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ビジネスの人材育成を、落語の徒弟制度から考える──立川志の春 × 宇田川元一 × 森山和彦(後編)

立川志の春、宇田川元一、森山和彦による鼎談最終回は、対話の対極にある「忖度」という流行語を入り口に、イノベーションの起こる組織のあり方、さらにはそれを支える人材をいかに育てるかという話題へと展開していった。

忖度あるところにイノベーションなし

志の春 今年の流行語に入りそうな言葉に「忖度」ってあるじゃないですか。あれって会話の逆ですよね。言わずともわかれ、ということですから、あえて会話を排除しているわけです。そうなると、忖度をする間柄にはおそらく会話はもうないわけですから、イノベーションとかもないんじゃないかっていう。

宇田川 上の人はこう言っている。それを下の人が「上の人はこう言ってるかもしれないし、こう言ってるかもしれないけど、最大公約数的にはここだよね」とやる。そのさらに下の人は枝葉をさらに切り落として......とやっていくと、いちばんの現場の人は本当に狭い範囲でしか、身動きが取れなくなる。伝言ゲームによって本当に安全なところだけしか残らない。だからイノベーションの反対、真逆ですよね。それをどう打開するかってことがイノベーションには不可欠で。それにはやっぱり、異質なものとどう出会えるかが勝負になる気がします。

志の春 ぼくらの修業は忖度の極みですよ。結局、師匠から何か具体的に「ああしろ、こうしろ」とは言われなくて、ひと言、「俺を快適にしろ」という言葉で、弟子は「どうすれば快適なんだろう」と考えて、いろいろと身の回りのことをやるわけです。いちばん身近な人を快適にできずして、お客さんを快適にできるわけがない。そこは修業中、磨いていかないといけない部分なんです。

でも、忖度一色になってもダメで、大元の部分もやっぱり残しておかないと。例えば、ぼくは志の輔のところに入門したので、まずは「師匠は一体何を考えているんだろう」ということを常に考えて、師匠の考え方を自分の中に入れるプロセスがあります。でも、一方では元々の小島一哲(本名)という人格がやっぱりあって、それらが化学反応を起こすようにして、志の春というものになっていくんだと思うんですよ。

だから、一度は師匠の考え方を丸ごと入れないと、化学反応は起きないような気がするんですよね。小島一哲だけのまま行っちゃうと、伝統とはまたちょっと違う、別のものが出来上がってしまう。もしこの後うまくいって、ぼくにも弟子ができたとしたら、志の春という部分と、その人の本人の部分が戦いながら、半分ずつ、またつながっていくみたいな感じで。半分ずつの戦いの中で、何か新しい芸風が生まれていくんじゃないかと思いますね。

後半に差し掛かっても、3人の会話はよどみなく展開されていく。宇田川は久しぶりに「ゾーン」に入った感覚があったという。

宇田川 まさにそこのプロセスが会話のプロセスですよね。

志の春 はいはい。そうですね。

宇田川 だから、小島一哲という存在を消すことが重要なのではなくて、志の輔と小島一哲の対話を通じて、志の春という存在が立ち上がるってことなんじゃないでしょうか。で、世に言う忖度が良くないのは、小島一哲を消そうとするからなんですよ。そうなると対話じゃなくて、まさにモノローグ、独白の世界になってしまう。どう自分を消して、そっちへ行くかとなる。そこが根本的なところで違うんじゃないですかね。

志の春 そうですね。そういう、自分を消して忖度していく人がちょっと上の方に行くと、今度はそれがまたつながるわけですよね。そうするとまた、下の者とは会話をしようとはならない。だからそれは良くないですよね。

宇田川 だからその辺の違いはあっていい。違いがあるから、新しい芸が生まれるわけだから。それがイノベーションですよね。

志の春 そうですね。落語の修業では、最初は師匠の芸を完コピしろと言われるんですよ。稽古をつけてもらったんだったら、ブレスの位置まで完璧にコピーをしろ、と。オリジナリティは一切入れるなっていうのを3年とか5年とか続けるわけです。うちの一門には弟子が8人いますから、8人みんなが師匠の完コピをするわけですよ。

