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【映画レビュー】その手に触れるまで 評価:◎

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■何故少年は過激思想から抜け出せないのか?

『少年と自転車』、『午後8時の訪問者』、『サンドラの週末』等数多くの優れた作品をコンスタントに発表し、世界中のシネフィルたちに支持されているダルデンヌ兄弟(ジャン=ピエール・ダルデンヌ、リュック・ダルデンヌの2名)。そんな彼らが挑んだのは、イスラムの原理主義思想に染まった挙げ句、今まさに人を殺めようとする一人の少年の迷走と再生。そんな過激なテーマなのだった。その出来たるや、まるで我々に向けて突きつけられた段平のように鋭い。しかし反面かの映画監督らしいどこか優しい眼差しを感じさせる映画である。

ベルギーという我が国から遠く離れた場所を舞台にしているのにも関わらず、この映画で起きていることは決して他人事とは思えない。この映画じたいがダルデンヌ兄弟の作品の例に漏れずまぁ優れているからというのもあるが、映画が暴き出してしまう分断が齎す危機というやつが私の身の回りで起きているからだ。そんなもの日本ではまだ表面化していないではないか、と異議を唱える者もいるかもしれない。いや冗談ではない、すでにこの国では手遅れなまでに社会の階層は隔てられ、ショート寸前のように感じられるのは私だけだろうか。タイムリーな一作と胸を張ってあなたに勧めたい。

この作品、主人公アメッド(イディル・ベン・アディ)の後を追いかけるような形で進む。一度そうしたヤバい思想に足を突っ込んだ人間が発揮する頑なさ、融通の効かなさといったものが、本作の主演に抜擢されしかもデビュー作という凄まじいキャリアをモノにしたイディル君を通して見事に表現されている。これがまた見るものにほどよい苛立ち、ストレスを与えるという、すごく困った効果を持っている。過激思想から足を洗うように周りがいくら説得しても無駄。この映画に登場する親や教師、後に彼が世話になる少年院の教育官、そして彼の運命を変えてしまうことになる農園の人々は、皆頭に「凄い」がつくほどの善人である。だから私達はこう思うのだ。こんな素晴らしい人達に恵まれているのに、お前はさっさと足を洗わないのかと。思わずスクリーンの向こう側に言って説得したくなるほど、この辺りはもどかしい。が、それは叶わない。そして彼らが言い聞かせれば聞かせるほど、事態は静かに水面下で悪化していくのだから、見ていてやりきれなさが募るばかりだ。彼はどんどん心を閉ざして殻に閉じこもり、仏頂面で自室で暗殺のリハーサルを繰り返したり(ここがまた痛々しい。中学生の時分に空想上の敵と戦ったことのある人なら共感がわくかもしれない。我が国でいうところの中二病的な描写だ)、大昔の任侠映画よろしく牢屋の中で歯ブラシの柄を削って凶器に仕立てたりする。そして実際に、思想的に敵対すると彼が勝手に思い込んでいる放課後クラス(ベルギーの無償の教育補助システム)で授業を受け持つ先生を何度も殺しに行くのだから。垣根越え、屋根伝いに、である。ちょっとアサシンクリードかな? しかも先生はアメッドにとっての恩人でもあるから、その思い込みの激しさがいかほどかが伺える。で、この辺り、なんというか判断力がなく、何を考えてるかちっとも判らない癖に行動力だけは一人前という、あの子供特有の得体のしれなさがこれでもかと映し出され、余計に鑑賞者をゾッとさせるだろう。君んちの子供は大丈夫か? と思わず他人の家の所帯に口を出したくなるほどのヤバみがある。

愛によって差し伸べられた手をはたいて、自ら道を閉ざしてしまう行為は、何もイスラム教原理主義者特有のものではないと思う。私が思うに、人類が共通で持っているしょうもなさに由来している。例えばテロ組織にせよ、カルト宗教にせよ、脱するのは入るのより何十倍も難しいのはないか。その思想を捨て去るに辺り、彼は今まで准していた日々を完全に否定しなければならない。テロ思想なりカルト宗教の神なり、無償で爆弾を作ったりひたすら神に祈って多額のお布施したりしていた己はなんだったの、もしかして俺すっげぇ救いがたい莫迦だったの? という訳だ。つまり己の過去に向き合わなければならぬ日が来るのだが、それには想像を絶する勇気が必要なのではないか。そうした葛藤の中、人の声というものは中々耳に届かないのではないか。我が国でもネトウヨなる、視野狭窄の自称愛国者たちが所狭しと跋扈しているが、ぜひ彼らにこの映画を見せて感想を聞いてみたいものだ。

