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旅の記:2023年9月のツアー⑰ジョン万次郎船出の地(高知県土佐市)

【旅の記:2023年9月のツアー⑰ジョン万次郎船出の地】

坂本龍馬、中岡慎太郎、武市半平太、長宗我部氏、山内氏、、英雄・有名人を多く輩出する土佐ですが、この人を忘れてはいけません!
ジョン万次郎こと中浜万次郎。文政10年(1827年)土佐国幡多郡中ノ浜村(現在の高知県土佐清水市)の貧しい半農半漁の漁師の家に生まれる。9歳で父が亡くなり、10歳のころから下働きに出るが、あまりの重労働から脱走して、母の計らいで宇佐で漁師として働くことになる。天保12年(1841年)1月27日、14歳の万次郎は漁船の炊事係として鰊鯖漁に出るが、足摺岬の南東15㎞ほどの沖合で突然の強風に吹き流され、航行不能となってしまった。数日間漂流して、伊豆諸島の鳥島に漂着、そこで海藻や海鳥などを食べながら143日生き延びた。同年5月9日、アメリカの捕鯨船ジョン・ハウランド号が食料のウミガメの捕獲のため島に立ち寄った際に万次郎ら5名を発見、救助さる。しかし鎖国している日本に戻る術もなく、そのまま捕鯨船に同乗したままアメリカに向かった。同年11月20日、ハワイのホノルルに寄港した際に万次郎を除く4名は下船、万次郎一人アメリカへ行くことを強く希望したという。航海中に見た世界地図で、日本の小ささに驚き、世界をもっと知りたいと思ったのでしょう。船中、アメリカ人乗組員から船名にちなんで「ジョン・マン(John Mung)」の愛称で呼ばれた。
天保14年(1843年)船長ウィリアム・ホイットフィールドの故郷であるマサチューセッツ州フェアヘーブンで、船長の養子のように暮らすことになり、オックスフォード・スクールで小学生に混じり英語を学んだ。その後、船長がスコンチカットネック移ると、しばらく船長の叔母と住んでいたが、万次郎も移りスクールに通った。弘化元年(1844年)フェアヘーブンのバーレット・アカデミーで英語・数学・測量・航海術・造船技術を熱心に学び、主席になった。アメリカでの生活の中で、民主主義や男女平等などの新しい概念に触れるが、人種差別も受けたという。船長は捕鯨で出てしまっていたので、学校を卒業後は桶屋で働いたりしていたが、弘化3年(1846年)、ジョン・ハウランド号の船員だったアイラ・デービスが船長の捕鯨船フランクリン号で再び捕鯨船の船員となってニューベッドフォードから出港した。数年間の航海で、大西洋とインド洋を経由してホノルルに寄港していて、別れた漂流民とも再開している。この間、琉球の小島に上陸したそうですが、帰国はできなかった。嘉永2年(1849年)9月にニューベッドフォードに戻り、船長ホイットフィールドに再会した後、帰国の資金を得るためにゴールドラッシュで沸くサンフランシスコに行き金鉱で働いた。この旅でサクラメント川を蒸気船で遡上し、鉄道で移動した。
資金をためた万次郎はホノルルに渡り、嘉永3年(1850年)再会した漂流仲間の伝蔵と五右衛門と共に商船サラ・ボイド号に乗り込み日本へ向けて出港した。
嘉永4年(1851年)、購入していた小舟アドベンチャー号で琉球に上陸し、そこから薩摩本土へ送られ取り調べを受ける。当時の薩摩藩主は開明的で知られた島津斉彬だったこともあり、万次郎ら一行を厚遇し、斉彬から海外の情勢や文化について質問を受けた。また藩士や船大工に洋式の造船技術や航海術を教示し、薩摩藩はそれをもとに和洋折衷船越通船を建造している。
