2021年ベスト映画 我輩は「私」のために戦うヒーローを支持する『ジャスティス・リーグ ザック・スナイダーカット』

21年最高の映画の一つは『ジャスティス・リーグ ザック・スナイダーカット』である。スナイダーフェチ(謎のスローモーションの多様とか、いつもなぜか最高のタイミングで楽曲が流れて観客(主に、俺)をキャッキャと赤子の如く喜ばせてくれる編集テクニックとかそういう諸々を指しています)の私があげない訳にはいかないよ、うん。ということで堂々の一位にランクインで御座います。いつか映画館で公開してくれねぇだろうかと心待ちにしております神様仏様TOHOシネマズ様。すっかり成長してしまって、それこそウォールフラワーの頃などはどこか在りし日のビヨルンをほうふつさせる美少年だったのに、今ではちょっといい感じの兄ちゃんになったエズラミラー君のフラッシュが交通事故の絶望的な現場から女の子を無傷で救い出すシークエンスでなんかいつも私は三歳児の子供のようにグズってしまう。いい映画は意味もなくしばしば人を立ち返らせてくれるのだ、まるで赤子の頃よく笑ったり泣いたりしたあの瞬間に。

で、スナイダーのヒーロー映画の良いところは、ヒーローをヒーロー以外の何もでもないという確固たるスタンスで扱っていることだ。アメリカは、ヒーローに何かと背負わせたがると思うのは私だけだろうか。クリストファー・ノーランのダークナイト(バットマン)には「アメリカの安全保障」という十字架を背負わせることで、かの国の「安全保障」的な行動が結果的に次々と敵を生み出し、永久に終わらぬ戦争化する現実を我々に突きつけた。かたやMCUのヒーローにはアメリカをトップとする(何しろチームのリーダーは”キャプテン・アメリカ”なのだから)多国籍軍的が未来に負うべき然るべき責任を明示し、映画の中で背負わせた。長きに渡る物語の最終章で、初期こそ産複合体のトップでおちゃらけリッチメンに過ぎなかったアイアンマンことトニー・スタークは、最終的に多国籍軍がその戦いの果てに世界に齎した被害総額の全てを背負うかのように壮絶に逝ったのである。一撃必殺の指パッチン一つで。

スナイダーが取り扱ってきたヒーローはどうだろうか。たとえば『ウォッチメン』のロールシャッハはどこかダシール・ハメット的アンチヒーロー、マルタの鷹の私立探偵サム・スペイド的(ただしその素顔はネトウヨで無職童貞でさっぱりモテない)な存在感を有している。それ以上の何かしらの「記号」や「意味」をロールシャッハに背負わせる解釈も可能といえば可能だ。しかし、彼のパラノイアは極めて彼の個人的動機に基づいており、過剰な解釈の付与は独りよがりになりがちだ。「それってあなたの感想ですよねw」とひろゆき的な鋭いツッコミをされる危険を孕む。

映画のロールシャッハの造形は内外ともにアランムーアの原作コミックとほぼ同一だ。スナイダーはロールシャッハのそうした個性を重んじ、独自解釈といったものを一切組み込まなかった。思い出して欲しいがスタークの葬儀が盛大に、世界をあげて執り行われた一方で、ロールシャッハはひとしれず、誰にも顧みられることもなく世界の果ての如き南極で死んだのだ。墓標もなく、だから花を手向けられることもなく、あちらがわの冷戦構造の終結の秘密をおのれの胸に秘めたまま、マンハッタンによって粉々にされて放置されたのではなかったか。彼は最後まで独りぼっちだったかもしれないが、しかしただ己の信念だけを動力に突き進んだヒーローだったのだ。誰からの助けも要請も必要としない、己が望むままに闘う「私」的ヒーローだ。

ここでいう「私」、というのは勝手気ままにあばれはっちゃくする、ととかそういう意味ではない。スナイダーカットのヒーロー達は、弱き人々のためにちゃんと戦っている。余談になるがロールシャッハだって狂った犯罪者だったがなんだこんだいって子供に優しかったりする。しかしスナイダーカットのラストの黙示録的ヴィジョンによって提示されたように、結局のところ神の如きスーパーマンの闇落ちをどうにかして防がないとこの世が終わってしまうのである。いやはや古き良きセカイ系のアニメかよ。そしてその鍵を握っているのは、彼の恋人であるロイス・レインの生死なのである。スーパーマンのメンタル次第で世界の敵になってしまうのだ。いやはや古き良きセカイ系のアニメかよ(2回目)。ダークナイトのバットマンは恋人の死を乗り越えてゴッサムの為に尽くすのに、なんという落差か。このエピソードに象徴されるように、スーパーマンを始めとするDCヒーローの世界を守護する動機は公私どちらかに重きが置かれているかと尋ねられたら、「私」的な事情の方と答えざるを得ない。

