見出し画像

リーフの歴史⑤ ~インテリア大栄~

大阪市内から「都落ち」して行きついた先は当時の大阪府南河内郡狭山町大字茱萸木(ぐみのき、と読む、現在の大阪府大阪狭山市)。当時、大阪市内からは阪神高速堺線を終点の堺出口でおり、国道310号線を南へひた走ったあたりだ。今は和泉中央に移転しているが当時は国道沿いにあった桃山学院大学とその向かいにあったドライブインレストランを過ぎると、建物はほとんどなく、夜などは暗い国道をひたすら走らないといけなかった。

母親は相変わらず堺東のラブホテルの帳場も見ていたので、よく連れられて夜の国道を走った。父が再起をかけて立てた小売店舗は鉄骨の2階建て。延べ床面積で100坪ぐらいだった。お店の2階奥が住居スペースで、6帖の寝室が2つとLDKがあった。風呂はなかったので近くの南海高野線千代田駅前にあった銭湯に、2,3日おきぐらいに通った。

小学校3年の冬休みに引っ越し。年が明けて3学期に、当時の狭山町立西小学校に転校した。お店のオープンは1月の半ばだったと思う。店の前には造花で作られた花輪がたくさん並んだ。子供ながらに、ここでの再起を何とか成功させないといけないと思い、お客さんが来るのを心待ちにして、店の前、国道沿いに当時小学校1年生だった上の妹と一緒に立っていた。すると、結構な頻度でお客さんが車で来店される。妹と喜んだ。喜びをお客さんにも伝えようと、どちらからともなく、造花の花輪から花を抜き取り、花束を造り、お店から出てきたお客さんに手渡していった。

当時は、大阪の郊外にベッドタウンが整備され出した時代。泉北ニュータウンや狭山ニュータウン、金剛団地など、店の近くの丘陵地帯が切り開かれどんどんと住宅開発がされていった。お店がオープンして次の年には大阪万博が開催され、景気は引き続き上り調子。小さかった店の隣に、テントで立てた仮設店舗を増床した。最初は父と母二人だけでお店を運営し、お客さんがあまりに多くて昼ご飯を食べる暇もなく、朝に作ったおにぎりを頬張りながら接客していた。そのうち、徐々に人が増え、営業や配送のスタッフも含めると6人ぐらいの体制になっていた。

そのころになると、堺東のホテルも手放し、家具屋に集中するようになっていた。ホテルと引き換えに手に入れた土地は今は史跡にもなった狭山池近くの国道沿いにあり、そこで仮設工場をつくり、父が香港から呼んできた唐木の座敷机の職人がオリジナルの座卓の制作を始めた。最初は上手くいっていた座敷机の商売だったが、ほどなく売れなくなり、職人さんたちは西成区山王の祖父の工場に移り、そこで祖父の仕事を手伝っていた。

私が中学校2年の冬だった。一本の電話が鳴った。母が電話をとると受話器の向こうから「火事や!火事!今、燃えてる!」と誰かが叫んでいきなり切れた。母が父にそのことを話していた。ほどなく、八尾の親戚の叔母から電話があり、同じような電話が来たとのこと。ということは、その電話の主は祖父のところに同居している別の叔母のものに違いなかった。

父は、すぐに車に飛び乗り、祖父の工場まで向かう。父がついたころには、祖父の工場は大きな炎を立てて燃え盛り、隣のアパートまで延焼していたという。周りは消防車が何台も取り囲み、近くの阪神高速松原線の一部が通行止めとなり、テレビニュースでも流れていたらしい。こうして、祖父が戦後の焼け野原から作り上げた工場は灰になった。消防の現場検証によると、火元は香港から来ていた職人さんたちの寝室で寝たばこが原因らしいとのことだった。彼らは、職場を失い、ばらばらになり、祖父は、私たちが住んでいた狭山の家に同居することになった。

そういう事情もあり、父は私が高校に入る頃には、テントの仮設店舗を取り壊し、鉄骨3階建ての立派な店舗兼住宅を新築する。中2階などのスキップフロアもある斬新なデザインだった。元あった店舗と合わせると400坪近くの店舗となり、扱い商品の幅もはるかに増えた。住居部分も3階建ての奥を縦割りにして1階を西成から越してきた祖父母の部屋と居間食堂、2階を子供たちの部屋、3階を夫婦寝室や座敷、ホームバーまである、なかなか立派な住まいとなった。


この記事が参加している募集

自己紹介

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?