でも、不思議なことに、出来上がったものは8人まったく違うんです。みんなそれぞれ完コピしてるんですけど、違うんですよね。もしかしたら、最初からオリジナリティを入れていたのよりも違うかもしれない、それくらいに違いが出てくるんです。

宇田川 それはですね、文学の話になっちゃうんですけど、翻訳だと思うんですよ。翻訳って、例えば英語を日本語に翻訳する時に、元の英語のテクストを、文法の違いに沿って置き換えればいいわけではないんですよ。どの部分に注目するかによって、元のテクストは同じでもいろんな方向で解釈されて、翻訳が全然違うものになることはよくあります。だから翻訳者によって、すごくいろいろな文章が出来上がるんですよ。

それと同じなんじゃないですかね、弟子が芸を受け継ぐっていうのは。元のテクストには意味がある。けれどもその解釈の仕方は人それぞれ違うんだからっていう話なんじゃないかと。だからあえて「完コピしろ」なんじゃないですかね。

森山 おっしゃる通りで、自分のオリジナリティって結局は残るじゃないですか。でも、世の中にはそれが残るということを知っている師匠と知らない師匠がいる。また知っている弟子と知らない弟子もいると思うんですよ。

それをビジネスパーソンでいうと、知らない弟子は「そもそも世代が違いますから。あの上司はわからない」とか言って、最初から自分のオリジナルでやりたがる。逆に知っている弟子はプライドとかはないものと思って、「まずは自ら技をコピーしよう。学ばせてください」という。そういう人は成長するじゃないですか。

これってすごく大事なんですけど、いまの若い世代っていう文脈で語られる場合は、まさにこの知らない弟子のような人が多くて、自分のやり方に固執したがる。逆に上司の側は、そういう若い人を見て「反応が薄い」とか言うんですけど、でも本来は教えてあげるべきだと思うんですよね。「あなただって自分で考える存在なんだから、どんなに技をコピーしたって自分のオリジナリティは残るよ」って。それがないから、仕事なんてそもそもが誰かに仕えるということなのに、「自由」と反対にある概念のように聞こえてしまう。

志の春 不安があるからですかね。自分が消えちゃうことへの。

森山 そうです。不安感。いま、メディアも時代の揺り戻しのようにして「自由」とか「個人」っていうものを打ち出していて、その文脈から「自分らしさ」みたいな言葉が先導していくんで、長く修業して、みたいな昔の人たちのことをバカにしたりするんですよ。そうではない原則みたいなものに気づいていないので、怖いんですよね。だから学びにくい。

組織は人間の業をもっと肯定すべき

宇田川 自由とか個人という概念自体がそもそも近代の発明なので、それに縛られている不自由さがありますよね。

森山 そうです。間違いないです。これは日本社会の意識における危機のひとつだと思います。「自由でなきゃ」というのがすごく大きいです。例えばトップダウンとボトムアップが語られる時も、安易に「トップダウンは自由がないからダメだ」と言われる。いまフリーランスが昔に比べて持ち上げられていますよね。ああいうのを見ても、「いいな。うちの会社ではああいう風に自由にできないしな」って、すごく自己の内面がディスられるんですよ。みんな内面がすごく傷ついていると思うんですよね。新しい働き方とか新しい制度ってものが出るたびに、「自分たちはなんて自由じゃないんだろう」と思っちゃうんですけど、そのことそのものが不自由なんですよね。

自由がありそうだと思って違う会社に行ったら、またそこには違った不自由さがあるんですよ。トレードオフがあるということがわかっていない。認識の問題があるから、体験しないとわからない。これはなんとかして解決したいと思いますし、だから講演などでそういう話をよくするんですけど、世の中に肯定するものが少なすぎる。

肯定感がすごく少ないから、みんな不安になっちゃうんですよ。「このまま働いていていいのか」「いまの会社はあそこに比べたら全然だめだし」って。でも、最先端っぽいところへ行っても、結局全然ダメなことはいっぱいあるじゃないですか。どんな会社だって。うちだってありますよ、ダメなところたくさん。だから、そういうことをちゃんと伝えてくれる人が少ないのが問題かなと思っていて。

