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旅の記:2023年6月のツアー⑭吉野ヶ里遺跡(佐賀県吉野ヶ里町)

【旅の記:2023年6月のツアー⑭吉野ヶ里遺跡】

佐賀県吉野ヶ里町にある吉野ヶ里遺跡は、紀元前4世紀ころの弥生時代の国内有数の大規模な環濠集落で、初期のムラからクニへと発展していく様子がよくわかる遺跡です。旧石器時代や縄文時代の石器なども出土し、もっと古くから人々の生活が営まれていたよです。
弥生時代前期、吉野ヶ里の丘陵地帯に分散して「ムラ」が形成されていき、中期には一帯を囲う環濠が出現、集落が発展していく過程で防御も厳重になる。この頃には大きな墳丘墓が造られ、国内でも珍しく多くの甕棺が埋葬されている。
後期には環濠は全長2.5Kmとさらに拡大、二重になり、3世紀ころに最盛期を迎えたそうです。40haを超す集落となり、内部には物見櫓そ備えて、大きな祭殿を持つ首長の住居がある北内郭や、階層の高い人々の住居区とされる南内郭などが存在し、また青銅器や鉄器、木器、絹布などの手工業生産を他の地域の人々と交易するための市なども推定されています。吉野ケ里歴史公園ではこの「弥生時代後期後半(紀元3世紀ころ)」の遺跡を復元整備対象としていて、当時の建物を復元整備しています。
古墳時代になると、人々の生活様式が大きく変わったようで、濠は大量の土器などで埋め尽くされ、集落は消滅、離散してしまったようです。当時に高地性集落も消滅しており、これは戦乱がおさまり、環濠のような防御施設や、わざわざ眺望の良い高いところに住む必要がなくなり、低湿地を水田に開拓して生活し始めたからとされているようです。
昭和になると少数ながら遺物が出土したりして、研究がはじまるが、大きな盛り上がりを見せることはなかったとか。

1970年代、農地や果樹園造成、県立高校の移転改築の候補地となるが、そのたびに甕棺などが出土するため断念された。
1980年代に工業団地を開発する計画が立てられるが、事前調査をしてみると59ヘクタールにわたり遺跡が残っていることが判明したために計画を縮小。その後考古学者や市民団体の啓発活動が高まって、平成元年1989年2月23日に一部の報道機関が大々的に報道し、ついに世の中から注目されることとなると、同年3月には県は開発を中止、平成2年1990年に史跡、翌年に特別史跡に推定されて、平成4年1992年には閣議によって、国営歴史公園の整備が決定した。
現在では九州北部に複数存在する「クニ」のひとつという見方が有力ですが、その位置的関係から邪馬台国なのでは?と大きく報道され、世間の注目を浴びたそうです。実際はどうあれ、そのおかげもあって保存されることになり、こうやって僕も訪れることができるのは、とてもいいことですね!

吉野ヶ里遺跡とその周辺は吉野ヶ里歴史公園として整備されています。
逆茂木。集落を守るバリゲートのようなもの。米作りがはじまって富が生まれると、争いが生まれるのは皮肉なものですね。
南内郭の櫓門
物見櫓から見た南内郭。竪穴住居、集会の館など20棟の建物が復元されている
西側には倉と市ゾーン。租税や位置に関わるものを保管する倉庫があり、市が開かれていたところと考えらている。
北内郭へ
まつりごとに関わる人々がいたとされる巨大な祭殿などが復元されている。
あくまでも想像の儀式の様子ですが、実際はどんなだったのでしょうか
弥生時代の中頃、亡くなった人を大型の素焼きの土器(甕棺)に手足を折り曲げて入れ、土に埋める埋葬方法が盛んに行われたそうです。吉野ケ里の丘には15000基が埋められていると考えられているそうです!墳丘墓北側には道をはさんで2000基以上の甕棺が整然と並べられており、亡くなった人を大切する気持ちが伝わります。
ちょど数日前に新しい遺構が見つかったとニュースになっていて、歴史的大発見という可能性も報じられていましたが、その後何も聞かないので、、さらに墳丘墓が見つかったという事だったのではないかと。

墳丘墓からは高度な技術を必要とする銅剣やガラス製の装飾品なども見つかっていて、中国大陸や朝鮮半島との交易があったことをうかがわせます。自分の歴史探訪ではあまり遺跡などは行きませんでしたが、なかなか想像力を掻き立てる面白い場所でした。ロマンが、ありますね!




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