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リーフの歴史⑩ ~シャルドネとの出会い~

話しは少しさかのぼって、船井総研の始動を受ける前のころ、ある、家具メーカー主催の講演会でミサワホームの創業者「三澤千代治」さんの話を聞く機会があった。そのなかで、「今の家具に使われている接着剤は猛毒なものばかり。体に優しい安全な接着剤や塗料を使って家具を造れば必ず差別化になる」という話を聞いた。

当時は「シックハウス症候群」という言葉がまだ一般的でなかった時代。確かに、当時の(移転前の)インテリア大栄の家具売り場に夏の暑い時期にいると売り場にシンナー集が充満し、タンスの扉を開けると目がちかちかするような刺激臭が襲った。幼少のころ大栄家具製作所で見ていた膠(にかわ)はもう使われなくなっていて、速乾性のあるホルマリン含有の化学接着剤が主流になり、塗装も、シンナーなどの有機溶剤を多用した塗料が多かったからだ。

時たま家具の塗装職人さんの工場へ行くと、長年シンナーを吸引していたせいか赤ら顔で、歯も溶けているような親父さんが多かった。どうにかしないといけないと考えながらも、これは大量生産の「必要悪」だと当時の自分は考えていた。

それから10年ほど後、店も移転してそこそこの規模になり、船井総研の指導を受け、毎週チラシを入れた販促していた1998年ごろだったが、店の売り上げは、ふたたび下降気味だった。販促費ばかりが負担になり、なかなか利益が出にくくなった。その当時はまだ結婚の時に「婚礼タンス」を中心とした家具が売れていた時代であり、どこの家具販売店も主力商品に「婚礼タンス」を置いていた。「婚礼タンス」の主力産地は広島府中や九州の大川、四国の徳島、香川など。タンスに付随して売れる鏡台(ドレッサー)は高級品が徳島、ボリュームゾーンが静岡と、だいたい産地によって特徴が分かれていた。

そのころ、大阪南部から和歌山にかけて、当時の当店のような中小家具小売店が共同仕入れグループを作り、婚礼タンスの合同販売会を年3回ほど開催していた。会場は、堺市の地場産業振興センターの大ホールを借り切り、主に、府中の婚礼タンスメーカーから3日間だけタンスを100セット程、借りる。会期前日に大型トラック何台にも乗せられたタンスが会場に入り、みんなで手分けして並べていった。

その展示会も当社が加入した1990年ごろはかなり盛況だったのだけど、97年ぐらいになると実勢も落ち込んでいた。「婚礼家具」を買うライフスタイルがだんだんと低下してきたのだ、そんな折、そのグループの代表に誘われて加盟店の皆と各地の展示会を廻ることがあった。1年ほどの中で九州大川や四国徳島、広島府中などを廻ったのだが、その展示会のブースにひときわ目を引く家具を並べているところがあった。ブース名には「CHARDONNAY」と書かれてあった。ほとんどの人はその読み方が分からなかった。「シャルドネ」とう読み方はその時初めて知った。ブースには天然木パイン材で作られたカップボードが置いてあった。側板や背板まで無垢材をつかい、オイル仕上で作られたそのカップボードは周りのほかのブースの家具に比べて一目で作りの違いが分かった。

それから半年ほどして、グループの皆でシャルドネの本拠地、岐阜市に行くことになった。その前年に岐阜市内のある家具店が業態転換して天然木オイル仕上のブライダル家具のトータルコーディネート業態を立ち上げ、実績もついてきたので全国にフランチャイズ展開をはかる、その説明会を兼ねての旅であった。話しを聞いていてグループの内、2社がその場で加盟を決めた。自分はまだそこまでの思い切った新業態への転換に踏み切ることができずに見送る。

それからまた数カ月がたったころ、婚礼家具の展示会で協力してもらっていた広島府中の家具メーカのM社長が当社に来てくれた。彼の工場は、この前みたシャルドネの協力工場として参画していた。

「猪倉さん、シャルドネやらんの?」

「いいとは思ってるけど、あの価格がそうそう売れるとは思えないし。それに、先に○○家具さんたちが手を挙げたでしょう?」

「いや、それが色々あって白紙に戻ったらしいよ。」

それからもう一度真剣に加入を考え始めた。しかしまだ決めかねていた頃、一人で出向いた静岡の家具展示会の会場外で偶然にM社長と再会し、まだ大阪エリアの加盟店が決まってないことを聞いた。新しい店、それもフランチャイズ店に加盟しようとすれば商品代だけでなく、店舗の開設費用、加盟金など、そこそこの資金が必要になる。当時の会社にはそれはなく、借り入れに頼るしかなかった。事業計画書を何度も書き直し、ある政府系金融機関からの融資を受けることができた。

契約は1999年の夏。それまで商品倉庫に使っていた建物を改装し、「シャルドネ大阪南店」として10月にオープン。ほぼ同時にそれまで一般家具を扱っていた「インテリア大栄」店舗はアウトレット家具専門店に業態を変える。シャルドネ大阪南店は立ち上げにこそ苦労したが半年ほどして実績が上がり始め、将来性が見えてきた。片やアウトレットに転換したインテリア大栄は売り上げの低下が止まらないまま。これはもう決断をすべき時と考えた。社長であった父と相談し、インテリア大栄の閉店を決め、閉店後にはテナントに入ってもらうことにした。

シャルドネは翌、2000年に大阪南港店を、2002年に奈良店を出店し、3店舗体制で運営を図ることになる。南港店を立ち上げたときに運営会社として有限会社リーフ(のち、株式会社に名称変更)を立ち上げる。インテリア大栄は入居していただいたテナントとの不動産運営会社となる。

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