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豊かさとはなにか【宇沢弘文没後5年シンポ 森田真生×ドミニクチェン】

かなり時間が経ってしまったのだが、10月末に日比谷図書文化館で開催された宇沢弘文没後5年追悼シンポジウム「ALL ABOUT UZAWA」に行ってきた。めちゃくちゃに刺激受けまくり、なんかようわからん脳内物質出まくりの一日だったので、いまさらながら、内容の一部をご紹介したい。

宇沢弘文先生は、ノーベル経済学賞にもっとも近いとも言われた日本を代表する経済学者だ。シカゴ大学、東京大学で教鞭をとり、数理経済学の分野で先駆的な業績を上げた。「社会的共通資本」という独自の理論を展開し、2014年に亡くなるまで、人間にとっての真の豊かさとはなにかを追究したことで知られる。

ゆたかな社会とは
すべての人々が、その先天的、後天的資質と能力を充分に生かし、それぞれのもっている夢とアスピレーションが最大限に実現できるような仕事にたずさわり、その私的、社会的貢献に相応しい所得を得て、幸福で、安定的な家庭を営み、できるだけ多様な社会的接続をもち、文化的水準の高い一生を送ることのできるような社会
社会的共通資本とは
一つの国ないしは、特定の地域に住むすべての人々が、ゆたかな経済生活を営み、すぐれた文化を展開し、人間的に魅力ある社会を持続的、安定的に維持することを可能にするような自然環境や社会的装置

経済学に転向する前は数学者。と言っても、決して数式にだけ向き合ってるタイプの人ではなくて、地球温暖化、水俣病などの公害問題、成田空港闘争の平和的解決に尽力した「行動の人」でもある。

・・・なーんて知ったような口をきいてしまったが、こうしたことはすべてこの日のシンポジウムを通じて知ったこと。それまでのぼくは『生命・人間・経済学 科学者の疑義』という、渡邊格先生との対談本を読んだことがあるくらいだった。

でも、この本がすごい。経済優先社会の問題点を縦横無尽に語り合う内容なのだが、40年前に書かれた本なのに、格差や高齢化社会、ビッグデータ、遺伝子組み換えなど、いままさにぼくらが直面している問題を扱い、それはそれは深い議論がなされている。まるで預言書だ。

この日のシンポジウムは、そんな宇沢先生の求めた「豊かさ」とはなにか、また経済学者、人間としての宇沢先生はどんな人だったのかなど、あらゆる角度から宇沢先生について語り尽くす、「ALL ABOUT」の看板に偽りなしの盛りだくさんの内容だった。池上彰さんほか、パネリストもめちゃくちゃ豪華。四つのセッションはすべて面白くて、11時から7時間半という長丁場でも、一度も集中力を切らすことなく聞き入ることができた。

この記事ではその中から、そのものズバリ「豊かさとはなにか」と題された朝イチのセッションの内容を紹介したいと思う。登壇者は独立研究者の森田真生さんと、情報学研究者のドミニク・チェンさん。モデレーターはハーバードビジネスレビューの編集者だった岩佐文夫さんが務めた。

対談のレポート記事でありながら、森田さん発の内容に偏ってしまっているのはご容赦いただきたい。これはほかの対談イベントを見ても思ったのだけれど、ドミニクさんはどうも、受けに回って相手のいいところを引き出す達人のように見える。だからこそ引っ張りだこなんだろうなあ、と。

「とはなにか」を問うことに意味はない?

セッションのお題は「豊かさとはなにか」。けれどもその冒頭で、森田さんはいきなり「とはなにかと問うこと自体が良くないんじゃないか」と疑問を呈して、前のめりなぼくらの出鼻をくじく。

ウィトゲンシュタインは「家族的類似(family resemblance)」という用語を用いて、ぼくらにとって大事な概念ほど「とはなにか」という形では本質を特定できないと説いている。自分と息子は目が似ているし、父親とは喋り方が似ている。母親とは髪の毛の硬さが似ている。このように個別に似ている部分を見つけることはできても、「この家族全員に共通する特性を一つ挙げよ」と言われると難しい。緩やかにつながった「家族」というものは確かにあるが、「とはなにか」と問うことにはあまり意味がないのでないか、と。ぼくらにとって重要なそのほかの概念についても同じことが言える。「豊かさ」も然り、というわけだ。

