猪倉 厚

1級建築士/インテリアコーディネーター 神戸大学大学院工学研究科建築学修士課程修了後、…

猪倉 厚

1級建築士/インテリアコーディネーター 神戸大学大学院工学研究科建築学修士課程修了後、建築設計事務所勤務。住宅設計、家具キッチン設計経験後、家具販売店勤務。2000年株式会社リーフ設立。代表取締役。リーフアーキテクチャ(リーフ1級建築士事務所)インテリアショップリーフ代表

最近の記事

リーフの歴史⑫ ~リーフへ~

連載もいよいよ完結。 それまでは大阪南港店のほかに、奈良店、大阪南店と3店舗で運営していたのだけど、家具自体の業績の低下に歯止めがかからず、ホーム事業に取り組むことが経営的にも必然となってきた。そこで、拠点を大阪南港のみに一本化し、シャルドネホームのモデルルームをとしても使えるように店内を大改装。大阪南店と、奈良店は閉店した。 ホーム事業は当初はかって婚礼家具を購入いただいた購入者様、のちに、インテリア雑誌などで広告をみた新規のお客様から年間数棟規模だったが継続的に受注が

    • リーフの歴史⑪ ~再び建築へ~

      事業のライフサイクルはめまぐるしく、そして短い。ブライダル家具を体に安全安心な天然木オイル仕上で、しかもデザインをトータルコーディネートしたシャルドネのスタイルは、急激なブライダル時の家具購入の減少に伴い、事業構造の転換を余儀なくされる。当時、岐阜にあった本部が打ち出した方向性は「ブライダル家具」から「リビングダイニング家具」そして、「キッチン」だった。当時、家具を購入されたお客様が新築をされるとき、ご購入いただいた家具に合わせて同じ素材、デザインでキッチンやそのバックキャビ

      • リーフの歴史⑩ ~シャルドネとの出会い~

        話しは少しさかのぼって、船井総研の始動を受ける前のころ、ある、家具メーカー主催の講演会でミサワホームの創業者「三澤千代治」さんの話を聞く機会があった。そのなかで、「今の家具に使われている接着剤は猛毒なものばかり。体に優しい安全な接着剤や塗料を使って家具を造れば必ず差別化になる」という話を聞いた。 当時は「シックハウス症候群」という言葉がまだ一般的でなかった時代。確かに、当時の(移転前の)インテリア大栄の家具売り場に夏の暑い時期にいると売り場にシンナー集が充満し、タンスの扉を

        • リーフの歴史⑨ ~船井総研との出会い~

          売り場での販売から、配送、カーテンの採寸取り付けなどなんでもかんでも取り組んでやっていた30歳前後のころ、会社に1通のダイレクトメールが舞い込んだ。「アメリカ西海岸家具流通業視察セミナー」の案内で、主催は大手コンサルタント会社の船井総合研究所だった。それになりに忙しい毎日を過ごしていたものの、このままのやり方に限界も感じていたころ、思い切って参加してみることにした。 日程は約1週間。サンフランシスコとロスアンジェルスを廻り、当地の家具ショールームや小売店などを巡るツアー。移

        リーフの歴史⑫ ~リーフへ~

          リーフの歴史⑧ ~家業を継ぐ~

          約1年間のエンドウプランニングでの建築修行を終え、結婚を機会に、実家の家具店に入社したのが1985年のこと。当時、お店は展示面積で400坪近くあり、地域でもそこそこの広さだった。ところが、店内はあまりに雑然としていて、お店の3分の1ぐらいが物置と化している状態。仕入れも、昔ながらというか、展示会に行っては勢いで大量に買い付けてくるスタイルで並べきれない商品がそこここにあふれていた。 最初の1年はわけもわからず、言われるがままに配送の手伝いや販売に携わっていた。ちょうど、パソ

          リーフの歴史⑧ ~家業を継ぐ~

          リーフの歴史⑦ ~設計事務所勤務時代~

          大学院1回生の夏休み。中野にあった友人の下宿に転がり込み、2カ月の間エンドウプランニングに通った。当時、槇事務所が設計をしていたアルミサッシュメーカー大手のYKKの黒部市に建つ「前沢ガーデンハウス」の家具打合せが進行していた。エンドウプランニングのOBであり、同じヒルサイドテラスで事務所を構えている家具デザイナーの藤江和子さんが書いたデザイン画を施工図に落とし込み、模型を作るのが僕の仕事だった。出来上がった模型を槇事務所に持っていき、槇先生にチェックしてもらった事などドキドキ

