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旅の記:2023年9月のツアー㉓秋山兄弟生誕地(愛媛県松山市)

【旅の記:2023年9月のツアー㉓秋山兄弟生誕地】

愛媛県。高速道路で通過したことはありましたが、上陸、そしてライブももちろん初めてです。2023年、全国ツアーを思い立って、ライブしたことがなかった県はたくさんありましたが、初めて訪れるっていうのは愛媛と10月に行った秋田かな?とにかくやってまいりました。
愛媛と言えば、、たくさんありますが、まず訪れたのは司馬遼太郎『坂の上の雲』の主人公である秋山兄弟(好古・真之)の生誕地です。松山藩下級武士の秋山家は江戸末期の天保年間(1831~1845年)にここに家を構えました。当時の家は残念ながら松山空襲により焼失してしまいましたが、戦後60年の平成17年(2005年)に復元、公開されました。家の設計図がなかったため、しばしば訪れていた親戚の方や好古の娘さんなどから聞き取りをし、残っていた写真などから検証して建てられたそうです。

秋山好古の騎馬像

兄の好古は安政6年1月7日(1859年2月9日)に生まれる。家は貧しく藩校に入学するも、銭湯の水汲み、釜焚き、番台の管理などをして、家計を支えつつ勉強に励んだという。明治8年(1875年)教員になるべく大阪へ出て、師範学校を卒業、小学校に勤務するが明治10年(1877年)教職を辞して陸軍士官学校に入った。明治12年(1879年)に卒業すると陸軍騎兵少尉となって東京鎮台に配属となる。騎兵を選んだのは、他の兵科より一年早く卒業することができ、給金を受け取れるからという理由だった。陸軍では順調に出世、明治19年(1886年)には大尉になると翌明治20年(1887年)には旧松山藩主久松家の当主・久松定獏のフランスはサン・シール陸軍士官学校への留学に補導役として同行、騎兵戦術の習得に努めた。明治24年(1891年)に帰国、明治27年(1894年)には日清戦争に従軍し、その後陸軍乗馬学校長になると、フランス留学の経験を活かして、騎兵研究に没頭した。明治37年(1904年)陸軍少将になっていた好古は日露戦争において、騎兵第1旅団長として満州に出征、歩兵・砲兵・耕平などを随伴させる戦闘集団(秋山支隊)を編成して、当時世界最強と言われナポレオンを破ったコサック騎兵を相手に好戦し、最終的にロシア軍を退却させることに成功した。この活躍に「日本騎兵の父」と呼ばれるようになる。戦後は陸軍大将、教育総監、軍事参議官を歴任、元帥位叙任の話もあったが、これは本人が固辞したとか。大正13年(1924年)前年から予備役に入っていた好古は私立北予中学校(現・愛媛県立松山北高等学校)の校長に就任する。問題の多かった学校の改革を行い、生徒には国際的知識の重要性を教えたという。昭和5年(1930年)老いには勝てぬと校長を辞任、学校理事として松山に住んだ。同年、糖尿病の悪化により入院、11月4日入院先で心筋梗塞により死去。享年72。
偉大な軍人でもあり、偉大な教育者でもあったという好古。そして、弟・真之が生まれ時、生活苦から寺に入れようかという話が出ると「自分がお金を稼ぐから寺にやるのはやめてくれ」と両親にお願いしたという、、偉大な兄でもありますね!