だが、「とはなにか」と問うことが良くないとしても、じゃあ「豊かさ」という言葉を使わないほうがいいかのというと、必ずしもそうではないと森田さんは言う。

「『豊かさ』のように大きな意味の広がりをもっていて、にもかかわらずぼくらが意味了解できるということは、それがぼくらにとってとても重要な概念であることを意味している。むしろいままで気づかなかったような形でこの言葉を使い直すことにより、意味の境界を揺さぶり、『豊かさ』という言葉で想起される概念、意味領域を拡張していくことが大事なのではないか」

人間に対して相関的な発想から離れてみよう

では、ここで言う「いままで気づかなかったような形」とは、具体的にはなにを指すのか。森田さんは「人間に対して相関的な豊かさから一度離れて考える」ことをぼくらに提案する。

GDPで測るとか、物質的に満たされているかどうかとか、その人が喜んでいるかどうか脳波を調べるとかいったことは、すべて「人間に対して相関的に」豊かさを考える発想だ。そうした人間中心主義的な従来の考え方から一旦離れようと森田さんは言っている。

森田さんとドミニクさんは、チリの生物学者であり、認知科学者のフランシスコ・ヴァレラに大きな影響を受けているという。C型肝炎で50代前半の若さで亡くなったヴァレラは、「豊かさ」に関連して、「生命はとても脆く儚い。しかし現在は豊かだ(life is fragile, and the present is so rich)」という言葉を残している。ヴァレラがチベット仏教徒でもあったことを考えると、ここでいう「richness=豊かさ」は、おそらくは物質的な、数量化して測れる豊かさではない。

森田さんによれば、ヴァレラが言っているのは、「人間に対して相関的に物事を見る発想を手放した時に、存在の純粋な喜びが立ち上がる」という意味のことだ。「人間に対して相関的に物事を見る発想を手放す」とはすなわち、世界があるがままにあるのを「ゆるす」ことであるという。たとえば、目の前にいる人を「何者かである」と解釈するのは、自分の世界に相関づける行為であって、ありのままあることを「ゆるして」いるとは言えない。

従来の経済学の枠組みで言えば、「あるがまま=なにも生み出していない」ということなので、「豊か」とは言えない。だが、そこにこそ「喜び」があるとヴァレラは言っている。では、「ありのままあるのをゆるすことによって立ち上がる喜び」とは、一体なにを指しているのだろうか。

「たとえば、家の軒先に巣を作ったツバメをゆるすのは、ツバメの生存にとってプラスという意味では、ツバメの喜びだ。だが、それは同時にゆるした自分の側の喜びにもなる」

「ああ、なんとなくわかるかも」という人がけっこういるのではないだろうか。ツバメに限らず、ただ共にあることそれ自体が「喜び」になる。ヴァレラのいう「豊かさ」とは、このようなものを指すらしい。「豊かさは自分で生み出せるものではない」のだと森田さんは言う。

ちなみに、ぼく自身はこの考え方にとても共感するし、しっくりくる感覚があった。長男に「唯人(ゆいと)」と名付けようとしたのも、「何者になる必要もない。ただあればいい。ただの人でいい」という思いがあってのことだった。結果として「字画が良くない」という理由で却下されたけれども。

世界を知る者と知られる者の相関に閉じ込めたカント

けれども、ぼくらはありのままにあることを「ゆるす」のが苦手だ。人間に対して相関的な考え方に支配され、慣れきってしまっている。

人間に対して相関的に物事を見る世界観を初めて確立したのはカントだ。「超越論的統覚」という考え方がそれで、カントは「知られる者は知る者によって作られるのだ」と説いた。「そのことにより、世界を知る者と知られる者の相関の中に閉じ込めた。これは現実に対するアクセス権の私有化である」と森田さんは言う。

「『私有』という概念は内側と外側というトポロジーを前提としている。だが、内と外に分けることがいかにナンセンスか。赤ちゃんが生まれた時に与えられる母乳の三分の一は母親の腸内のバクテリアだ。あるいはいまも宇宙誕生時の時空の歪みであり重力波動が身体の中を貫通している。どこまでが内で、どこからが外かなんて言えないことは、さまざまな科学的発見が私たちに教えてくれている。にも関わらず、私たちは内と外を分け、スムーズに作動する内側の世界を作れるという発想に縛られてしまっている」

