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旅の記:2023年9月のツアー㉒高知の誕生ノ地シリーズ(高知県高知市)

【旅の記:2023年9月のツアー㉒高知の誕生地シリーズ】

市街地を歩いて歴史探訪をしていると、さすが有名人を多く輩出した土佐です、多くの誕生地を発見することができます。僕が見つけたいくつかをご紹介。

坂本龍馬誕生ノ地

河田小龍塾の近く。前回来た時も日が暮れてからだったな。龍馬ね、教科書から消されたり、なにかと言われますが、僕はやっぱり好きですよ。また、まんじゅう屋こと近藤長次郎邸も近くにありました。

板垣退助誕生ノ地

自由民権運動で有名な退助。東アジア初の帝国議会を樹立し「国会を創った男」と言われ、伊藤博文・大隈重信と並ぶ「憲政の三巨人」のひとりでもあり、、など明治の日本に大きく貢献した。幕末は上士でありながら勤皇派でもあり、武市半平太の尋問には消極的だったとされ、中岡慎太郎などとつながりを持った。
戊辰戦争では土佐から迅衝隊を率いて甲府方面に進軍。退助の先祖が武田信玄家臣・板垣信方ということで、岩倉具定の助言で板垣姓にしたという。政治家のイメージですが、軍略にも優れていたそうですよ。生前には会ったことがないということですが、坂本龍馬銅像の前身となる坂本龍馬君顕彰碑を建立した。大正8年(1919年)死去。享年83。

後藤象二郎誕生ノ地

板垣退助とは親友であった後藤象二郎。子供の頃に父を亡くし、吉田東洋が面倒を見た。そのため土佐勤皇党には厳しい態度で挑んだ。慶応2年(1866年)藩命で長崎に出張、上海を視察した。この頃に坂本龍馬と深く交わるようになったという。慶応3年(1867年)山内容堂と連署して幕府に大政奉還建白書を提出している。明治後は政治家となり板垣退助らと行動を共にする。龍馬の功績を横取りした、、なんて言われることもあるようですが、龍馬も認める人物であり、その豪胆さを多くの人が評価している。福沢諭吉とも仲が良かったそうです。明治30年(1897年)死去。享年60。お墓の形状は板垣退助と全く同じだそうです。

福岡孝弟誕生ノ地

吉田東洋に学び、藩主・豊範の側役となって公武合体運動に尽力する。慶応3年(1867年)参政に就任すると、前藩主・山内容堂を中心に殖産興業政策などを推進。坂本龍馬ら海援隊や陸援隊と提携して、大政奉還実現に向けて尽力した。明治維新では越前の由利公正とともに五箇条の御誓文を起草。明治に入ると政治家として、司法大輔に任じられ、その後は元老院議官など要職を歴任した。大正8年(1919年)死去。享年85。

山内容堂公誕生ノ地

12代藩主山内豊資の弟で南邸山内家当主・山内豊著の長男として生まれた容堂さん。部屋住み生活を送っていましたが、不幸続きで、まさか藩主になるとは思わなかったでしょうね。僕も大好き土佐のお酒「酔鯨」は、僕の何百倍もお酒が好きな容堂の号「鯨海酔候」からいただいたそうです。

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