薩摩藩から長崎に送られた万次郎一行は長崎奉行で長期間尋問を受け、キリシタンになっていないかを確認するために踏み絵をしたそうです。この頃の踏み絵は慣例化したもので、描かれた絵はほぼ解読不可能だったとか。その後、土佐藩から迎えに来た役人に引き取られ土佐へ向かった。土佐では吉田東洋らにより取り調べを受け、万次郎を同居させて聞き取りにあたった河田小龍が後に漂流記「漂巽紀畧(ひょうそんきりゃく)」を記した。ー小龍はこの話を龍馬にもしたでしょうねー約2か月後に故郷に帰ることを許され、漂流から11年後の嘉永5年(1852年)に母と再会した。帰郷後すぐに土佐藩の士分に取り立てられて、藩校「教授館」の教授に任命され、後藤象二郎や岩崎弥太郎を教えている。嘉永6年(1853年)7月8日黒船でペリーが来航すると、今度は幕府に招聘されて江戸に行き、直参の旗本の身分を与えられ、江川英龍の配下となる。江川は長崎で没収されていた万次郎の持ち物を返還させた。この時、故郷の名ととって「中濱」の苗字が与えられた。また勘定奉行川路聖謨からアメリカの情報を聞かれ、糾問書にまとめられた。安政元年(1854年)幕府剣道指南・団野源之進の娘・鉄と結婚。安政2年(1856年)軍艦教授所教授に任命され造船・測量・航海術の指導にあたり、英会話書の執筆や、航海術書の翻訳、そして通訳、公演、船の買付など精力的に働いた。この頃に大鳥圭介、箕作麟祥などが万次郎から英語を学んでいる。
この当時、英語をまともに話せるのは万次郎だけで、ペリーとの交渉での通訳に適任とされたが、オランダ通詞の立場を危ぶんだ勢力からスパイ疑惑をかけられ、通訳の役目から外された。攘夷論者であった水戸の徳川斉昭が、万次郎が情報をアメリカに漏らす恐れがあるとして、反対したとも。それでも万次郎は日米和親条約締結に向け、陰ながら助言や進言をして尽力した。
万延元年(1860年)日米修好通商条約の批准書を交換するための遣米使節団の一員として咸臨丸に乗ってアメリカに渡った。航海中、船長であった勝海舟の船酔いがひどく指揮がとれなかったため、万次郎は技術アドバイザーだったジョン・ブルックと共に船内秩序の保持に努めた。サンフランシスコ到着後は通訳として活躍した。日本に戻った万次郎は文久元年(1861年)外国奉行水野忠徳に同行し、小笠原諸島の開拓調査に参加している。文久3年(1864年)鹿児島に赴任し、薩摩藩の開成所の教授となる。慶応2年(1866年)土佐藩開成館設立にあたり、教授となって英語・航海術などを教えている。藩命により後藤象二郎と上海まで赴き土佐帆船「夕顔丸」を購入。慶応3年(1867年)再び薩摩藩の招きを受けて航海術などを教授。同年12月に討幕の機運高まる中、江戸に戻った。
明治維新後の明治2年(1869年)明治政府より開成学校(現・東京大学)の英語教授に任命される。明治3年(1870年)大山巌らと共に普仏戦争視察団として欧州へ派遣される。アメリカ経由だっため、フェアヘーブンにより、恩人ホイットフィールドに再会し、持っていた日本刀を送った。
帰国後、軽い脳溢血を起こし、数か月後には回復するが、以後は時の政治家たちと親交を深めながらも、静かに暮らしたという。明治31年(1898年)71歳で死去。

かなり簡略しましたが、人の一生ってこんなにもドラマチックになるんだな、と驚きます。子供の頃は貧しくて教育を受けられなかったそうですが、アメリカで学業を熱心にして、日本に帰ってからは教える立場として活躍した万次郎ですが、折あるごとに幕府に捕鯨を勧めたり、実際に捕鯨のために海に出ているので、やっぱり漁師の気持ちは忘れていなかったのでしょうね。表立った活躍は、当時の国内情勢的にできませんでしたが、幕末に欠かすことのできない英雄のひとりであること間違いなしです。もし興味があれば、ぜひ深堀を!

この港に立つ14歳の万次郎少年は、これから自分に身に起こることの一つでも想像できたでしょうか?!
いつかね、生まれ故郷の土佐清水にも行ってみたいものです。。








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