いまある経済学もまた、こうして確立された科学の延長上にある。その辺に転がっているなんでもないバナナが、人間に対して相関されることによって初めて「120円」という意味を帯びた商品になる。そこで初めて「リアリティになる」とぼくらは考える。だが、空気にしても太陽にしても、現実のリアリティはぼくらが相関させるか否かに関係なくそこに存在する(この指摘は一つ前に書いた記事と矛盾するのかもしれない。ぼく自身もまだ消化できてない)。

このように、環境の問題は文字通り人間中心的には考えられない。だからこそ環境の問題は、ぼくらが知らず知らずのうちに支配されてきた「内側/外側」「私有」というアイデアを抜本的に考え直すことを迫るのだと森田さんは言う。

あるがままを「聴(ゆる)す」とはどういうことか

あらためて、あるがままを「ゆるす」とはどういうことだろうか。それは言い換えれば、理解不能なものと、理解しないままに付き合うということである。

そのとてもわかりやすい例が、ドミニクさんの作品「ヌカボット」だ。ぬか床にさまざまなセンサがついていて、中の状態をコンピューターが翻訳し、つぶやくというもの。人の質問に答えるだけでなく、時には「かき混ぜろ」などと人に対して「命令」もする。菌の声を「聴く」のは人間の側だ。そこでは人とぬか(の中にいる100種類以上の微生物)との関係が対等になっている。非・人間中心主義的になっている。

「ゆるす」という単語には、実は「聴」という漢字をあてる場合がある。相手の言葉に耳を澄ませ、ありのままであることを「ゆるす」という意味だそう。ぬかの声を聴くためのコンピューター「ヌカボット」は、まさに菌がありのままであることを「聴(ゆる)している」のだと言える。

現代をもっとも支配している概念「計算=コンピューテーション」の成立の背景には、世界を首尾一貫した閉じた体系に閉じ込めようという思想がある。だが、コンピューテーションにはもう一つ別の側面があると森田さんは言う。それは、計算をしていると時折「不可解なものが降りてくる」ということだ。

「数学は人間にとって都合のいいように認識を拡張してきたわけでは決してない。計算とは要するに規則によるデータの操作のことだが、意味解釈をやめて規則に身を委ねていると、不可解な、意味解釈不能なものが降りてきてしまうのだ。三次方程式を解いていたら、ルートの中にマイナスが『入ってきちゃった』のが虚数の発見。『せっかくだから入れてみよう』と意図的に拡張したわけではない」

つまり、意味がわからないものをそのままに「ゆるす」には、規則に身を委ねるしかないのだと森田さんは言う。「ヌカボット」は、まさにこの「ゆるす」方向に計算を使った例だ。一方で昨今よく言われる「人工知能が人間を凌駕する」というのは、カント的な相関主義の最先端。「ゆるす」に対して、計算を「さばく=裁く(価値判断)、捌く(効率よく物事を運ぶ)」方向に使っているのだと森田さんは表現する。

環境問題について考えるには、コンピューテーションが不可欠だ。たとえば、地球温暖化。未来の気候をシミュレーションするには膨大な計算量が必要で、「暑い」「寒い」というぼくら自身の実感からは一旦離れるよりほかない。まさに規則に身を委ねるしかない時代がやってきている。

子供こそが希望。未来に対してatuneせよ

あるがまま、ただそこにいることがいかに尊いことか。その象徴が子供だ。

教育とは本来、大人が子供に対して一方的になにかを教えるという類のものではない。子供が「いる」だけで大人も学んでいるのだと森田さんは言う。なぜなら、日本語(に限らず、あらゆる言語)の文法とは、過去の思考が化石化したもの。もちろんそれは偉大なツールなのだが、一方で大人は、それにとらわれてしか発想できない。自由な発想をする上では、子供の「まだ日本語を身につけていない」こと自体がとてつもないリソースであるということだ。

「その可能性に満ちた子供たちを、一方的に知識を授けるという相変わらずなモデルで教育する学校に閉じ込めるのはどうなのか」という問題があるのだが、一方で昨今もてはやされるオンライン授業にも、授業のうまい一部の先生以外の大人から「子供から学ぶ機会を奪う」という大きな問題がある。それはまさに、宇沢先生のいう「社会的共通資本」が貧しくなる方向を意味している。

