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旅の記:2023年6月のツアー②大黒屋光太夫記念館(三重県鈴鹿市)

【旅の記:2023年6月のツアー②大黒屋光太夫記念館】

四日市から奈良へ移動。少し遠回りして大黒屋光太夫記念館へ。江戸時代は大型船の製造が禁止されていて、漁師船や回船(海運業)はしょっちゅう漂流して、帰ってこないことが当たり前だったそうですが、幕末も近くなると海外の船が日本近海でクジラ漁をすることが増えて、漂着先で発見されることが多くなってきていました。
大黒屋光太夫は伊勢国奄芸郡白子(現在の三重県鈴鹿市)の港を拠点とした回船の船頭でしたが、光太夫31歳の天明2年(1782年)に江戸に向かう途中、乗っていた神昌丸は駿河沖で嵐にあって漂流してしまう。そこからなんと7か月!(運よくお米を運んでいたのが幸い)も流されてアリーシャン列島の一つアムチトカ島に漂着して、毛皮を取りに来ていたロシア人と遭遇、ロシア語を学びながら島を出る船を待ったが、ロシア人たちを迎えに来た船が目の前で難破して、漂流者が増えてしまう。島にいること4年、光太夫がリーダーとなりありあわせの材料で船を作って脱出した。
帰国を望む光太夫たちだったが、日本語を話せる貴重な人材として、ロシア国内で日本語教師にしたいという思惑によって、なかなか実現しなかった。極寒の中移動は困難を極めたが、カムチャツカ、オホーツク、ヤクーツクを経由してイルクーツクに到着、ここで博物学者キリルと知己を得て、彼の助けでサンクトペテルブルグに行き、時の皇帝エカチェリーナ2世に謁見、帰国を許されることになる。
寛政4年(1792年)日本との貿易を模索するロシアはキリルの次男・アダム・ラクスマンを使節として光太夫らを連れて北海道の根室に、漂流から10年後に到着、前例のないことで混乱する中、長い交渉を経て光太夫らは幕府側に引き取られることとなった。しかしもともと17名いた船員は漂流中やロシア国内で12名が死亡、新蔵・庄蔵という二人が正教に改宗してイルクーツクに残留。帰国したのは光太夫・磯吉・小市だけが帰国できた。(小吉は交渉を待つ根室で死亡)

帰国後、将軍家斉や老中の前で聞き取りを受けるなど、ロシアの情勢や東方への進出状況を説明し、幕府の樺太や千島列島への防衛意識を高めるのに役立だった。その後、江戸に滞在することとなった光太夫は妻を迎え、学者たちとも交わり蘭学発展に寄与することになる。

本来漂流者は帰国すると罪人として(むちゃくちゃな話だけどw)処分されていたそうですが、江戸時代後期になると長崎などから得る情報で、世界情勢の変化に敏感になりつつあった幕府は、帰国者からの経験談を重宝したそうです。
光太夫やジョン万次郎、アメリカ彦蔵など、この時代に漂流した人たちのアドベンチャーはほんとおもしろすぎます!それぞれ本や映画にもなっているので、ぜひぜひ読んだり観たりすることをお勧めします!!光太夫は吉村昭さんの「大黒屋光太夫」が読み応えあります。

記念館には光太夫直筆の手紙や漂流記、ロシアから持ち帰った器物などが展示されていました。

また近くには顕彰碑

そして今回は行けませんでしたが、荷主が光太夫らが行方不明になって2年後に、死亡したものと思い建立したという供養碑があるそうです。
そりゃ、そう思うよね。。

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