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旅の記:2023年4月のツアー⑲緒方洪庵誕生地(岡山県岡山市)

【旅の記:2023年4月のツアー⑲緒方洪庵誕生地】

幕末の大大先生・緒方洪庵は備中足守の出身だということで、葦守神社から向かいました。
足守藩氏佐伯惟因の3男として生まれた洪庵は、生まれたころよりあまり身体が強くなく、武士になるのをあきらめ蘭方医への道を選びます。大阪・江戸、そして長崎で医学を学び、1838年大阪にて医業を開業、同時に蘭学塾「適々斎塾(適塾)」を開いた。
天然痘予防活動にも奔走し、当時「牛になる」などの迷信でなかなか広まらなかった牛痘種痘法を推し進めた。安政5年(1858年)には洪庵の活動を幕府が公認して、牛痘種痘を免許制にした。
文久2年(1862年)には幕府の西洋医学所頭取といして出仕の要請を受ける。健康上の理由で固辞するが、再三の要請により出仕するようになる。
文久3年(1863年)、江戸の医学所頭取役宅で突然喀血し、窒息により亡くなった。享年54歳。
適塾では、福沢諭吉、大鳥啓介、橋本佐内、大村益次郎、高松凌雲など名だたる人たちが学び、多くの人材を輩出した。人間的にも、人情にあふれ、温厚、また忙しい中でも友人や門下生と花見や歌会に興じる気さくな人物であったという。
誕生の地には、明治初年、廃藩置県直前まで洪庵の兄が住んでいたが、移住した後は建物は取り払われて、井戸だけを残し畑になっていたという。大正14年に吉備郡医師会、地元の有志から誕生地に碑を立てて、洪庵の功績を世に知らせようと立案、佐伯家の始祖運も賛同し、土地を譲り、記念碑の下にはへその緒・産毛・元服の遺髪」を埋めたという。序幕は昭和3年に行われ、洪庵の子孫の方々や京都帝都大学総長、慶應義塾総長、医師会の人たちが参列し、盛大に行われたそうです。

大阪の適塾跡、建物が改修中で入れなかったから、もう一度行かないとな。。

また足守は木下家2万5千石の陣屋町として、保存地区があります。

あまりゆっくりまわる時間がありませんでしたが、とても雰囲気の良い町並みでした。

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