宇田川 人間なんて所詮はダメなものなんですよ。だから、ダメであるっていうことを認めることからスタートしようよってことですよね。

ビジネス書を読む代わりに、落語を鑑賞する日を設けてもいいかもしれない。立川志の春の講演情報はこちら。

志の春 それがまさに落語ですよね。談志師匠なんかは「人間の業の肯定」と言ってましたけど、要は、知ったかぶりしちゃったり、モテたいと思ってカッコつけたり、楽して金を稼ぎたいと思ったりという部分って、人間誰でもあるじゃない、と。それじゃダメだと言ってしまうと面白くなくて。人間はそういうもの。俺もそうだし、お前もそうだけど、でもそれぞれ事情があるじゃないってんで、談志師匠の場合は、忠臣蔵の討ち入りに参加した四十七士を描くのが講釈という芸だとすれば、逃げちゃった200人だか300人だかのことを語るのが落語だ、と。

人間って勇ましいやつばっかりじゃなくて、「いや、行きてえけど俺、ちょっと行けねえんだよ。怖えもん」というやつがいたり。いろいろあるけど、それを「それじゃダメだ」と言ってしまわないで、「まあわかるよ、それは」というのが落語で。そういうところがあるから人間ってかわいいし、なんか愛すべき存在だし、面白いよねというところなんですよね、多分。

森山 聞いていると、落語の考えは経営を豊かにすると思いますね。先日、尊敬する経営者の講演を聞いた時に、「世の中の多くの人はビジネス書ばっかりを読みすぎだ。ビジネス書を読んでいるから、ビジネスの範囲で話をするんだ」とおっしゃっていたんです。小説とか、古文書とか、いろいろ読むから人間を理解できるんだ、と。

落語もきっとそうで、経営やビジネスというのは大きな人生のたった一部でしかないということを教えてくれる。ビジネスって、視野が狭くなっちゃうところがあるんですけど、落語的な考えを取り入れて、「それもあるよね」ということを許容するのがすごくいいなあ、と。

志の春 そうですねえ。それもあった方が、優しい世の中になる気がしますよねえ。

森山 優しいですよね。でも一般的には株主がそれを許さないんですよ(笑)。そこがちょっとジレンマですよね。

宇田川 そういうことが語られたり、大事にできたりする組織の方が、最近の流行りの言葉で言うと、レジリエンスが高いはずです。多様性があるわけですから。プランB、プランCが作れる状態にあるわけですよ。

よくわからないことが起きたという時も、よくわからないことが起きるものという前提があれば、それで普通に乗り越えられますよね。でも起きないものだという前提に立っていると、原発事故のようになってしまう。だからやっぱり、語れる言葉をどれだけ豊かにできるか。いかにわれわれが気がつかないうちに洗脳されてるマネジメント・セオリーだとかから抜け出して、本当の意味で、ダメだということを前向きに認められるかというようなことだと思うんですよ。

志の春 誰かが問題を起こすと、すぐにわーって炎上するじゃないですか。そういう時は、みんな一旦自分を反対側に置いた上で責めていないんです。ある一方から「わたしは絶対にそんなことをしない」という立場から責めるのと、「おれがもしあっち側にいたら、どうだったかねえ。やっちゃったかもしれないな。いやでもあんた、立場があるんだから」というように責めるのとでは違うはずです。不倫問題でもなんでも、完全にこっち側から言っているということが多くて、優しくないなと思うんですよね。

宇田川 そう。それはまさに、リチャード・ローティっていう政治哲学者が言った「連帯」というものです。自分もその立場だったら同じようにしたかもしれないと認めることです。連帯をつくるために必要なのが物語です。同じ物語をわたしも生きている、ということが見えると全然違ってくる。だから結局、接点をどうつくっていくかにかかっているわけですよ、この社会がよくなっていくかどうかということは。