で、彼を過激思想に導いた導師がいる。口ではデカい壮大なことを言っているものの蓋を空けたら無責任でしょうもない卑屈なクソ野郎であることが後に判明する。にも関わらず、それでも彼はたった一人でこの聖戦を成し遂げようとするのだから、ある意味そのブレなさは尊敬に値する。その信念の使い所をもっと別の機会に使えたら、と思ってしまう。尤も彼は全然若く、まだ軌道修正が効く年齢でもあった。その余地はあった(あの農場で起きた青春ラブコメを彷彿とさせるエピソード!)。結果的に彼はその泥沼から抜け出せるような気配を見せ、映画は幕を引くのだった。めでたしめでたし、である。が、しかしです。あなたは同監督作の『少年と自転車』をご覧になったことはありますか? 見てたらもうおわかりでしょう、ダルデンヌ兄弟は何故か子供に対して甘くないのです。これまで彼が仕出かしてしまったオイタの清算、そしてある意味彼の更生のきっかけの為に、彼にとびっきりの痛みを伴った罰をプレゼントしてしまうのだった。愛ある処刑ともいうべきラストシークエンス、パンフレットに記載された兄弟へのインタビューによれば、このシーン何度も撮影を試みたというからその力の入れようたるや否やである。優しそうなお祖父ちゃん達に見えてなんというサド兄弟、否、熱血の教育方針を持っている男たちであろう。一連の長回しのシークエンスから一転、カメラが反転して映し出されたアメッドの姿たるや。さっきまで感じていたあの蟠りがひゅっと消え去って、むしろその惨めで痛々しい姿を目にして思わず彼に手を差し伸べたくなる。彼の心中は果たして如何なるものだったろうか。ダルデンヌ兄弟はここでも野暮な説明やモノローグなどを一切加えたりしない。役者の迫真の演技、そして必要最小限の台詞を使って、彼の変容を描き出すのだ。見事な手腕である。

余談だがこの映画、類似作品がある。昨年公開され日本でもそこそこヒットを飛ばしたタイカ・ワイティティ監督の『ジョジョ・ラビット』である。これは第二次大戦末期のドイツで、ヒトラー・ユーゲントの教育の賜物ですっかりソッチの方に偏っちまった少年が活躍する映画なのだが、彼がナチズムから目覚めるきっかけ等、そその手に触れるまで』と似ているのだ。それこそドッペルゲンガーのような符合がところどころに点在する。ぜひ興味があればチェックして頂きたい。個人的にはラスト、ナチが籠城していた街に連合軍が市内に流れ込んできて一気に地獄のような市街戦と化す戦闘シーンが好きだったりする。それは兎も角、同時期にこうした作風の似通った映画が公開されるのは、偶然とは思えない。世界各国で分断の危機のようなことが起こっていて、それを目敏く察知して警鐘を鳴らす人間がいる。そういうことなのだ。

■何故少年は過激思想にハマってしまったのか

話は変わるが、巻頭のなぞの写真についてご説明したい。東京は渋谷区にある「東京ジャーミィ トルコ文化センター」のファザードのものだ。先日お邪魔した際に撮影したものである。本作を見た後気になることがあり、現在書いている小説の取材も兼ねて、訪れた次第だった。

これ、まぁファザードというか建物の四隅の一端を写したものなのだ。で、小さな家のような装飾があることに注目して頂きたい。これ、実は鳥の巣なのだという。鳥の宮殿と呼ばれ、文字通りモスクの上空を通りかかった鳥達が休めるようにと作られたものだという。何故かこの取材で一番心に残り、撮影した次第である。

東京ジャーミィは見学が自由。扉を開け館内に入った瞬間スパイスのような不思議な香りが流れ込んでいる。入館してすぐのロビーではチャイやナツメのお菓子が無料で振る舞われている。喜捨はイスラムにおける義務というが、そうしたお茶やお菓子も誰でも飲んだり食べたり出来るものだという。そこからラマダンで使用されるイベントホールや壮麗な礼拝堂にも見学することが出来る。約1時間ほど、ガイドさんと一緒に館内を巡る見学ツアーも行われている。筆者もこれに参加した。ツアーの参加者は私も入れて30名ていどだったろうか。ツアーの最後、礼拝堂でのアザーン(礼拝の呼びかけ)を見させて頂くことも出来て、頗る勉強になった。

ここを訪れた理由として、ちょっと気になることがあると書いた。そもそもアメッドは何故過激思想に足を踏み入れてしまったのだろうか? それは
この映画では触れられない点である。なにか手がかりでもつかめないだろうかと思って赴いたのだった。まぁ当たり前だが、結果としてその疑問に対する答えはここでは得られなかったが。

尤も推測は可能だ。「昔はゲームばっかりしてたのに・・・・・・」という台詞が劇中にある通り、まぁその前までは普通の、その辺で遊んでいる男の子だったのだろう。が、実は親類にテロの実行犯がいたり、父親が不在で家族の中で諍いがあったりというまさかの設定が出てきたりして、要は彼をとりまく環境も不安定だったことが明らかとなる。経済的にも決して恵まれているとは言い難い。貧困や家庭問題、それはベルギーはおろか私たちの身の回りで起きていることだ。そうした中、アメッド少年は前述の通りまだ幼く判断力のない子どもだった。クルアーンの教えを悪用し、そうした疲れ果てた幼い人たちを過激思想や悪の道に引き込もうとする人間がいるのである。劇中でいうところの、例の導師である。結果として罠にまんまと引っかかってしまった、と考えられる。

そして、もしもである。もし彼が立ち寄ったのが「鳥の宮殿」のように一時的に羽を休めることが出来、決して束縛や洗脳などせず、また体力を取り戻したら飛び立てるような場所であれば・・・・・・と思う。本作はあくまでフィクションだが、極めて現実世界に寄り添った作品だ。だからSFやファンタジーのような奇跡は起きないし、ドラマのように人は簡単に更生したりしない。前半部でちょっとおちゃらけて書いてみせたが、人が変わるのに必要なのは痛みと後悔のみ。それがリアルなのだという残酷なメッセージを映画は私達に投げかける。だからこそ見終わった後あなたは嫌でも考えざるを得ないだろう。子どもたちが現実にこうなる前に何か出来ることはないか、と。それほどまでに考えさせる優れた映画であった。

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※東京ジャーミィの礼拝堂の中。ずっと眺めていられる。

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