スパイダーマンことピーター・パーカーはベンおじさんという、彼にとっての「権威」からヒーローである意義を授けられる。有名なセリフ「力には大いなる責任が伴う」という例のやつだ。脚本にこの一文があることによって、物語に大きな意味を付与される。それは、あやふやで何者かもまだはっきり分かっていない若者にとっての力強い励ましであり、また一人前の男の世界に迎えられるイニシエーションである。ベンおじの言葉はやがて彼の行動指針となり、彼を一人前に仕立て上げていく。また、それ以外にも彼は人生の中で数多くの父親的存在を見出し、彼らの助言や説教を受ける訳だ。それは成長物語としての側面を照らし出すが、また同時に、こうしたビルディングスロマン的な登場人物のご多分に漏れずある種の「空白」が認められないだろうか。

その「空白」とは、即ちアイデンティティーの欠落やゆらぎに他ならない。その空白につけこむように、しばしば先に挙げたような思想が、登場人物たちの造形に差し込まれる。ベンおじさんのような権威や他者の声を借りて、ヒーロー達にささやきかけ、彼らの「空白」を満たしていく。成長を促す言葉だったり、国や社会が定めた規範の通りになってほしい、期待通りになってほしいという大変押し付けがましい要請やメッセージのようなものも含まれる。このように表記すると、なにか洗脳めいた尋常ならざる行為のようにも思える。が、個人の経験に照らし合わせてみると、案外普遍的な現象だ。そうだよ俺らもそうやって自分探しを止めていったよなとか思ったりする。

また、私達は映画を観て、それを各々が胸の内で解釈する段階においても、つい我々が望む解釈や思想を彼らの活躍の動機の中に差し込みたくはならないか。そうした欲望を一体誰が否定できるだろうか。何しろそれこそが今日評論と呼ばれている行為だからだ。そして多様な解釈はそうした映画が有する「空白」が提供してくれるのではないか。

それ故、未熟なヒーローはその成長段階にあって、物語側から届く声と、観客側の解釈、その双方向の力を受けて彼らはストーリーおいてもメタ的な意味でも「公」の存在になって認められていく。

しかしDCEUの面々ときたらどうだろう。それはスクリーンの前に姿を表した時点で社会で自立した大人たちであるし、その内面も成熟しきっている。彼らは既に彼らなりの戦う理由を見出している。彼らの内面には「空白」どころか、私達の解釈の侵入を寸分も許さない確固たる価値観を築き上げていることに驚かされる。私が彼らを「私」のヒーローと呼ぶのはそうした意味においてだ。戦う理由を「公」という外部に求めない姿には、フィクションの作り物のキャラクターではあるものの、敬服の念すら覚える。スナイダーカットのヒーローたちの闘う姿に対し、しばしば神話の神などと形容する声もあるが、もしかしたらそうした所以ではないか。イデオロギーやプロパガンダに加担しないという確固たる意志を、ガル・ガドットやジェイソン・モモアらの強靭で美しい背中から放たれていると感じるのは私だけか。

それだから、この映画にはストーリーの代名詞ともいえる成長的な描写はほぼ皆無なのである。完成されたものには、不要だろう。そもそもストーリーはあってないようなもので、宇宙から来たどうしようもない強さの悪党を、スーパーマンたちが団結してぶっ飛ばす話、以上である。その代わりにスナイダーカットは、どのシーンを切り取っても名シーンだらけ、ストーリーではなく映画としての画のよさで我々を牽引していく恐るべき映画だ。そのため話は単調なくせに4時間以上もある上映時間があっという間に溶けていく、となどという稀有な体験を味わえる。映画の話なんてそんなもんでええ、良いショットがしっかり成立する、と否が応でも認めざるを得ない。そんな映画の原点らしい映画とも言えるのだ。

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