本質的な動機をいかに育むか

志の春 ぼく、たまに高校とかでも落語をやる機会をいただくんですけど、そういう時に、先生方と徒弟制度の話をするんですよ。

徒弟制度というのは基本的には、教えない、認めないというような育て方で。稽古をつけてもらった時にも「ここがこうだからダメだ」というようなことは言ってもらえないで、「それは落語ではない。落語にしてからもう一度来い」と頭ごなしに言われる。ヒントは与えない。でも、待つ。全否定するんだけど、そいつがもう一度持ってきたものは聞いてやって、また全否定する。その繰り返しの中で、そいつが自分で辿り着くのを待ってやる。

師匠とか上の人からしてみれば、ヒントを言わないのは相当なストレスなはずです。ヒントを与えれば、多分劇的に良くなるはずなんで。でもそのヒントは与えないで我慢して、とにかくそいつが来るのを待って。で、だんだんとその稽古が最初は15秒で止められていたのが、1分になって、3分になって、15分丸々聞いてもらえた時に、まあじゃあそれで高座でやってみろ、という。そこでも「これがいい」とかの評価はないんですけど。

で、学校の先生に聞くと「それは学校ではできない」と言うんですね。そんなに待っていられないのもあるんでしょうし、頭ごなしに「ダメだ」と言うのはできない、と。頭ごなしだからこそ、いろいろと考えるエネルギーになることもあるとぼくは思うんですけど、ちゃんと理由を説明しないとダメなんだ、と。これは企業でも同じことですか?

森山 いまのお話には、本質的な動機の強さが関係していると思いますね。徒弟制度って、落語家として一人前になりたい、芸を磨きたいという本質的な動機が強いんですよ。もう動機のレベルが半端ない。だから、そういう突き放すようなフィードバックをすると、問いに聞こえるんですよ。考える動機がそこにあるんです。

でも、さっきの学校でいうと、学ぶということに対する生徒の本質的な動機がマイナスにあるということなんだと思います。マイナスの動機に対してそういうやり方をすると、ダメなんじゃないですか?

志の春 そうか。動機なんですね。

CRAZYのコーポレートサイトに「WORK STYLE」というページがある。そこでは、社員の働く動機を向上させるための、さまざまなユニークな取り組みが紹介されている。

森山 本質的な動機をどう扱うかというのが、会社でも同じですけど、とても重要ですよね。会社でマイナスの動機の状態は、ただ指示に従って働かされている場合ですよね。だからぼくらの会社ではそういう人たちのことを社員じゃなくて「従業員」と呼んでいます。

うちでは自分自身がなんで働くのかとか、何がしたいのかという本質的な動機を、さっき(中編で)説明したライフプレゼンテーションで語ってもらって、そこに対してフィードバックするように心がけています。

企業も学校も、まずはそうした本質的な動機のレベル感を見定めることが大事だと思います。この人は経営者と同じレベルのすごい動機だな、と思ったら、その人には何を言っても大丈夫です。全部「ありがとうございます!」で返ってきますから。でも、動機の低い人だとそうはならないので、動機を見極めつつ、ただ一方ではビジネスでもあるので、「こうやった方がいいよ」とやり方を示した方が、動機が上がるのです。

志の春 そうかそうか。それによってノッていけるんですね。

森山 「自分はできる人なんだ」と思っちゃうと、動機はどんどん上がっていく傾向にあります。そこらへんの動機の形成方法はすごく興味深いです。それは多分、企業だから学校だからということではなく。徒弟制度はわからないですけど。

志の春 でも、それを上げていくのは難しそうですね。

森山 それこそまさに会話ですよね。会話がないと、「従業員ってのは頑張るもんだろ!」みたいになってしまう。そうすると受け取る側も「わかりました」とか言うんですけど、それは全然わかっていないんです。だからそうではなくて、「なんで働いているの?」「いま自分がどういう状態にあると自分で見えているの?」と聞いていく。そうやって内省を促すことで、つながっていくわけです。

そうするとある程度のことはわかるのですが、そんなに本質的動機のレベルが高くない子たちは、そうやって聞いているだけでは全然上がっていかないので、つながった上でさらに、期待を伝えて、いい意味で巻き込んでいくということをします。だから時間がかかります。

