旅の記:2023年8月のツアー⑥多賀城跡(宮城県多賀城市)
【旅の記:2023年8月のツアー⑥多賀城跡】
神亀元年(724年)に按察使・大野東人が築城したとされる多賀城は陸奥国を治める役所としてだけでなく、蝦夷支配の軍事拠点・鎮守府として設置された。それ以前は仙台郡山遺跡(現・仙台市太白区)に陸奥国府があったとされ、移民によって人口が増えるたことで多賀城へ移された。北方の備えとして天平五柵(牡鹿柵・新田柵・玉造柵・色麻柵・不明の1柵)を設置し、陸奥国支配の強化を図った。奈良時代、平城京を中心に南に大宰府、多賀城は北の拠点になった。天平宝字6年(762)藤原朝狩が大規模に修造、宝亀11年(780年)には伊治呰麻呂(これはるのあざまあろ)の乱で焼失、再建された記述がある。延暦21年(802年)坂上田村麻呂による蝦夷討伐で前線が移動するのに伴って鎮守府も胆沢城(岩手県奥州市)に移され、多賀城は兵站機能を担う場所に変わった。
貞観11年(869年)に起こった陸奥巨大地震(貞観地震)により城下は地震・津波によって被災して、多くの犠牲者を出すが多賀国府として復興された。11世紀前半にはその役割をほとんど終えていたが、それ以降も前九年・後三年の役、文治五年(1189年)の奥州合戦などでも各勢力の軍事拠点とされ、地政学的にとても重要な場所であることが分かります。南北朝時代には建武政府に陸奥守として任じられた北畠顕家やその父・親房が義良親王(後村上天皇)を奉じて多賀城に東北・北関東を支配する陸奥将軍府を設置している。その後は荒廃し、歴史の中に埋もれて行った。。
延暦3年(784年)奈良時代の公卿・歌人で万葉集編纂にも関わったとされる大伴家持が赴任して、その後この地で亡くなったという説がありますね。
大野東人・大伴家持・坂上田村麻呂・奥州藤原氏・北畠顕家なとそうそうたるメンバーです!
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