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旅の記:2023年9月のツアー⑪武市半平太旧宅及び墓(高知県高知市)

【旅の記:2023年9月のツアー⑪武市半平太旧宅及び墓】

幕末、黒船来航によって高まる尊王攘夷のムーブメントの中、文久元年(1861年)江戸留学中であった土佐藩士によって土佐勤皇党が結成された。
盟主となった武市半平太は、文政12年(1829年)土佐郷士の家に生まれる。武市家はもともと豪農であったが、半平太より五代前に郷士に取り立てられて、白札(上士)格に昇格した。
天保12年(1841年)一刀流・千頭伝四郎に入門し剣術を学び、嘉永3年(1850年)に高地城下に転居、小野派一刀流を麻田直義に学び、安政元年(1854年)に皆伝を伝授される。それより少し前に、新町に道場を開いた。この年に土佐は大地震に見舞われて家屋を失うが、翌安政2年(1855年)に新築し、自宅に開いた道場には120人の門弟が集まり、その門下には中岡慎太郎や岡田以蔵などがおり、のちの土佐勤皇党の母体となった。

城下にある半平太邸及び道場跡
碑は公園にありますが、実際にはあの駐車場あたりだったとか。

安政3年(1856年)江戸での剣術修業が許されて、鏡心明智流士学館(桃井春蔵の道場)に入門し、桃井に見込まれ皆伝を受け、塾頭となった。しかし安政4年(1857年)、祖母の病状悪化のため土佐に帰国(父母は早くに亡くしていた)。
安政6年(1859年)将軍継嗣問題で土佐藩主・山内豊信(容堂)が井伊直弼によって蟄居させられるが、翌安政7年(1860年)に桜田門外の変で井伊が暗殺されると、土佐藩でも尊王攘夷の機運が高まった。
祖母が亡くなり、喪が明けると武者修行と称して西国遊歴に出た。坂本龍馬には「この時世に武者修行でもあるまい」と笑われたが、その真意は西国諸国の動静視察であった。
文久元年(1861年)4月、再び江戸に出た半平太は、長州藩士や薩摩藩士、水戸藩士らと交流するようになり、特に長州藩士久坂玄端に心服、久坂を通して吉田松陰の思想に共鳴した。半平太は尊王攘夷運動において土佐藩は遅れていると痛感し、同年8月に築地の土佐藩中屋敷にて少数の同志と共に密かに土佐勤皇党を結成した。9月には帰国して、龍馬を土佐における筆頭加盟社として同志を募り、中岡慎太郎・岡田以蔵・吉村虎太郎など192人が加盟した。その大半は下士・郷士・地下浪人などの下級武士や庄屋であった。
半平太は長州藩・土佐藩に後れを取らぬよう藩論を刷新すべく、藩の重役にたびたび進言するが、なかなか受け入れられなかった。薩摩藩が2000の兵を挙兵上洛するとの方が持たされた際には、久坂に脱藩して勤皇挙兵(と久坂らは思い込んでいた)に参加すべしと説くが、半平太はあくまでも一藩勤皇を目指すとして自重を促した。一部土佐勤皇党メンバーはこれに納得できず、龍馬や沢村惣之丞などが脱藩した。龍馬の脱藩には「龍馬は土佐の国にはあだたぬ(おさまりきらぬ)奴。広い処へ追放してやった」と語ったという。
文久2年(1862年)藩の意見を攘夷にまとめるには、参政である吉田東洋を除くしかないと決断した半平太は、4月8日土佐勤皇党の那須慎吾・大石団蔵・安岡嘉助らに命じて殺害した。これにより土佐勤皇党は東洋の専横を憎んだ重役一派を通じて、実質的な反省の主導権を握った。
勢いを得た半平太は国事に奔走して、尊王攘夷運動を活発化させた。この時期、過激な尊王攘夷派による天誅が横行したが、半平太も少なからず関与していた。
