなうんざりした顔をしていたが、一人真剣に聞く少年がいた。そう、僕自身は、この話に感化されてしまったのだ。その学年主任も、この文章を読んだらさぞ鼻が高いだろう。素直さが売りの少年は、早速帰ってから実家のトイレを掃除してみた。(もちろん道具を使って)

 そして、そのときに(やっと)気づいたことが、洗っているときに匂いがしたり、不快な景色が見えたりするけれど、終わってしまえば、自分にとってなんら害がないこと。なんなら、トイレ掃除をした後、石鹸で丁寧に洗った手は、普段家でゲームのコントローラーばかり握っている手より、綺麗なのではないか?と。

 そのことをきっかけに、僕の潔癖症は嘘のように治っていった。友達に肩を組まれるとか、ペットボトルの回し飲みとか、床に落ちたものをサッと食べることとか、どんどん平気になっていった。そして、平気になる物事が増えれば増えるほど生きやすい、ということにも気がついていった。

不潔は印象で決まる

 ここで、ある思考実験をしてみる。目の前に二つのクッキーがある、どちらかは袋から取り出してそのまま皿に置いたもので、どちらかは一度床に置いて10秒たったのち、(軽く埃を払ってから)皿に置いたものである。何も知らない被験者が、目の前に置かれたクッキーを見分ける方法はあるだろうか?臭いを嗅いでも、裏返してみても、ましてや食べ比べてみても、違いを見つけられないだろう。言われなければ、誰も気づけないのではないかと思う。つまり、不潔さには、「印象の力」が大きく作用している。と思うのだ。

 印象とは、偏見と言い換えることもできる。例えば、美人なお姉さんが握ったおにぎりと、草臥れたおじさんが握ったおにぎりでは、お姉さんが握ったものに軍配があがるだろう。材料も、握る力も、手の清潔さが一緒でも、「印象が」異なる。

 不潔さということに絞って、「印象」の内容を分解してみると、次のことが挙げられると思う。

・触覚:ナメクジを触った時のヌメヌメした感触、ダニや蚊に噛まれた痒さなど、不快な皮膚感覚
・視覚:毛虫や百足の動き、ゴキブリを見た時の不快感
・嗅覚:話し相手の口から臭うニンニクの匂い
・聴覚:オナラの音やゲップの音を聞いたときの、匂いが届かなくとも嫌な気持ち

 不潔な状況と、これらの状況が結びつく状況が多いことは事実だが、実際の不潔さとは実はなんら関係はない。真っ白な無菌室の中でも、これらの要素を発生させることは可能だ。このように、実際の不潔さ(数値としての汚さ)にプラスして、これらの「印象」が足されることで、より不潔に感じるのではないか、という仮説。

 これらの「印象」は、本能的なところにも大きく関わると思うが、今までの経験や幼い頃に両親から学んだものによって大きく左右されるだろう。ナメクジを触ったことがないと、あの不快さは本当には理解できないし、触ったことがあるからこそ、避けようとし、見ただけで不快という感情になりうる。また、住んでいる場所や文化に大きく影響を受ける。台湾人はゲップを気にしないし、インド人は素手でご飯を食べられる。彼らはそれを不潔だとは思わない。よく聞く話として、PCのキーボードは大便くらい汚いという話がある。それが本当だとしても、皆それを信じない。手は洗ってもスマホを洗うことは殆どはない。この例は逆に、電子機器が持つ印象が清潔だからだろう。

不潔の許容値を上げること

 軽度の潔癖症が治ったことで、僕の許容値はどんどん上がっていった。「あれ?これも平気だ」と気づく体験は素晴らしい。

 ここで少し時が飛ぶけれど、大学生になって一人暮らしを始めた頃、洗濯の頻度などを友達と話していたときのこと、「バスタオルはどのくらい洗う?」という話題に対して、ある一人の友達が、「毎回必ず洗う。洗わないとかあるの?」と答えていた。僕はそれを聞いて、実際の頻度の3倍くらいの頻度で洗っていることにしてしまった。ここで本当のことを言ったら、不潔だと思われる、と思ったのだ。

 でも、先に言った経験から、僕はバスタオルをある程度洗わなくても平気なことに気づいていたのだ。お風呂に入ったあとの清潔度を、100と見るか90と見るかによると思うけれど、僕は100と仮定している。すると、お風呂上がりの体はとても清潔なので、バスタオルは汚れておらず、水を吸っただけとなる。なら、翌日までに乾いていれば、また同じように使えると思うのだ。これを読んでいる人も、これを読んで、不潔だと思うだろうと思う。そう、かつて立派な潔癖症だった人間が、許容度を上げすぎて、世間一般の考えを逆に追い越してしまったのだ。

