見出し画像

リーフの歴史⑥ ~建築学生時代~

大阪市内から狭山に引っ越してきて2年少しで中学生となった。当時、南海電鉄の開発する「狭山ニュータウン」がまだまだ区画造成を進めていて、私が進学したのはその春に開校した「大阪狭山町立狭山南中学校」だった。住宅開発地の一番先端部分にあり、反対側にかこれから開発されようという里山が広がっていた。「インテリア大栄」の店舗兼住居で受験勉強を続け、当時まだ学区制を敷いていた大阪府下の当該区域の中では進学校にあたる生野高校に入学。中学校から続けてきた陸上競技の棒高跳びに打ち込みながら勉強はほどほどにという高校生だ。

高校3年生の時にインターハイの大阪府予選会を2位で通過。近畿予選会に進む。近畿予選で6位以内に入れば全国大会への出場が決まる。出場選手中地区予選の記録は2位に付けていた。土砂降りの雨の滋賀県大津市にあった皇子山陸上競技場はまだタータン(全天候型)助走路になっていなくて、土のままだった。選手が助走するたびに助走路にスパイクで削られた穴が開き、水がたまる。助走の距離感が狂いまくって、全然普段の記録を出せず、結果8位に終わり全国大会の出場を逃した。雨でびしょびしょになったマットに背中から着地しながら「これから受験勉強かあ」と考えていた。

大学の進路は建築学科に定めた。当時はまだ、親の仕事を引き継ぐことは考えていなかったが、もし、そうなるとしても、建築なら家具との関連性もあり、将来役に立つだろうと考えた。陸上部の練習が無くなった時間を受験勉強に振り替え、半年間勉強に打ち込んだ。そして、翌年4月に神戸大学工学部建築学科の入学が決まる。

私が入学したころの神戸はポートピア神戸博の直前。入学の前年に神戸北野町の異人館を舞台にしたNHKの朝ドラ「異人館の街」が放映され、それまでうらぶれ、何か怪しげな感もあった北野町界隈が神戸市の手によって急速に整備されていく。3回生になり、都市計画専攻のゼミに所属すると、先生から命じられ、神戸市から嘱託された北野町の異人館の調査にも出かけるようになった。

当時の神戸大学には建築学科とほぼ同じカリキュラムを持つ環境計画学科も設立されたばかりだった。早稲田大学の建築学科出身で象建築集団に所属していた重村先生が環境計画学科に赴任されていた。自身のゼミは都市計画の内容が多く、もっと建築の中身も知りたいと思った僕はよく、重村研究室に出入りして、ゼミ生や重村先生といろんな話をするようになる。

当時、建築学生は設計事務所でバイトをしているものが多かった。自分もと思い、重村先生の奥さん、有村桂子さんが主宰していた象設計集団神戸アトリエ(TEAM ZOO いるか)に首尾よく潜り込む。神戸元町の海岸通りにあるビルに入居するいるかアトリエでの仕事はとても楽しかった。初めて、建築模型を製作したのもこの事務所だった。有村先生らに連れられて和歌山の根来寺まで能面の保存館の設計ヒアリングに訪れたりもした。いるかアトリエは当時、有村先生はじめ3人のスタッフが全員主婦で、時代の先端を行く「女性建築家」だった。

父親の好意で大学院まで進学できた僕は、ある日、建築雑誌のある住宅に目を止めた。「北鎌倉E邸 設計:遠藤精一(エンドウプランニング)」とあった。解説の記事を読み進めた。遠藤精一さんの実家は川崎市にあるエンドウ総合装備。造作家具の製造(主にパーティクルボードを利用したパネル組み立て家具)をメインにする会社だ。建築の道を志した遠藤さんは早稲田大学の建築学科に進み、創業後、当時大変人気のあった現代建築家、槙文彦先生の事務所に入所した。

これから建築の道を進めようというとき、エンドウ総合装備の社長であったお父様が急逝。やむなく、家業を引き継ぐために実家に戻り、エンドウ総合装備の社長となる。また、建築の道も続けるために設計事務所「エンドウプランニング」を設立。槙事務所の代表的作品であった代官山ヒルサイドテラスに居を構えているということだった。

いまではよく聞く「パッシブハウス」の先駆的な住宅建築だった。実家を家具業界に持ち、自身は建築に進み、現在家具と建築の融合を模索しているエンドウプランニングの仕事は自分がまさにしていきたいと考えていたものだった。そういえば、重村先生も同じ早稲田の建築出身。ご存じだろうかと尋ねてみると、「遠藤さん俺の先輩だからいつでも紹介してやるよ」とのお返事をいただく。こうして、大学院1年の夏休み、先に就職して上京していた同級生の下宿に転がり込み、2カ月間のバイト生活が始まった。

この記事が参加している募集

自己紹介

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?