加熱する尊王攘夷運動と土佐勤皇党の働きに、不快感を持っていた山内容堂は、しばらくは半平太を泳がせていたが、文久3年(1863年)3月、吉田東洋暗殺の下手人捜索を命じ、土佐勤皇党よりの重役たちを解任した。またそれ以前に、半平太以外の土佐勤皇党士に対しては、他藩士との政治的交際を禁じる通達を出していた。
半平太はかねてより不和が生じていた薩摩・長州の融和を目指し、薩長和解調停案の決済を容堂に仰ぐために帰国を決める。久坂はこれを危険とし、脱藩して長州への亡命を進めたが、半平太はあくまでも土佐藩にこだわった。土佐では京都で皇族から令旨を得て藩政改革を断行しようとしたとして平井収二郎・間崎哲馬・弘瀬健太の死罪が確定し、半平太の助命願いもかなわず切腹となった。容堂は半平太に謁見、国事を論じたが、半平太の意見を容れることはなかった。8月18日、京都で会津藩と薩摩藩による政変により長州藩が失脚すると、状況は一変、勤皇派は急速に衰退し、公武合体派が主導権を握ることとなる。土佐でも9月21日半平太ら土佐勤皇党幹部に逮捕命令が出され、半平太は投獄された。この時の獄使は半平太の人物に傾倒し、家族や同志との秘密文書のやり取りを助けたという。上士扱いであった半平太は拷問されることはなかったが、軽士たちは激しく拷問された。それでも吉田東洋暗殺事件などの事実を否定し続け、長い獄中闘争を耐えた。しかし元治元年(1864年)京都に残留していた岡田以蔵が捕縛、土佐に送還された。以蔵は過酷な拷問に耐えることができず、京・大阪での天誅事件への関与や、実行者の名を次々に自白したことで、さらなる逮捕者が相次いだ。これにより取り調べの激しさはさらに増し、自白を恐れて服毒自殺するものまで出た。半平太自身も、獄中生活による衰弱も相まって自白してしまうのではないかと憂慮して、自分にも毒を調達するように頼んでいた。
以蔵ら4名ほどが自白したものの、半平太は一連の容疑を否認し続け、監察府は罪状を明確に立証するまでは至らなかった。しかし慶応元年閏年5月11日(1865年7月3日)、業を煮やした容堂の一方的な罪状認定により「主君に対する不敬行為」という罪で、半平太は切腹を命じられた。即日刑は執行され、以蔵ら4名は獄舎で斬首、半平太は体を清め正装し、南会所大広庭にて、いまだ誰もなしえなかったと言わる三文字割腹の方を用いて、腹を三度かっさばいた後、介錯人に心臓を突かせて絶命した。享年37。
容堂は晩年病に伏せると、半平太を殺してしまったことを悔い、「半平太、ゆるせ、ゆるせ」といううわごとを言っていたと伝わる。明治10年(1877年)に名誉回復された。

高地城下に出るまですんだ旧宅。もとは茅葺で間数6室で客室は8畳、柱に半平太が刻んだ字の痕があるそうです。昭和11年(1936年)国の史跡に指定された。
資料館と
奥に瑞山神社。瑞山は半平太の号。
さらにすすむと
半平太(右)と妻・富(左)の墓。二人の仲の良さは有名ですね。嘉永2年(1849年)に父母をなくした半平太は老祖母の扶養のために、富子と結婚した。子を授からないことを心配した吉村虎太郎が富子を説いて実家に帰らせ、若い女中を送り込んだが、半平太は一切手をつけず、虎太郎を𠮟りつけたという。半平太が獄中にいる間の1年9か月、富子は板の間で寝起きし、夏は蚊帳を吊らず、冬も布団を使わなかったという。また毎日3食欠かさず牢に差し入れし、切腹の際に身に付けた衣装も、富子が縫い上げて届けた死装束であった。富子は大正6年(1917年)に亡くなった。

どうしても土佐藩という枠から脱することができなかった武市半平太。龍馬とは真逆の性格ですが、分かり合っていたところも多く、二人の友情に胸が熱くなりますね。そして富子さんとの夫婦仲にも!









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