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旅の記:2023年6月のツアー⑨雲谷庵<雪舟旧居跡>(山口県山口市)

【旅の記:2023年6月のツアー⑨雲谷庵】

享徳3年(1454年)頃に守護大名大内教弘の招きに応じて周防国にやってきた雪舟は40歳前後とされ、すでに名声も高かったが、さらなる高みを目指して、当時中国・朝鮮ともつながりが強かった山口に住むことになる。応仁元年(1467年)には遣明船で明へ渡航し、各地を回って本格的な水墨画に触れた。明の画壇には見るべきものはないとして、同時代の画家よりも宋・元の時代の画家に興味を持ち、模写して学んだ。また中国大陸の大自然に影響を受けた雪舟は、帰路揚子江を下りながら多くの風景画を描きその作品は中国各地に現代も残っているそうです。

文明元年(1469年)に帰国し、山口に雲谷庵を開き、自らのアトリエを「天開図画廊」と名付け生活をはじめる。そして周防国を中心に豊後や石見、美濃まで旅行して創作活動を行い文亀元年(1501年)頃に丹後国の天橋立を訪れ『天橋立図』を描いた。周辺の寺社などが詳しく描かれていることなどから、雪舟が各地を訪れたのは大内氏の軍事・外交政策のための調査だったのではないか?という話もあるようで、これは芭蕉も伊能忠敬もスパイ説があるのと一緒ですかね。
雪舟67才の作品で国宝でもある「四季山水図」もここで描いた。
雪舟の没年は正確な記録はなく、亡くなった場所も諸説あるようですが、ここ山口にもその一つで永正3年(1506年)87歳であったという。
雪舟亡き後は弟子が次いで画統を継いでいたが、大内氏滅亡により庵はいつしか荒廃した。
毛利輝元の時代、肥前から原治兵衛(後の雲谷等顔)を召し出して、雲谷庵の地を与えて、雪舟の画脈4世を称して、子孫は代々毛利家に仕えた。
明治維新後は再び荒廃するが、郷士史家の方々が明治時代に大内氏時代の小材を使って現在の案を再建した。

ただし、実際にここが雪舟のアトリエだったかどうかは諸説あるそうですが、昭和57年に発掘調査が行われ、青磁片や瓦質土器片などが見つかり、室町時代の遺構があった可能性は高いという。大内政弘に与えられた隠居地という説も。
いずれにせよここ山口で歴史に残る作品を描いたことは確かですね!



雪舟の人生にはまたどこかで深ーく触れられたらと思います!

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