笑いの神が降りたのは、よりによってホラー映画だったしかもジェームスワン監督の『マリグナント 狂暴な悪夢』

本作『マリグナント 狂暴な悪夢』をかろうじて「恐怖映画」たらしめているのは、カメラワークと音、せいぜいこの2点に尽きる。オフィシャルが矢鱈ウリにしている謎の怪物、「ガブリエル」なる存在の正体など、蓋を開けたらとんな噴飯やるかたないもので、沸点低くくて日頃からどうでも良い事で笑ったり怒ったりしているわたしなど劇場でゲーゲー笑かされた挙げ句、となりの席の見知らぬお姉さんに「うっせいわ」とAdoの如く怒られた始末である。どうしてくれるんじゃジェームス・ワンよ。

で、このバカバカしき種明かしに至る道のりこそ鬼才ジェームス・ワン監督の腕の見せどころだったに違いない。彼がしたこと、それは先にあげた「音」と「カメラワーク」、この二つの要素を巧みに使い、姿なき怪物を創出したことだ。

ドラム式洗濯機の中からのショット、家の中を逃げ惑うヒロインを追う俯瞰ショット、ド定番のベッドの下からこんにちはショット……と、あげればキリがない。なんの意味もない、されど何かが起こりそうな不自然な画をひたすら積み重ねていく。カメラがヒロインの顔に意図不明に寄っていくかと思えば、突然画面が本筋と全く関係のなさそうな観光ガイドのオバハンのシーンに切り替わったりする。

そこにまた訳のわからん不協和音満載のBGMが流れるのだからたまらない。そこに加えて水滴の落ちる音や、ちょっとした金属音が鳴り響く。かと黄金比のような美しい画に魅せられる。そのようにして堆く積み重なったカメラと音の「不自然さ」によって映画のインバランスがいよいよ臨界点を迎えたあたり、意地の悪いことに、観客が油断しているところに暴力描写を差し込むのがまた小賢しい。

観客に気を持たせる。よくよく考えれば、エンターテイメントにこれほど求められているものはないと思う。そしてジェームス・ワンはその術に長けた天才なのである。彼の出世作にして今なお傑作の誉れ高い『SAW』をはじめ、DCEU作品最大の稼ぎを記録した『アクアマン』に至るまで、「この先どうなってしまうんだろう?」と何だかんだ言って我々はドキドキさせてきたのではなかったか。

話は少々ズレるが、SAWシリーズがパート2以降はどうも微妙な映画になってしまったのは、こういうところにあったりする。ワンは『SAW』の第2作目以降は脚本や製作といったポストにとどまっている。作品の質を左右する「監督」の座にはついていないのだ。

ではその重要な「映画監督」をする人というのは、結局のところ何をする人なのだろうかという話になる。よくよく考えたら「映画監督」が何をする人なのか、簡潔に説明できる人はどれほどいるのだろう。私といえば映画監督どころか映画の製作に携わったこともないので、古今の映画監督たちが自分で書いたり語ったりしたことから想像するしかないのだが、結局はそれは監督によって十人十色なのだろうとしか言いようがない。「たくさんの素材(映像や音響)から適切なものを選出し、それらを組合わせて映画を作る人」といえばそれまでなのかしれない。しかし、例えば我が国を代表する作家、宮崎駿のように自分で脚本を書いて絵も描いてしまう人もいれば、押井守のように絵は描かないけど衒学的かつ哲学的なセリフ回しや演出にスキルを全振りしたようなクリエーターもいる。インディーズ時代の新海誠ときたらアニメから声優まで一人でこなした化け物である。

じゃあ、ジェームス・ワン監督は何ができる人なのだろうか。彼が監督した『死霊館』からワイスピまで色々見た。彼が手掛けた映画のジャンルのレンジもとても広く、いずれも器用にこなしている。ホラーからお馬鹿カーアクションまで、演出の手数の多さには驚かされる。しかしそれから先のことがわからない。つまりワン監督の「作家性」なるものに言及するにあたっては「どうもわかんねぇな」と言わざるを得ないのだ。サンプルは十分にありそうで、まだない。未だに底が見えないという感じだ。今後硬そうな歴史映画とか古典を題材とした映画を手掛けることで何か見えてきそうな気がするのではとちょっと期待している。まぁじっくりと待ちたいと思っている。

で、『マリグナント』に話を戻すと、グロすぎる殺戮を繰り広げている「ガブリエル」とは何者なんじゃと散々気を持たされてからの、あの学芸会、せいぜい大学の映画研究会レヴェルの〇〇を見せられた日には、白目を剥いて仰け反ってしまうしか無い。

それからの警察署で起きる大立ち回りなど、色んな意味で感銘をうける。我々は一体何を見せられているのか。それまでのヒッチコックもかくやと思わせるスリラーとしての体裁を潔く捨て去り、間違いなく最新の特撮技術などを用いているのだろう、我々が未だ到達したことのない「カオス」な世界に連れ去ってくれる。はるかに現実離れした訳の分からない状況に身をおいてみたい人は見ておいて全然損はないだろう。

いちいち脚本術だの、時代背景的な社会問題だのと分析する気も起きないようなしょーもねぇB級映画(それでもよく出来ていると言わざるを得ない)なのだが、これだけは一つハッキリ言えることがある。ガブリエルの正体や彼が起こす大騒ぎ、はては先の警察署におけるちょっとした漫才(鑑識の女の子の、ちょっととぼけたシーンだ)など、冒頭に書いたのだけれども、ワン監督は明らかに観客たる我々を笑かしに来ている、ということだ。

私は映画館で尤も楽しんでいた人間だったに違いなかったが、それでも孤独だった。どうして笑っているのは私だけなのだろうか? こんな馬鹿げたものを見せられて、他の観客は笑いがこみ上げないのだろうか。そんな無声と無表情でまじめに見てられるなと別の意味で関心しきりだった。

ホラー映画なんぞ、そもそもまじめくさって見たところで面白くもなんともないのだ。本来ビール片手に笑いながら見るものではなかっただろうか。殺人鬼の登場に慌てふためいた挙げ句に自滅していく人間に苦笑し、また手垢の付きまくったご都合主義の展開や、逆に造り手がトチ狂ったのではないかと心配してしまうようなシーンに対して手を打って笑いながら鑑賞するのがホラー映画の正しい楽しみ方ではなかったか。『マリグナント』はどこか目新しい要素を要所に散りばめつつ、最終的には古き良き時代のホラー映画の楽しみ方に我々を回帰させてくれるのだ。

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