宇田川 時間がすごく大事だと思いますね。学校教育、小中とかだと、カリキュラムって厳密に決められているんです。あれはどうかと思う。そもそも人間が学ぶスピードなんてそれぞれ違うものだから。それなのに、日本はいま教育改革を進めてますけど、ほとんどのことが「みんなが同じスピードで学ぶ」って前提で改革がなされてるように見えます。

森山 企業も同じですよね。

宇田川 その方がいい、みたいなね。それぞれみんな違うのに。何を大事かと思う瞬間なんてそれぞれ違うので、やっぱり待たないといけないんだな、と。待つなんていうのもおこがましいんで、まあ、それぞれやってください、という感じかもしれないですよね(笑)。それぞれ違うスピードで、というのは当然だと思うので、そういう待つ時間というのは必要なんじゃないかなあ。

森山 いまのお話はぼく自身の本質的な動機ともすごく近いものがあるんですけど、要は人間にはそもそも、そういう多様性があるじゃないですか。多様性のある人間に対して、社会の評価軸、会社の評価軸が非多様だと思うんですよ。

例えば、前職でぼくのチームに営業がすごく下手な奴がいたんですよ。なんですけど、その人はめちゃくちゃ飲み会の技術が高かったんですよ。どれだけすごいかというと、3時間、ずっと講演してるみたいにしゃべってる。その間じゅう、15人くらいのメンバーがずーっと笑っているんですよ。めちゃくちゃ面白いんです。そうすると、錯覚のようにしてみんなが「このチーム楽しい!」って思える。1か月に1回それがあるだけで、みんなが楽しく仕事ができるんですよ。営業は全然取ってこないんですけども(笑)。

志の春 それだけ喋りができて!それ、うまく仕事につながったらすごいことになるんじゃないですか?

森山 まあそうなんですけど、営業はからっきしだめなんですよ。でも、ぼくはその価値をすごく認めてたんで、会社としての評価も上がるよう、こっそりぼくの数字を彼に渡していました。思うに、もっと昔に遡れば、昔の村でいちばんモテたのは、きっと歌を歌える人だったんじゃないかと思うんです。もしくは足が速いとか。いろいろあったと思うんですよね。でもいまは、みんなを盛り上げられる人が、必ずしもいちばんの人気者にはならない。社会の評価軸というものが変わってきているから。

でも、一方ではいまもなお、いろんな人がいますよね。それこそ周りの人を癒すのが上手な人だっていますし。そういう人たちが生きにくい社会なのかもしれないっていう時に、ぼくが新しく会社を経営する時には、その人たちがそれぞれの強みを生かして仕事ができるような場所が作りたいと思ったんですよ。

宇田川 おそらく、評価軸が一定で、強固になると、できないことにフォーカスしがちなんですよ。だから「あいつは飲み会ではチャラチャラ楽しくやっているけど、営業マンとしては無能だ」というふうに、そっちがメインになってしまう。そうではないですよね。本当は、ある人がパフォーマンスを出すのに、他の人が裏で貢献しているってことがあるはずなんで。その飲み会で盛り上げるというのも、他の人が成果をあげるのに、すごく貢献をしているわけだから。

森山 そうです、そうです。営業成績、すっごく上がりましたから。それがあるから「今日も頑張ろうぜ!」と言った時に「おー」ってなるんです。楽しくなかったらそうはならない。本当に素晴らしい人だったと思います。

宇田川 だから、能力として語られるものが少なくなってきているってことが言えるのかな、と。それはもっと広げた方が、できることが増えるし、面白くなるっていう。

志の春 落語家にもすごく楽屋で面白い人というのがやっぱりいるんです。楽屋での会話はもう、全部その人が回して。でも、不思議とそういう人って高座では大人しかったりするんですよね。なんでなのかな。逆に楽屋や打ち上げで物静かな人が、高座に行くと華があったりとか。売れてる人って割とそういう人が多い気がしますもん。

宇田川 どっちかだけいればいいってことではないんですよね。全体がうまくいくことを考えれば、どちらも必要ってことなのかもしれないですよね。

文/鈴木陸夫
撮影/小野田陽一
※この記事は、Sansan株式会社のオウンドメディア「BNL」に2017年8月2日に掲載された筆者執筆記事をサイト閉鎖に伴い転載したものです

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