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お米にも道がある

お米を炊こうとして、ふと「なんで米を炊く前に研ぐんだ?」と思った。というか、そもそも正しい米の研ぎ方も知らなかったので、「米 研ぎ方」で調べてみる。

お米の研ぎ方が、5つくらいのステップに分けて、かなり事細かく説明されている記事が出てきた。

ふっくらおいしいご飯を炊くには、研ぎすぎてはダメとか、ざる研ぎしてはダメとか、10秒くらいでやるとか、様々なルールがあるようだ。少し面倒くさいなと思う。

そして、一つ疑問が浮かぶ。
僕はそもそも「ふっくら」したご飯が好きではない。どちらかというと硬めの、芯が少し残っているような感じのが好きだ。何なら玄米ご飯のほうが好きだし、雑穀米はもっと好きだ。極端に言えば炊飯器の窯にへばりついたカピカピのご飯が好きだ。共感する人もいるだろうし、そうじゃない人もいるだろう。
つまり、米の「おいしい」って人それぞれすぎて、それを一つの価値観に基づいて評価するのは無理だから、「米の正しい研ぎ方」なんて意味ないのでは?と。

しかし、

そういえば、米の世界には「お米番付」という、「日本一うまい米」を決めるコンテストがあった。ミシュランで三ツ星を獲得したシェフも審査に参加するほど、権威ある大会のようだ。

僕が考えるようにお米の「うまい」は人それぞれすぎて、価値観を絞ることなんてできないならば、そのような大会が成立しうることがあるだろうか(いや、成立しない)。

よって、僕の仮説は間違っていることになる。

お米には確かに「うまい」という普遍的な価値基準が存在し、それに基づいて全国の米を評価することができるのだ。

これは、いろいろな「道」がつくものに似ている。僕は「華道」の良さはいまいちまだわからない。しかし、華道には華道の価値基準が存在し、「良い生花」「正しい生け方」というものが存在する(たぶん)。それを知らない未熟者が生花を見ても、「なんか好き」「なんか嫌い」程度でしかその「良さ」をジャッジできないだろう。

華道における普遍的な価値観に気付けないまま。

『ワンス・アポン・ア・タイム・イン・ハリウッド』という映画がある。これは、「シャロン・テート殺害事件」という、1969年に起きた実際の事件に基づいている(これは断じてネタバレではない)。

この事件、そして時代背景を知らなければ、この映画の良さ、どころか「意味」すらわからないだろう。

僕は無知なりに当時の文化が好きで、ヒッピーや、ロックンロールや、ハリウッドについて調べ、知った上でその映画を見ることができた。

その先にあったのは、シャロン・テートを現代に蘇らせた、監督のタランティーノが抱く映画への「愛」、あの時代への「情熱」という、人間的普遍性だった。僕は少なくとも、あの映画から溢れ出る感情を自分の中にも見出すことができた。

それは、ある意味では「映画道」であり「60-70's道」とも言える。それは見た目がごちゃごちゃしているだけで、その道を進んだ先には、素晴らしい人間的な普遍性が待っている。

華道がなぜ、これほどまでに歴史を持っているか。なぜ、ほとんどの日本人が米を食べ、全国大会が開かれるのか。

全てには道があり、道の先には文化があり、歴史があり、人間がいるのではないか。

よって、僕が「知らない」だけのお米にもきっと「お米道」があるのだ。それは、僕がまだ出会っていない普遍性への入り口だ。

だから、わからない価値観を軽視したり、無意味だと言ってはいけない。その根底には必ず文化があり、歴史があり、人間がある。それを忘れないようにしたい。


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