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旅の記:203年4月のツアー㉙徳川宗春墓碑(愛知県名古屋市)

【旅の記:2023年4月のツアー㉙徳川宗春墓碑】

尾張徳川藩第7代藩主である徳川宗春は、同時期に将軍であった吉宗の質素倹約政策に反発して規制緩和政策を取り、蟄居謹慎を言い渡され、その後一切外出も認められず、死後も謹慎処分が解かれなかったため、墓には金網が被せられた、、という逸話があるようですが、これは後世の作り話もかなり入っているようです。

尾張藩3代藩主綱誠の20男!としてうまれ、いわゆる「部屋住み」として不遇な生活を強いられる、と思いきやあれよあれよと兄弟たちが亡くなり6代藩主となっていた兄も後継者がいないまま死去したために尾張家を相続し、享保15年(1730年)第7代尾張藩主となった。
当時は将軍徳川吉宗、老中・松平乗邑の主導で質素倹約規制が強化される享保の改革が行われていた。しかし宗春は規制緩和を進め、江戸では縮小・廃止されていた祭りや芝居を尾張では奨励し、民の楽しみを大切にした。名古屋城郊外にまで芝居小屋や遊郭等の施設を許可し「名古屋の繫華に京(興)がさめた」といわれるほど町は賑わった。宗春は巡視の際に朝鮮通信使の恰好や歌舞伎の衣装を着るなど、なかなかのかぶき者だった。
江戸でも火事で焼失した江戸上屋敷市谷邸が新築再建された際に開放して、藩祖義直が家康から拝領したという幟と嫡男萬五郎の武者飾りを庶民に見学させた。
これらに対して、吉宗から使者が送られ吉もされたと言われるが、すべてにおいて論破し、お咎めはなかったという。
実際、幕府の緊縮規制政策は蝗害などもありうまくいっておらず、不満の溜まった領民のガス抜きてきな意味もあっての行動ともいえる。また緩和だけでなく、節約するところはして、宗春のやり方で倹約していた。
この頃幕府は水戸藩から上程された『大日本史』の出版に関して朝廷と敵対関係にあったが、尾張藩は代々朝廷と繋がりが深かった。そんな中、政策的に失敗している幕府は、名古屋での成功が幕府の権威を傷つけるとして警戒しており、尾張藩は朝廷と幕府の板挟みとなった。元文3年(1738年)藩内ではこれを好機と宗春失脚を目論む御付家老武腰正武が老中松平乗邑と計画して、宗春、そしてもう一人の御付家老成瀬正泰が江戸へ参勤した直後に尾張領内の実験を握り、宗春の政策をすべて無効として、藩主就任前の状態戻すと宣言した。このため領民はおおいに混乱した。
元文4年正月11日(1739年2月18日)、松平乗邑は尾張藩家老たちを江戸城に呼びだし、蟄居謹慎の内命を伝え、翌日吉宗からの蟄居謹慎命令を宗春の従兄である広島藩主浅野吉長らが伝え、江戸中屋敷麹町邸、そして名護屋城三の丸の屋敷にて蟄居謹慎した。

お話的には正義の吉宗vs悪の宗春の構図のほうがおもしろいので、二人は何かにつけて対立していたように描かれることが多いようですが、実際吉宗は宗春を認めていたところもあるようで、尾張藩家老たちとの宗春追放計画には参加せず、また蟄居後の宗春の生活も気にかけており、まったく外出することができなかったとか、お墓にまで金網を懸けたというのは虚構だそうです。

名古屋での宗春の政策は、領民には大うけで支持されましたが、実際は藩の財政は悪化して、かなりの財政赤字を生み出していたようです。幕府の意向に反するような緩和政策、財政の悪化、藩内の勢力争いもあって、実弟が幕府中枢にいた武腰正武が、これまた宗春を快く思わない松平乗邑と図って失脚させた。吉宗も朝廷と関係の近い尾張藩への警戒心もあって、宗春の蟄居謹慎に賛同したということでしょうか。。また宗春も吉宗の政策に徹底的に反抗したわけでなく、自分が正しいと思った政策を推し進めただけで、幕府の考え方とは合わない部分が多かっただけということだと思います。緩和政策だけでなく、領民との対話も大切にし、道徳的な観点からも死刑をしなかったりと、善政を敷いた宗春が人気になるのは当然だったのでしょう。

宗春の後は美濃高須藩主松平義淳が徳川宗勝として入ったが、宗春の養子という形ではなく、一旦幕府が尾張藩を召し上げ、あらためて宗勝に与えるという形がとられた。

尾張前黄門(前中納言)と呼ばれるようになった宗春は、宝暦元年(1751年)吉宗が薨去したあとは尾張藩歴代藩主の隠居所である御下屋敷に移り、菩提寺の建中寺や祈願所への参拝や、茶碗を焼いたり、絵を描いたりと藩主のサポートもありながら悠々自適に暮らしたということです。明和元年(1764年)死去。享年69。遺体は建中寺に埋葬された。土葬だったため守り刀などと共にミイラ化した状態で見つかった。第二次世界大戦後、名古屋市復興都市計画に伴って、墓を千種区の和公園に移す際に遺骸は火葬され、副葬品は建中寺に納められた。

宗春の墓石。名古屋空襲の際に焼夷弾の直撃を受け一部が損傷。今は修復されている。平和公園には平手政秀(うつけ信長を諫めるために自刃したという噂の)や家康の忠臣平岩親吉などのお墓があります。

宗春没後75年の天宝10年(1839年)、11代将軍徳川家斉の12男・斉荘(なりたか)が12代藩主就任の際に、宗春の名誉は回復され従二位大納言が贈られ、歴代藩主に列せられた。







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