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旅の記:2023年9月のツアー⑨弘憲寺<生駒家菩提寺>(香川県高松市)

【旅の記:2023年9月のツアー⑨弘憲寺】

弘憲寺は讃岐生駒家の菩提寺で、山号を利剣山、本尊を不動明王とする高野山真言宗の寺院です。寺伝によると、今から1300年前の天平時代に現・香川県飯山町に建立された法勲寺が高松に移されたとのことです。「吾妻鏡」にも記述があるそうです。その後、廃寺となり、本尊・霊宝は近くにある島田寺に移されていた。
天正15年(1587年)生駒正親が讃岐に入封すると、正親はこの地が空海の誕生地であるとして密教に帰依し、法勲寺を再建、島田寺の良純に寺務を取らせた。
慶長8年(1603年)親正が没すると息子の一正が法勲寺を親正の墓所内(現在の地)移転、親正の戒名をとって弘憲寺と改称した。

慶応4年(1868年)鳥羽伏見の戦いにて高松藩は幕府側についたために一時朝敵となるが、説得を受け恭順に決し、家老二人の首を鎮撫使に差し出したが、そのうちのひとりの小河又右衛門は当寺で切腹した。

山門。明和3年(1766年)建立。
左手、弁天堂と右手は平和の塔。


本堂。もとは不動堂として建立され、現在の建物は昭和4年の再建。ご本尊、不動明王は重文。
裏手には
生駒親正公夫妻墓所

生駒親正は美濃国可児郡に生まれる。父の代から織田家の家臣として戦い、羽柴秀吉付属の武将に任じられ、数々の戦いに参加した。天正10年(1582年)本能寺の変の後は秀吉の家臣となり、山崎の戦から文禄の役まで多くの戦いで活躍した。四国平定が終わると文禄4年(1595年)に12万6千石で讃岐国を与えられて高松城と丸亀城を築城、城下町を整備した。秀吉の晩年、中村一氏、堀尾吉晴と共に三中老に任じられたとされるが、この役職は後世作られたもので実在しないというのが、最近の説だそうです。
親正は讃岐国前国守・十河存保(戸次川の戦いで討死)の嫡男・千松丸を預かっていたが、秀吉「存保ほどの子にわずか3千石」と言われ、十河家の遺臣はすわ元の2万石で復活か?!と期待したが、千松丸は元服を迎える年に病死した。このため生駒側による毒殺でないかと噂された。これは生駒家を貶めるための謀略との説もあるが、生駒家が十河氏復活を嫌い三好氏に連なるものを弾圧したことも事実のようです。
慶長5年(1600年)関ケ原の戦いでは、豊臣家への恩義もあってか、息子・一正は東軍に与したが、親正は在国して西軍の丹後国田辺城攻めに家臣を内代理として派遣した。しかし、西軍決起時に大阪にいたために西軍につくしかなかったとされ、東軍寄りの行動が多かったことから、責任を取らされ関ケ原の戦闘がはじまる前に高野山に入りし、剃髪した。戦後、一正が東軍に与し戦功を上げたことから、讃岐の所領は安堵された。一正は領内を再検地し、高直しによって讃岐高松藩は17万3千石となった。ほどなくして親正は讃岐に戻り、慶長8年(1603年)に高松城にて死去。
生駒家は4代藩主高俊の時にお家騒動(生駒騒動)を起こし寛永17年(1640年)に改易されて、出羽国矢島に一万石の堪忍料で配流となる。その後生駒家は旗本・交代寄合旗本となるが幕末まで続き、明治元年(1868年)の王政復古に際しては早々に朝廷に帰順。戊辰戦争では官軍の奥羽鎮撫使に従軍し、その功を評価されて、1万5千石で出羽矢島藩を維新立藩した。明治17年(1884年)当主・親承が男爵に叙された。
2016年、生駒親正着用の甲冑が秋田県由利本荘市の龍源寺から当寺に寄贈されたそうで、改易から376年ぶりの里帰りとなったという。

近くの公園に親正の像がありました。






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