子供たちがもつ言語モデルの中に拘束されない感受性、それはすなわち、未来に対するアトゥーンメント(調子を合わせること)だと森田さんは言う。「グレタ・トゥーンベリさんがすごいのは、私はこう思うと主張しているのではなく、未来に調子を合わせていることだ。地球温暖化の問題は自分がいない未来の話。だから、それについて考えるためには、必ず未来に調子を合わせる必要がある」

ぼくはこの話を聞いて、自分の仕事について考えないわけにいかなかった。人の話を聞き、聞いた話をもとに記事を書くのがぼくの仕事だが、はたしてぼくは、いつを生きる人に向けて記事を書けばいいのか、と。世の中の人が「いま」感じている関心に応える記事を書けば、手っ取り早く大きな反響を得られることは確かだろう。だが、それが本当にやるべきことなのだろうか。

「誰に対して」というのは常々考えてきたことではあるけれど、それに加えて、時間軸をもっと意識せねばと思わされたのだった。

「人生の最後に誰かに言葉を遺すとしたら?」と問いかけるドミニクさんの「LastWords/TypeTrace」という作品も、まさに未来に対してアトゥーンしたものだと言える。「未来に対してアトゥーンする仕事こそが人の魂を揺さぶる」という森田さんによる指摘は、ぼくの心に深く突き刺さった。

究極の理想を追い求めることの意味

このように、環境のことを考えることは、相関的な世界に毒されてきたぼくらにとってのリハビリとなる。毎年台風が巨大化していったり、エアコンを入れないと夏が過ごせなくなっていったりすることを経験する中で、望むと望まないとに関わらず、そうしたリハビリを迫られる。

希望となるのは、子供たちの存在だ。環境の変動にもっとも敏感に反応し、新しい言葉を組み立てていく可能性をもった子供たちが、その発想をしっかりと表現できるようになり、またぼくらに向けて発信できる場所が与えられることが大切になる。宇沢先生がリベラルアーツの一貫教育の場として学校を構想したのも、そういうことだったのではないか、と森田さんは言う。

人間中心的な発想を超え、お互いがあるがままあることを「ゆるす」ーー。きれいごとのように聞こえるかもしれないが、ある種夢のような、究極の理想を考えるのが数学という学問だ。その意味で宇沢先生は、やはり数学者的な気質を持った人だったのだろうと森田さんは続ける。

「こうした理想を『現実には作動しない夢物語だ』とか『社会に簡単には実装できない』と批判するのは簡単だが、そういう理想的なものの中で言葉を磨き、思考を磨くことが人を導く。現実にはさまざまな残念な一面があることも確かだが、その一方で、人間の知性はこんなにも素晴らしい理想を思い描くこともできる。宇沢先生の思索のあとは、時空を超えてそのことを示してくれている。本人亡きいまも、ぼくらの生き方を後押ししてくれている」

いや、本当にその通りだよ!と思った。なにをやるにも「現実的な制約が・・・」と言われるし、「行動、実装こそが正義だ」とも言われがちな時代だけれども、すべては理想を思い描くところから始まるんだとぼくも思う。

◆◆◆

ほかにもとにかく意味のある情報が多くて、またぼく自身がこれまでに経験してきたことともそれがつながって、なんとも刺激的な90分だった。

たとえば、「受動と能動という考え方自体がバグってる」という指摘には國分功一郎さんの『中動態の世界』を思ったし、「人間とモノとは本来対等で、人間がモノにアクセスする時にはモノを人間の形に変えているけれども、同時にモノは人間をモノの形に変えている」という話には、西田哲学の「逆限定」を思った。また、この二つの話が実は非常に近しいところにあることに気づいたりもした(違うかもしれないけど)。

こういう時間を過ごすと読みたい本もどんどん増えていって、そうした趣味と仕事とがまだ完全には一致していないぼくみたいな半端者にとっては、仕事をする時間がまた減っていく・・・。

能の「見立て」の話とか、トリクルアップ・エコノミーとか、アイデンティティはそもそも「not A」という形でしか成立しないとか、まだまだシェアし足りない、語りたいことが山ほどある。でも、「それもいいけど仕事もしろよ」という声がリビングのほうから聞こえてきそうなので、今回はこの辺で筆を置くこととします。

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