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リーフの歴史③ ~大栄家具製作所~


前回のお話で西成区山王でマルイ木工を経営していた祖父。父親、猪倉孝はその工場で過ごし、大阪市立工芸高校を卒業後、関西大学に進みました。当時としては珍しかったハーレーダビッドソンに乗っていたということでした。昭和30年2月2日には祖父の工場から独立する形で生野区の現在のロート製薬の近くに株式会社大栄家具製作所を設立。祖父の工場ではソファのフレームの制作だけだったのを、張り工程まで行い、完成品を出荷する一貫製造体制の工場でした。新会社が出来て4年後の34年7月30日に私はこの世に生を受けます。

母親は都島区東野田で戦前から金物屋を営んでいた母方の祖母の家で育った、6人兄弟の末っ子で唯一の女子でした。私の記憶に残っている大栄家具製作所はかなり広い敷地の中に原木が井桁状に積み上げられている光景です。工場の中には沢山の職人さんが働いていました。当時はまだ化学接着剤が一般的ではなく、もっぱら膠(にかわ)が使われていました。夏でも、ストーブの上に湯煎された膠がぐつぐつと音を立てて煮えていました。張り工程では女性が生地を裁断していました。裁断室の脇には原反のロールがうずたかく積み上げられ、子供がかくれんぼうをするにはうってつけの場所でした。

かくれんぼうと言えば、私と妹2人、近所の子供たちで工場内でかくれんぼうをしていた時、下の妹がトタンの屋根に乗っていたところ、それが抜け落ち、工場のなかに落下するハプニングがありました。工場の中では先ほどの膠や工具機器など危険なものがいっぱいあるのですが、幸いにも妹が落ちたところは通路部分で、頭を打って病院に運ばれたものの事なきを得ました。

工場は一部2階建てでそこが職人さんの寮になっていて、金属パイプ製の2段ベッドがたくさん並んでいました。ソファの出荷時にはトラックにソファがうずたかく積み込まれ、平ロープを掛けられて、たくさんの人々が声を掛けながら順番にロープをトラックのフックに留めていきます。まだ段ボール箱に梱包してという時代ではなかった、古き時代の出荷風景です。

積み込まれたソファたちは全国の家具小売店、大阪市内の百貨店などに出荷されていきます。いまは大丸になってしまった、心斎橋そごうの家具売り場にも父の会社のソファが展示されており、小学校に上がるか上がらないかの時に一緒に行ったこともおぼろげに覚えています。

当時の工場からすぐ離れたところに現在の内環状線(自動車道路)が走っていました。そこまでは一面田んぼが広がり、大阪市内とは言いつつも、どことなく和やかな田舎の風景でした。父親は家具工場の経営以外にも好奇心が旺盛だったと見えて、ゴルフ練習場の経営やいまでいうところのラブホテルの経営なども手掛けていました。ゴルフ練習場はオープン時、当時新進気鋭の杉原プロが訪れ、そこそこの賑わいだったようです。しかし、何年目かの冬、大阪に大雪が降り、その重みで練習場のネットを吊っていた鉄塔が倒壊。復旧する資金もなく、やむなく閉鎖されるに至りました。

ラブホテルの方は父の幼馴染がそちら方面で事業を拡大しており、その影響を受けたのか、堺東にある物件を誰からか譲り受けたようでした。子供のころはどんな場所かを知るはずもなく、帳場にたまに経理業務に通っていた母親に連れられ、母が仕事をしている隣で、遊んでいた時期もありました。

当時の自宅は工場の敷地の一角にあり、庭には池や砂場が作られ、ブランコもありました。多趣味な父は、セスナ機の操縦や、猟銃と猟犬を所有し、狩猟にも時折出かけていました。八尾空港から乗ったセスナ機で自宅の上空を旋回する姿を見せてくれたこともあります。外から見たら大変裕福で余裕のある家に見えたに違いありません。ところが、私が小学校3年に入るかどうかの時に、自宅の居間で帳簿付けをしていた母親が「あんまり悪さばかりしていると、この家売って外に出ていかなあかんようになるんやで」というようになりました。

子供を脅かすにしては妙に切羽詰まった感じもあり、子供心に将来に対する不安を感じるようになります。そして、小学校3年生の夏休みに入る直前、その不安は的中してしまうのでした。


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