旅の記:2023年7月のツアー⑤象山神社(長野県長野市)
【旅の記:2023年7月のツアー⑤象山神社】
松代が生んだ幕末の英雄のひとり、佐久間象山を祀る神社です。象山の読みは「しょうざん」と呼ばれることが多いですが、地元では「ぞんざん」と読むそうで。というわけでこちらも「ぞうざんじんじゃ」。大正2年(1913年)、象山殉難50年に神社建立が計画され、昭和13年(1938年)に創建された。
文化8年(1811年)佐久間象山は松代藩の下級藩士の家に生まれる。父・国善は微禄ながら卜伝流剣術の達人で藩から重用されていたという。象山は子供のころから儒教、和算を学び文政11年(1828年)家督を継ぐと天保2年(1831年)には藩主真田幸貫の世子である幸良の近習・教育係に抜擢された(しかし高齢の父に孝行ができないとすぐにやめている)。幸貫は象山の性格には難があるとしながらも、その才能は高く評価していたと。しかし、天保3年(1832年)に象山の作った父の門弟名簿の序列に誤りがあると藩から指摘されたのに、誤りはない!と自説を曲げなかったため、藩老に対して不遜な態度があったとして閉門を言い渡された(国善の病が重くなったため赦免されている)
天保4年(1833年)江戸に出て儒学の第一人者・佐藤一斎に学び、山田方谷と共に「佐門の二傑」と言われた。この頃は儒学をメインに日本従来の学問を学び教えていたが、天保13年(1842年)藩主幸貫が老中兼海防掛に任命されると、象山は顧問となり海外情勢を研究、オランダ語やオランダの医書、兵書など蘭学の重要性に目覚め建白書「海防八策」を幸貫に提出するまでになる。
象山は西洋砲術に通じ、大砲の鋳造に成功するたけでなく、ガラスの製造や種痘種の導入も企図するなど、蘭学者として名声を高め、江戸木挽町に開いた「五月塾」では勝海舟、吉田松陰、坂本龍馬、山本覚馬など多くの俊才が学んだ。ちなみに西洋砲術を江川英龍に学ぶが、その教育方針がお気に召さず、江川さんとはそりが合わなかったようです。。
嘉永6年(1853年)ペリー来航時には藩の軍議役として浦賀を訪れた。この時の報告は「急務十条」として幕府老中阿部正弘に奏上されている。嘉永7年(1854年)には門弟だった吉田松陰の密航の企てに関与したとして、伝馬町老屋敷に投獄されてしまい、その後文久2年(1862年)まで松代で蟄居することになる。実際に松陰にペリー艦隊での密航を進めたのは象山であるというが、取り調べでは徹底的に関係を否認、取り調べにあたった幕使ですら「往生際が悪い。。」と思ったとか。また弟子を庇わぬその態度に、攘夷派の志士からも逆恨みを買った。
元治元年(1864年)には一橋慶喜に招かれ上洛、公武合体論を説き、開国することをすすめた。もともと「西洋かぶれ」と評判だったこともあり、開国を持論とする象山は当時京に多く潜伏していた過激な尊王攘夷派の志士から目を付けられることになる。そして同年7月11日、孝明天皇の彦根動座を画策したことが原因となり、三条木屋町で熊本藩士で幕末の四大人斬りのひとりとされる河上彦斎らに暗殺されてしまう。享年は54。
象山先生、学才も高く実績もありますが、どうも性格に問題ありだったようで、、門弟の勝海舟に軽はずみの男とけなされたり、高杉晋作にはほら吹きあつかいされたりしています。自らを「国家の財産」と称していたとか。癖が強いですね(笑)。しかし、その才能は誰もが認め、その功績は疑いようのないものあると言えるでしょう。暗殺に関わった河上彦斎も象山の実績を知り愕然とし、以後暗殺をやめてしまったそうです。
松代藩では、象山は背中に後ろ疵13か所あったため士道不覚悟ということで佐久間家は改易されてしまいます。当時勢いのあった尊王攘夷派に忖度したのか。。お家再興を願い息子の啓之介は新選組に入りかたき討ちの機会を伺うが果たすことができず(この息子さん、なかなかの問題児だったそうです)、家が再興されたのは明治になってからとなった。
写真撮り忘れ:象山が暗殺までの2か月を過ごしたという煙雨亭。京都木屋町三条から昭和56年に移築。
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