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旅の記:2023年4月のツアー①勝栄寺(山口県周南市)

【旅の記:2023年4月のツアー①勝栄寺】

車でバーッと山口県は周南市へ。今回のツアーはここから東京に向かいながらいろいろな場所で歌って、いろいろな場所で歴史探訪してまいりました。
まずは1350年頃に大内氏の重臣・陶弘政がこの辺り富田保に入ったときに、自らを開祖として創建したという勝英寺。元は時宗の寺院であったが、現在は浄土宗。時宗は当時南朝に協力して、布教と合わせて北朝方の動静を探っていたという話もあり、寺には土塁や環濠が設けられて、軍事的な性格もあったとされる。

また、こちらには「三本の矢」で有名な毛利元就の教訓状が書かれた場所であるということです!
厳島合戦で陶氏を倒した元就であったが、防長二国で大内氏の残党が蜂起しているということで、息子隆元と共にこの寺を本陣として、その掃討にあたったという。その際に兄弟が協力することの大切さを綴った手紙を書いたそうです。人質として(気に入られていたそうですが)大内隆義に仕えていた隆元、吉川家に入った元春、小早川家に入った隆景は立場の違い、性格の違いからまったくの一枚岩というわけにはいっていなかったようで、毛利家のために協力し合うことの大事さを14か条の教訓状として認めたそうです。
実際の教訓状は重要文化財として毛利博物館(防府)に所蔵されているそうですが、かの有名な3本の矢という記述はないそうです。また元就が死の間際に3兄弟に直接「三本の矢」の話をしたというのも、その時期に各方面に戦に出ていた兄弟が揃うの無理であり、後の捜索ということですが、元就が兄弟の結束が毛利の将来のために最も大切なことと思っていたことには違いはないでしょう。

山門
朝鮮での戦勝祈願のために秀吉が手植えしたという松があったそうですが、台風で倒れ、いまは切り株のみ、、てどれだ?
お寺の周りには土塁の跡が残っています。


中世の騒乱の時代に、お寺が果たしていた役割が分かる造りになっていますね。

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