 ここで学んだことは、許容度をどんどん上げていくと、世間が思うラインを踏み越えてしまうこと。また、それを他人と共有しない方が、身の為であるということ。

日本人は生きづらい

 台湾で暮らし始めてから、久しぶりに日本人に会うと、面倒くさいなと思う場面がたくさんある。洋式かつウォシュレットがないと大便ができない子供とか、町のご飯屋さんに行ったときに、箸やお椀を慎重に選ばないと不安になってしまうところなど、とても多く遭遇した。さすが清潔大国だけあるが、圧倒的に、汚れを許容する力が足りない。

不潔ライフハックの提唱

 ここまで書いてきた目的でもあるのだけれど、僕は次の三つのことをおすすめしたい。これを知れば、(特に日本人は)世の中をちょっとだけ生きやすくなると思うのだ。それは

①自分が不潔に思う範囲を狭くする

②それを状況に応じて調整する力を身につける

③それを人に言わない

の三つ。

 ①が一番大事で、これをするだけで、人生において、「不快な気持ちになる時間が減少する」のだ。これは素晴らしいライフハック。具体的な方法としては、自分が不潔だと思っていることを一度やってみたり、受け入れたりしてみること。簡単なところだとトイレ掃除もそうだし、今まで捨てていたものを食べてみたり、触ったことのないものを触ってみる。そうしてみると、意外にも平気なことが多いことに気づくだろう。

 さらに、不潔さを許容することは、気持ちだけの問題でなく、身体を強くすることにも繋がる。極端な例だけれど、僕自身、インド旅行に言って腹を2ヶ月ほど壊してからは、他のものでお腹を壊すようなことがかなり減ったし、風邪などで体調を崩すことが、体感かなり減っていった。小学生の頃からずっと頭を悩ませていた花粉症も、嘘みたいに治ってしまった。無菌室で軟弱な植物になるより、雑草のように生きられた方がずっと良い。

 ②は、不潔でいることが当たり前になってしまうと、それはそれで困る部分がある。例えば、ゴミを放置して部屋が荒れ放題になるとか、マグカップの汚れを洗わないまま何度もコーヒーを飲み、だんだん黒くなっていくとか。主に見た目の部分で、生活レベルが下がっていく。部屋や仕事場の机など、自分の身の回りは適切に整理整頓掃除をして、それと関係ない部分は目を瞑ること。会社のお局様が、整理整頓をできない後輩に注意する、というよくあるパターンは、他人に対して「自分の不潔レベルを調整する」ことができないから。そういう人は、自分の物差しを他人に当ててしまうのだ。もちろん、時には注意して他人を変えることも重要だけれど、今まで生きてきて思うのは、自分が変わった方が簡単だということ。

 不潔感知ギアを調整して、様々な状況に対応できるのが、生きやすくするコツだと思う。

 ③は、いじめられない/引かれないための工夫。自分は、旅先ではパンツを裏返して二度履くし、ズボンは、5回履いたら一度洗うくらいの頻度。布団もそんなに頻繁に干さないし、バスタオルは2週間に一度くらいしか洗濯しない。(文章に書いてみると、自分でさえすごく不潔な気がしてきた。)なので、一般的な日本人に対して、不潔であることには自覚がある。今まで出会ってきた人とこのような話題になると、「ほぼ必ず」自分より清潔さに気をつける人ばかりだったし、たまに自分よりこういうものの頻度が少ない人に会うと、烏滸がましいことは十分自覚しているが、「ほぼ必ず」この人は不潔だなという印象を抱いてしまう。

 なのでこれらは、常に一緒にいるパートナー等がいなければ、自分で決め、自分で考えればいいことであり、人と共有する必要はないのである。先ほど言ったように、印象の力が大きく作用しているからという理由もある。これに気づいてからは、こういう話題には参加しないか、話を振られれば、適当に周りに合わせて回答していた。罪のない嘘はセーフだと思っている。秘匿する力は人権を守る。(なので、ここに文章として残してしまうことは相当なリスクを背負うことになる。好きな人とかには絶対に読まれたくない。)

おわりに

 最近、台湾の歴史を勉強していて、日本統治時代に水道が整備されたことで、台湾人の衛生面が改善され、感染症が治っていったという文章を読んだ。かつての日本人の仕事はとても素晴らしい。不潔な場所には清潔さが必要である。それで幸福になった人々は沢山いる。

 でも、時代はまた一巡りした。皮肉にも、生まれた環境が清潔すぎることで(肉体的にも心理的にも)病気になっている人が沢山いる。不潔な場所に清潔さが必要なように、清潔な場所にも、不潔さが必要だと思うのだ。

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