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旅の記:2023年4月のツアー㉘薩土討幕之密約記念碑(京都府京都市)

【旅の記:2023年4月のツアー㉘薩土討幕之密約記念碑】

歴史の宝庫・京都ですが、今回はこの一か所のみとなりました。京都は東山、祇園にあります薩土討幕之密約記念碑。
幕末、慶応3年5月21日(1867年6月23日)に京都の小松帯刀寓居で締結された「薩土討幕の密約」の前段階として会見があった料亭「金安楼」の跡地です。前段階の前段階といってもいいでしょうか、土佐藩士乾退助(板垣退助)、同福岡藤次、広島藩士船越洋之介らと中岡慎太郎が会見して、武力討幕を密談した場所。
幕末、発言力を高める薩摩藩主導で開催された、雄藩合議による政治改革を目指す「四侯会議」。将軍徳川慶喜、摂政二条斉敬の諮詢機関として設置され、薩摩藩主の父・島津久光、前越前藩主・松平春嶽、前土佐藩主・山内容堂、前宇和島藩主・伊達宗城で構成された。
長州問題や兵庫開港問題などを評議するが、慶喜の雄弁・舌鋒に圧倒され、容堂は早々にやる気をなくし、久光も機嫌を損ね、最終的な協議には四侯のうち春嶽と宗城が参席するのみとなり、驚異的な粘りで挑む慶喜に完敗し、会議は雄藩の思惑通りにはいかなかった。
これを受けて上記密談メンバーは討幕を決意し、中岡は乾と西郷隆盛を引き合わせようと奔走し、慶応3年5月21日に京都の料亭「大森」にて再び乾・中岡が策を練り西郷に送り、同日夕方近衛家別邸(小松帯刀の寓居)において、土佐藩乾・谷干城・毛利恭介・中岡らと薩摩藩西郷・吉井幸助(友実)・小松帯刀らが会談、乾は戦になった場合の土佐藩の参戦を約束した。
薩摩藩側は重臣会議を開き、藩論を武力討伐に統一。土佐藩では煮え切らない容堂に乾は水戸浪士中村勇吉・相良総三らを江戸藩邸に匿っていることを明かし、脅しのような形で軍事密約を承認させて土佐に戻り、軍制改革に着手した。
しかし乾と入れ違いに後藤象二郎・坂本龍馬が上洛して大政奉還を説くと、慶応3年6月22日に京都三本木の料亭「吉田屋」で薩摩藩小松帯刀・大久保一蔵・福岡藤次らと会見して、大政奉還策を進めるために薩土盟約が結ばれた。この盟約は討幕の方向で密約を結んだ乾らには秘密にされたという。
まだ気持ちの揺らいでいた容堂はこの案におおいに賛成したが、そのための手段としての出兵に反対し、兵を率いて帰京するという薩摩藩との約束を守ることができなかった。優柔不断な容堂、そして長崎で起こったイカルス号事件により、大幅に暮れて大阪に到着した後藤であったが、その間に薩摩藩は挙兵討幕を決定しており、9月9日後藤・福岡が小松・西郷・大久保と会談、正式に薩土盟約は解消された。
結局容堂・後藤らは大政奉還実現に尽力して、実際に10月14日(太陽暦11月9日)に慶喜は大政奉還を行うことになるが、同日に討幕の密勅が長州に下された。
その後、大政復古などを経て、薩長は鳥羽伏見の戦いで幕府と戦闘状態に入るが、これを私闘と判断した容堂は戦闘に手出ししないようにと厳命するも、山田清兼、吉松速之助ら諸隊は薩土討幕の密約に基づき独断で戦闘に参加した。切腹を覚悟していた山田らであったが、厳しい叱責を受けるも、錦の御旗が翻り、処分は保留された。
そこから戊辰戦争を経て、江戸無血開城、新政府樹立と密約は成就されることとなった。

密約と盟約、同時に結ぶ薩摩藩の二重外交?はさすがのしたたかさですね。






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