秋山真之胸像

真之は秋山家の5男として慶応4年3月8日(1868年4月12日)に生まれる。家は大変貧しかったが、兄・好古のお陰で寺に入らずにすんだ真之は勉学に打ち込んだ、、と思いきや、なかなかの悪ガキで、母・貞は「お前も殺してわたしも死ぬ」と言ったほど手を焼いたそうです。ただ和歌は得意で「雪の日に北の窓あけシシすればあまりの寒さにち〇こちぢまる」という歌を詠んだそうです。。ただ、あまり勉強してる風でもないのに、成績はいつもトップクラスだったとか。
明治16年(1883年)親友の正岡子規に刺激を受けて、中学5年にて中退、将来の太政大臣を目指すために東京へ出て、大学予備門(現・東京大学教養学部)に入学した。そこから帝国大学進学を目指したが、経済的に苦しく、学費も兄・好古に頼っている状態だったため文学の道をあきらめ、明治19年(1886年)海軍兵学校に17期生として入校した。明治23年(1890年)海軍兵学校を首席で卒業し、海軍軍人となった。明治25年(1892年)海軍少尉に昇進、日清戦争では偵察などの後援活動に参加。明治31年(1898年)アメリカに留学、ワシントンにて軍事思想家アルフレッド・セイヤ―・マハンに師事し兵術の理論研究に努めた。米西戦争を観戦武官として視察した際、アメリカ軍のキューバ・サンチャゴ港閉塞作戦を見学しており、この時の経験が日露戦争における旅順閉塞作戦の礎となったといわれる。明治35年(1902年)海軍大学校の教官となる。明治37年(1904年)海軍中佐・第一艦隊参謀となる。同年、日露戦争では連合艦隊司令長官東郷平八郎のもとで作戦担当参謀として戦艦三笠に乗艦、ロシア旅順艦隊の撃滅・封鎖のための旅順攻撃と旅順港閉塞作戦での機雷施設などを立案した。さらにロシアのバルチック艦隊に対し迎撃作戦を立案、日本海海戦の大勝利に貢献した。日本海海戦出撃の際の報告電報の一節「本日天気晴朗ナレドモ浪高シ」は名文とされ、東郷も「智謀如湧」(ちぼうわくがごとし)と真之の作戦立案能力を高く評価した。明治38年(1905年)12月に連合艦隊が解散すると、海軍大学校の教官に復帰。解散式の東郷の訓示は真之が起草したとされ、この名文に感動した米大統領セオドア・ルーズベルトは英訳させて米国海軍に頒布した。その後、現場に復帰し巡洋艦の艦長などを歴任した。
大正3年(1914年ん)第1次山本権兵衛内閣を退陣に追い込んだ、軍艦建造を巡る疑獄事件「シーメンス事件」では調査委員会のひとりに指名された。
第2次大熊内閣では軍務局長として海軍大臣・矢代六郎を補佐。大正5年(1916年)に軍令部に転出、同年第一次世界大戦視察のためにヨーロッパへ渡る。イギリスでは日本海海戦を観戦した英国海軍のペケナム中将、艦隊司令官長ジョン・ジェコリー提督らに歓迎された。その後フランス・イタリア・アメリカを経て大正5年(1916年)に帰国、同年第二水雷戦隊司令官に就任。翌大正6年(1917年)海軍将官会議議員、同年中将進級と同時に待命となった。この頃虫垂炎を患っていた真之は箱根での療養に努めたが、大正7年(1918年)悪化、腹膜炎を併発して、2月4日に小田原にて死去した。享年49。
日露戦争後、双方の犠牲者を目のあたりにして出家を願うようになり、友人らに止められて断念したが、晩年は日蓮宗に帰依するなど、経典・宗教研究に没頭した。また新宗教皇道大本に入信し教主顧問にまでなったが、大正6年に喧嘩別れした。真之の入信は、信仰ではなく神道研究だったとされ、長男の大は「父は宗教には否定的であった」とい言い残している。
明治23年(1890年)和歌山県沖で座礁し、多くの犠牲者を出したオスマン帝国軍艦「エルトゥールル号」の生存者送還に従事したり、孫文とも交流があり革命運動を支援したりと、話題に事欠かない方です。
そして兄の好古もそうですが、かなりイケメンだと思われます。日本人離れした容姿で、実際好古は陸軍大学校時代に教官もメッケルからヨーロッパ人と間違えられたというエピソードがあります。NHKドラマでも阿部寛さんが演じてらっしゃいましたね。

復原された建物
三笠の蒸気機関模型
秋山両将遺邸の碑
秋山兄弟産湯の井戸

「坂の上の雲」、NHKのスペシャルドラマも大作ですね。秋山兄弟ともう一人の主人公・正岡子規は次回来た時にぜひ深堀したいです。






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