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旅の記:2023年9月のツアー⑫桂浜・浦戸城跡(高知県高知市)

【旅の記:2023年9月のツアー⑫桂浜・浦戸城跡】

やってきました、桂浜!そして龍馬像!本当に久しぶりです。司馬遼太郎「龍馬がゆく」を読んで歴史に興味を持って、高知~長崎~山口萩と旅したのが、もう20年以上前なんですね。。
司馬さんは歴史家ではなく、歴史小説家ですから脚色も多いですし、武田鉄矢原作・小山ゆう「おーい!龍馬」なんて、もうやりすぎってくらい話が盛られていますが、どちらもとても面白くて、歴史ファンになるには十分な作品でした。とかく最近では龍馬は実はたいしたことはしていない、司馬さんの龍馬像にだまされるな、とか矮小化が流行っていますが、僕はあまり気にしないのです。
龍馬が実際に何を成して、何を成していないかは、まだまだ資料がいろいろ出てきて、評価はそのたびに変わっていくのでしょうが、龍馬を語る同時代の人々の言葉を見れば、やはり魅力的な人物だったのだと、僕的には確信するのでした。
学校ではまったく不勉強でしたが、いまではそれなりに歴史を知って、こうして旅を楽しめることを、龍馬に感謝したのでした!!

お久しぶりです!高知県青年有志が募金活動を行い、昭和3年(1928年)に除幕式を行った。「海軍の父」として、戦時中も回収されることはなかった。
龍馬が高知でもっとも愛した場所、といわれる
桂浜は昔から月の名所で知られるそうです。

桂浜北側の丘陵部、浦戸山には県立坂本龍馬記念館があり、龍馬が実際に寺田屋事件で使った拳銃や姉・乙女に宛てた手紙などが展示されています。とは言っても、今回は時間の関係もあって入館はしなかったのですが、前回は拝観しています。
記念館がある場所には浦戸城というお城があったそうです。鎌倉時代から城壁が存在していたとされ、天文年間(1532年‐1554年)、土佐七雄の一つ山本氏がその最盛期にこの辺りまで勢力を伸ばし築城した。永禄3年(1560年)長宗我部国親が長浜の戦いで山本氏を破り、本城を支配下におさめる。戦国時代末期の天正16年(1588年)国親の子・元親は主城である岡豊城から大高坂山(現・高知城がある山)に城を移したが、水害が多かったため天正19年(1591年)に山城だった浦戸城を天守も備えられた、本丸・二の丸・三の丸・出丸からなる本格的な城郭に改築し、居城とした。
慶長4年(1599年)元親死去により4男・盛親が家督を継ぐが、翌年の関ケ原の戦いでは西軍について敗北、改易されてしまった。
新しく山内一豊が土佐藩主となるが、長宗我部旧臣の抵抗にあい入国ができなかった。幕府は井伊直政の家臣を城の受け取りに送り込んだが「浦戸一揆」と呼ばれる50日間に及ぶ頑強な抵抗にあう。最終的には旧臣たちの間で重臣級の年寄方と一領具足級の家中方で意見の対立があり、それを利用して策謀をもって鎮圧、城内273人は殺害された。
慶長6年(1601年)1月にようやく一豊は入城することができたが、城が手狭だったため、同年8月より高知城築城を開始、慶長8年(1603年)に完成した。そして、浦土城は廃城となった。

龍馬記念館
浦戸城のある浦戸山から

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