          リーフの歴史⑦ ~設計事務所勤務時代~

          リーフの歴史⑥ ~建築学生時代~

          大阪市内から狭山に引っ越してきて2年少しで中学生となった。当時、南海電鉄の開発する「狭山ニュータウン」がまだまだ区画造成を進めていて、私が進学したのはその春に開校した「大阪狭山町立狭山南中学校」だった。住宅開発地の一番先端部分にあり、反対側にかこれから開発されようという里山が広がっていた。「インテリア大栄」の店舗兼住居で受験勉強を続け、当時まだ学区制を敷いていた大阪府下の当該区域の中では進学校にあたる生野高校に入学。中学校から続けてきた陸上競技の棒高跳びに打ち込みながら勉強は

          リーフの歴史⑥ ~建築学生時代~

          リーフの歴史⑤ ~インテリア大栄~

          大阪市内から「都落ち」して行きついた先は当時の大阪府南河内郡狭山町大字茱萸木(ぐみのき、と読む、現在の大阪府大阪狭山市)。当時、大阪市内からは阪神高速堺線を終点の堺出口でおり、国道310号線を南へひた走ったあたりだ。今は和泉中央に移転しているが当時は国道沿いにあった桃山学院大学とその向かいにあったドライブインレストランを過ぎると、建物はほとんどなく、夜などは暗い国道をひたすら走らないといけなかった。 母親は相変わらず堺東のラブホテルの帳場も見ていたので、よく連れられて夜の国

          リーフの歴史⑤ ~インテリア大栄~

          リーフの歴史④ ~逃避行~

          母親の何気ない一言が心に引っかかったまま、数カ月がたった昭和43年(1968年)、小学校3年生の夏休みに入った時だった。子供には詳しい理由が分からないが、経営の多角化のしわ寄せか、大栄家具製作所が閉鎖されることになった。倒産だった。いつも、トラックにソファを積み上げていた事務所前のスペースに、様々なものが集められ、燃やされていた。父親のほかには最後まで残っていた社員が数人いたように思う。 その晩、母親はこの時期だいたいそうであったように、堺東のホテルの帳場に出向いていた。家

          リーフの歴史④ ~逃避行~

          リーフの歴史③ ~大栄家具製作所~

          前回のお話で西成区山王でマルイ木工を経営していた祖父。父親、猪倉孝はその工場で過ごし、大阪市立工芸高校を卒業後、関西大学に進みました。当時としては珍しかったハーレーダビッドソンに乗っていたということでした。昭和30年2月2日には祖父の工場から独立する形で生野区の現在のロート製薬の近くに株式会社大栄家具製作所を設立。祖父の工場ではソファのフレームの制作だけだったのを、張り工程まで行い、完成品を出荷する一貫製造体制の工場でした。新会社が出来て4年後の34年7月30日に私はこの世に

          リーフの歴史③ ~大栄家具製作所~

          リーフの歴史② ~てんのじ村~

          「家具から始める家づくり」リーフの猪倉です。 天王寺にできたあべのハルカス。上階から西を見ると眼下に大阪市立大学医学部付属病院が見えます。その、奥の路地に入り、細い階段を下ると、再開発の華やかな雰囲気から一変、昭和の香りのする地区に出ます。 「大阪市西成区山王」 昭和24年3月1日、私の祖父、猪倉勇助がこの地に木工所「マルイ木工」を設立しました。当時、作っていたのはソファの芯材となる木フレーム。現在では、どんな家具も全ての工程を一つの工場で行うのが一般的ですが、当時は分

          リーフの歴史② ~てんのじ村~

          リーフの歴史① ~枯木灘の大叔父達~

          「家具から始める家づくり」リーフの猪倉です。以前に参加した経営計画書の作成セミナー。一番冒頭に書くのが自分自身の事業に対する思いと未来への展望。セミナー講師の先生は「お世話になった方も思い出して書くのです。どういう道筋をたどって今自分がここに立っているか、どこへ向かおうとするかを一度分文書化するのです。」と言われていました。 今の自分の思考や物事を決める判断基準は全て今までの経験の蓄積に基づいて成り立っている。そう思えば、今までの自分の軌跡を一度きちんと文章化しておくことは

          リーフの歴史① ~枯木灘の大叔父達~