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旅の記:2023年4月のツアー㉓来迎寺・太田城跡(和歌山県和歌山市)

【旅の記:2023年4月のツアー㉓来迎寺・太田城跡】

「水攻め」といえば備中高松城と武蔵忍城が有名ですが、実は「日本三大水攻め」と言われ、そのもうひとつが紀州にある太田城だそうです。
現在の和歌山市あたりは戦国屈指の傭兵軍団である雑賀衆の拠点であった。一口に「衆」と言っても、いくつかの衆、党に分かれており、また近くには真言宗の寺社勢力である根来衆などもおり、それらが集まって、時に小競り合いもありながら、自治を行っていた。
しかし、織田信長が本願寺と対立し、全面戦争へ突入すると、一向宗門徒が多かった特に海側に住む雑賀衆は、雑賀門徒として本願寺の救援に向かい、雑賀孫一の活躍もあり、織田軍に大きな被害を与えることとなった。これが後の信長の紀州攻めにつながり、天正5年(1577年)6万とも言われる大軍で雑賀に押し寄せました。この時、宗教的に異なる根来衆や、根来の影響が強かった太田左近を当主とする宮郷衆ら雑賀東部の雑賀衆は信長につきました。
しかし海側の雑賀荘・十ヶ郷の雑賀衆は得意の鉄砲やゲリラ戦法で、織田軍に被害を与えながら、1か月近く籠城を続けます。結局は雑賀の頭目が織田に降伏し、連署した誓詞を信長にだすことで停戦となります。一度は織田軍は京都へ引き上げますが、雑賀荘・十ヶ郷の雑賀衆が、先に信長に与した衆への報復をはじめたため、再度織田軍が雑賀を攻めるが、これも制圧に失敗した。さらに天正6年(1578年)には、雑賀荘・十ヶ郷に中郷・南郷の兵も加わって、宮郷の太田城を包囲攻撃(第一次太田城の戦い)するが、落城させることはできなかった。そうこうしているうちに織田方に与していた雑賀孫一の仲介によって停戦が成立。宮郷はその後本願寺に謝罪、赦免を受けている。こうした思惑の違いや抗争によって、雑賀衆の間には修復しがたい亀裂が生じてしまう。
本能寺の変が起こり、覇権を握ろうとする秀吉は、織田信雄の要請を受けた徳川家康と小牧・長久手で対峙、この時雑賀衆・太田衆・根来衆は家康側に付き大阪方面まで攻めあがった。このことを恨んだ秀吉は、天正13年(1585年)10万とも言われる大軍で紀州攻めを開始、諸城を落とし、まずは根来寺を攻め立てて焼き払ってしまった。太田衆と根来衆の残存兵は太田城に籠城、その数3~5千程度だったかが士気は高く、秀吉軍の攻撃を跳ね返した。容易に攻め落とせないと知ると、秀吉は得意の、というか、大好きな水攻めに切り替えた。紀の川をせき止めて、城から300mのところに堤を築く。堤内に水が溜まると、秀吉軍は安宅船を使って攻めるが、泳ぎのうまい城兵が船底に穴をあけて沈没させてしまった。さらに堤防を決壊させて、宇喜田秀家の陣営に被害を与えたりした。
しかし抵抗も1か月も経つとさすがに物資・精神面両方で限界に近づき、説得に応じて太田左近を初め53名が自害し、城内三か所に埋められた。ちなみに雑賀孫一は小牧・長久手の戦いから紀州攻めまで秀吉側で参戦している。
太田城開城の後秀吉は、戦の首謀者とその女房衆は責任を取って首を斬るが、平民には農具や馬牛を返還し、農業に専念するように計らった。これは城に篭った雑賀衆にも同じだったようで、後の刀狩りを先取りする武装解除の施策とされる。

日本三大水攻めとされる太田城の戦いの概要ですが、不確かなことも多いようです。例えば、堤防の規模に関しては、伝わる話よりも小規模であったとも言われ、また太田城の場所も不確定とされるそうです。ここ来迎寺には太田左近の奥方という説もある「砂の墓」があり、太田城の一角である可能性が高いということですが、住宅地化がすすんだ今では、全体像を把握することは難しく、堤防跡なども一部を残して、ほとんど消滅した。

近くには堤防跡、首を埋めたとされる場所に「小山塚」という碑があるそうですが、今回は行けませんでした。

その後、紀州には豊臣秀長が入り和歌山城を築城、太田城は廃城となった。










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