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旅の記:2023年10月のツアー④龍興寺<道鏡塚>(栃木県下野市)

【旅の記:2023年10月のツアー④龍興寺】

小山から北上して興隆寺へ。真言宗智山派の寺院で、下野薬師寺の別院とされる。寺伝では白鳳8年(680年)に下野薬師寺の別院として開山、奈良時代に聖武天皇の命を受けて天平宝字5年(761年)に鑑真が揚州龍興寺の戒壇の法を移したことで、龍興寺になったという。
下野薬師寺の流れをひく安国寺との間で江戸時代に、その正当性を争う訴訟があったそうですが、天保9年(1838年)に「安国寺は戒壇、龍興寺は鑑真墓所を守護するということで同意したそうです。

本堂
道鏡塚。道鏡の墓と伝わる。

6世紀末頃に作られたとみられる直径38mの円墳があり、そこに追葬という形で道鏡が葬られたと伝わる。孝謙天皇(後の称徳天皇)に寵愛を受けて権力を得て、神託によって天皇にまでなりかけた僧侶・道鏡。和気清麻呂の機転により皇位につけなかった道鏡は(宇佐八幡宮神託事件)、神護景雲4年(770年)に称徳天皇が崩御すると下野薬師寺の別当を命じられて下向、赴任地であるこの地で没した。実質的に左遷であったが、刑罰を科されることはなかった道鏡。しかし親族4名は捕らえられ、土佐国へ配流されたという。
道鏡自身は本当に天皇になりたかったのか、権力を持ちすぎたために、それをよしのとしない藤原氏にはめられたのか。孝謙天皇に近づいたのは、病気の患った孝謙天皇を看病したことからでした。同じく聖武天皇の母・藤原宮子を看病し、栄達のきっかけをつかんだ玄昉が、藤原仲麻呂の台頭によって、筑紫観世音寺別当に左遷されたのに似ていますが、藤原広嗣の霊に八つ裂きにされたという玄昉よりかは、道鏡は静かな最期を迎えられたのでしょうか。。
2人とも戒壇のある重要な寺院に左遷されているのも面白いですね。

道鏡塚背後の古墳。
鑑真和尚碑。鑑真の弟子たちが遺徳を偲び建立したという供養碑。
傍らには鑑真和尚の杖が成長したものという伝説がある菩提樹。


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